第45話 冷却
初夏の王立大学校は、暑さがせまりつつあった。
窓は開いている。風も入っている。だが、砂糖研究会の部屋には、焼き菓子の炉の余熱と、煮詰めた糖液の甘い匂いが残っていて、外よりも一段と暑い。
机の上には、試作した甘味飲料が並んでいた。
糖化させた麦芽液に、柑橘を少し加え、香草の香りをほんのわずかに移したものだ。出来上がった直後は、なかなか評判がよかった。甘いが、柑橘が後味を締めるので飲みやすい。水飴の柔らかい甘味も悪くない。
ただし、問題があった。
ぬるい。
初夏の部屋に置いておけば、当然である。飲み物は冷たいまま待っていてはくれない。
フローレが杯を持ち上げ、少し残念そうに口をつけた。
「味は悪くありませんのに……ぬるいですわね」
ノエミは、もっと直接的だった。
「あーあ。氷魔法があれば、こういう甘味飲料も冷やせるのに」
その言葉に、ヘレーネが工具袋を整理しながら顔を上げた。
「氷魔法なんて、子ども向けのおとぎ話にしか出てこないわよ」
「でも、火魔法はあるでしょう。熱くできるなら、冷たくできてもよさそうじゃない?」
「熱を出すのと、熱を消すのは別でしょう」
ヘレーネはそう言って、エミリアのほうを見た。
こういう話は、エミリアへ向かう。魔法物理の話になるからだ。
エミリアは、少し考えてから頷いた。
「火魔法は、魔素が魔力や熱や光を放出することで起こります。でも、そこにある熱を吸収する魔法は、今の理屈では組めません。少なくとも、私は冷却魔法を見たことがありません」
「誰か、使える人はいないのですか?」
アグネス・ミルデンが、素朴に聞いた。
今日は、ミルデン領から王都へ来たついでに、砂糖研究会へ顔を出していたのである。麦わら帽子こそ脱いでいるが、どこか牧場の空気をまとった令嬢だった。王都の応接間より牛舎や加工場のほうが似合う、と言ってしまえば失礼だが、本人もたぶん否定しないだろう。
「少なくとも、私は知りませんねえ」
エミリアが答える。
「古い物語には氷の魔女とか、冬を呼ぶ魔法使いとか出ますけど、実際に誰かが使った記録は見たことがありません。冷却魔法は、今のところおとぎ話です」
「そうですか……」
アグネスは、少しだけ本気で残念そうな顔をした。
「ミルデンでは、冷やせると助かるものが多いんですよね」
「乳製品ですの?」
フローレがすぐに反応した。
「はい。牛乳は、搾った瞬間から傷み始めます。朝に搾ったものでも、暑い日に扱いを間違えると、昼には味が変わります。バターも、暑いとすぐに柔らかくなりますし、肉も同じです」
アグネスは、いつもの穏やかな調子で続けた。
「真冬なら、肉蔵に吊るして少し保たせることができます。でも夏は駄目です。屠殺したら、その日のうちに食べる分を決めて、残りはすぐに塩漬け、干し肉、油漬けへ回します。のんびりしていると、肉が待ってくれません」
「冷たい部屋があれば、変わりますわね」
「はい。冷たい部屋とまでは言いません。せめて、牛乳やバターや生肉を少しのあいだ冷やしておける箱があれば、それだけで作業が楽になります」
その言葉で、部屋の空気が少し変わった。
甘味飲料がぬるい、というだけなら、ただの不満である。
だが、牛乳、生肉、バターとなると、領の仕事になる。保存、輸送、加工、販売に直結する。アグネスにとって冷却は、優雅なお茶会の贅沢ではなく、現場の切実な願いだった。
エミリアは、しばらく黙ってから立ち上がった。
「冷却魔法はありません。でも、昔の錬金術師が、機械で冷たい風を作ったという文献ならあります」
「機械で?」
エディが顔を上げた。
砂糖研究会では珍しい男子学生で、通信士であり工学関係でもあるので機械の操作や整備を任されることが多い。ノエミの近くにいることが多いせいで、周囲からは半ば研究会の一員として扱われていた。
「はい。かなり古い本ですが、たしか、これだったかと」
エミリアは書棚の奥へ行き、革表紙の分厚い本を引っ張り出した。表紙は擦り切れ、背表紙の文字は半分ほど消えている。
机に置くと、薄い埃が舞った。
「大錬金術師ゼノン様の雑記集です」
「雑記集?」
「研究記録というより、構想や覚え書きの集まりです。かなり怪しい話も多いです。『夏の日に霜を呼んだ』とか、『王の葡萄酒を冬の泉のように冷やした』とか」
「うさんくさいですわね」
フローレが正直に言った。
「ええ。でも、ポンチ絵なら、この本に書いてあります」
エミリアは、黄ばんだページを慎重にめくった。
やがて、あるページで手を止める。
そこには、古いインクで描かれた構想図があった。
風車。
回転軸。
曲がった腕。
上下する棒。
筒。
弁らしき小さな板。
そして、空気の流れを示す矢印。
正確な設計図ではない。
寸法もない。材料も書いていない。どこをどれくらい削るのか、軸をどの太さにするのか、弁を何で作るのか、そういう実際の製作に必要なことはほとんど分からない。
だが、ただの挿絵ではなかった。
力がどこからどこへ伝わるのか。空気がどの方向へ流れるのか。どこで押し縮め、どこで出すのか。それだけは、妙に具体的だった。
エディの目の色が変わった。
「……これは、ただの寓話ではないですね」
「分かりますの?」
フローレが聞く。
「少なくとも、誰かが仕組みを本気で描いています。風車の回転を、この曲がった腕で上下運動に変えている。そこから棒を動かして、筒の中の空気を押す。これはたぶん、空気を押し縮める機械です」
「空気を押し縮めると、冷えるのですか?」
アグネスが聞くと、エディは、うーん、と首を横に振った。
「いえ。たぶん逆です。押し縮めた空気は、熱くなるはずです」
「熱くなるのに、冷たい風?」
ノエミが首をかしげた。
エディはそこで黙った。機械の形は読める。だが、なぜそれで冷えるのかは、直感では何となく分かるが、言葉にするのが難しい。
エミリアが、ポンチ絵の矢印をなぞった。
「ここで押し縮めた空気を、いったん冷ましていますね」
「冷ます?」
「圧縮した空気は熱くなる。だから、その熱を水か何かに逃がして常温に近づける。そのあと、細い口から一気に広げる。広がるときに温度が下がるから、風が冷たくなる」
ノエミが、すぐに頷いた。
「冷たさを作っていると言うよりは、熱の出る場所を変えている。熱い場所があるなら、その分だけ別の場所が冷たくなる」
エミリアが言った。
「魔法で熱を消すのではなく、熱を移す機械です」
ヘレーネが身を乗り出した。
「空気を押し縮める筒が空気の熱を捨てる場所。それから、こちらが広げて冷やす場所ね、別の場所にしているのね」
「あと、弁です」
エディが即座に言った。
「ピストンが吸う時と押す時で、空気の流れる向きを変えないといけません。戻ったら意味がない。この小さい板は、たぶん弁です」
ヘレーネが笑った。
「急に元気になったわね」
「こういう絵は好きですよ。寸法が無いのは困りますけど」
「寸法が無いからポンチ絵なのよ」
ノエミが楽しそうに言った。
「昔の天才が残したポンチ絵を、今の大学校で動かしてみるって、ちょっと面白くない?」
エディは、古い構想図から目を離さなかった。
「……工学的には、試せると思います。最初から金属で作るのは難しいので、木で作りましょう。木の筒、木のピストン、革の弁。動力は、大学校の裏を流れている水路から水車で取れます」
「木で空気を押し縮められますの?」
アグネスが聞いた。
「完璧には無理です。でも、最初に知りたいのは、まず原理的に冷えるかどうかです。実用品になるかどうかは後回しです。空気を圧縮できるか。熱を逃がせるか。膨張したときに冷たい風になるか。そこまで確認できれば、木製試作としては十分です」
ヘレーネが満足そうに頷いた。
「いいですね。冷却器を作る前に、まず原理を確かめる」
フローレは、ぬるくなった甘味飲料を見下ろした。
「では、最初の目標はこれですわね」
「飲み物ですか?」
「ええ。牛乳や肉は、アグネスさんにとって大事な仕事ですけれど、最初からそこへ行くには責任が重すぎます。まずは、わたくしたちの甘味飲料を冷やしましょう」
アグネスも、にこりと笑った。
「それで冷えたなら、いつか牛乳もお願いします」
「それでも、最初の一歩としては十分だね」
エミリアは古い本を閉じずに、ページの端を押さえたまま言った。
「では、最初の実験は水車小屋ですね」
◇◇
それから数日間、大学校の工房は木屑だらけになった。
エディたち工学系の学生5名は、まず硬めのオーク材を選んだ。家具や車輪にも使われる木で、柔らかい木よりはずっと丈夫である。
作るのは、空気を押し縮めるための筒と、その中を往復するピストンだった。
筒とピストンの隙間は、小さくなければならない。隙間があれば、空気が漏れる。だが、小さくしすぎればピストンが動かなくなる。
空気を漏らさず、けれど滑らかに動く。
言葉にすれば簡単だが、木でそれを成立させるのは、最初から難しかった。
「入らない」
削り出したピストンを筒の口へ当てたエディが、低い声で言った。
「少し削りすぎると漏れる。削らないと入らない。これは嫌な調整だな」
「あまり強く押し込むなよ。噛んだら、もうどうにも抜けなくなる」
木工に明るい学生が横から言った。
「軽く当てて、回すんだ。どこが当たっているかを探す」
エディは言われた通り、ピストンを筒の口へ浅く入れ、手でしゅるしゅると回した。
最初は軽い音だった。
しゅる、しゅる。
だが、あるところで音が変わる。
ぎり。
「ここか」
引き抜くと、ピストンの側面に細い擦れ跡がついていた。そこだけ、木の表面がわずかに光っている。
「当たってる場所が分かった。そこだけ削る」
薄く削る。
布に砥粉をつけて磨く。
もう一度差し込んで、手で回す。
しゅる、しゅる、ぎり。
「まだ当たる」
「削りすぎるなよ」
「分かってる。削りすぎたら戻らない」
削る。
磨く。
回す。
抜く。
擦れ跡を見る。
また削る。
それを何度も繰り返した。
やがて、ピストンは筒の奥まで入るようになった。だが、まだ滑らかではない。途中で重くなる場所がある。
「軸脂を持ってこい」
学生の一人が、小さな壺を差し出した。中には、白っぽく濁った軟膏のようなものが入っている。
「豚脂か?」
「豚脂を煮て、浮いた汚れを取ったものだ。少し蜜蝋も混ぜてある。車輪の軸に使うものより柔らかくしてみた」
「においがあるな」
「文句を言うな。安くて手に入るんだ」
エディは布の端に脂を取り、ピストンの周囲へ薄く塗った。もう一度、筒へ入れる。
手で回すと、回転が少し軽くなった。
にゅるん。
「入った」
「押せるか?」
エディはピストン棒を握り、ゆっくり押した。
ぬるり、と動いた。
水車につないでいない、手だけの動きである。それでも、さっきまでとは違う。木と木の間に脂の薄い膜が入り、わずかな隙間を埋めながら、動きが軽くなっている。
「……動く」
エディは、少しだけ笑った。
その横で、フローレが鼻を押さえた。
「その脂、少し臭いますわね」
「機械の油なんて、だいたいこんなものです」
「冷たい飲み物を作る機械のそばで、獣脂の匂いがするのは納得できませんわ」
「冷えるまでは我慢してください」
「冷えたら、脂の匂いがしない場所で飲ませてくださいませ」
その時すでに彼は、ピストンを手で回しながら、次の擦れ跡を探していた。
◇◇
水車小屋へ持ち込まれた木製圧縮器は、見た目は立派だった。
大学校の裏手を流れる水路に小さな水車を置き、その回転を木製歯車で受ける。歯車から長い棒を通じて小屋の中のクランクへ、クランクから上下する棒へ、そして棒がピストンを動かす。
ゼノンのポンチ絵を、そのまま小さく作り直したようなものだった。
「水門、少しだけ開けろ」
エディの声で、水路の板が上げられた。
ごぼごぼと水が流れ込み、水車がゆっくりと回り始める。
水車は、遠くから見れば穏やかだった。
だが、軸のそばで見ると違う。羽に当たる水の量は一定ではない。水流は脈を打ち、木の軸は重さを受けてわずかに沈み、回るたびに位置が揺れる。
エディたちは最初、その揺れを精度で押さえ込もうとした。
「クランクの中心がずれてる。もっと削って合わせよう」
「軸受けを締める。ガタがあるから駄目なんだ」
しかし、締めれば締めるほど、動きは重くなった。
水車が回る。
歯車が回る。
クランクが一度、二度、三度と回り――四度目で、ぎぎ、と止まる。
「また噛んだ!」
エディは床に膝をつき、軸の動きを睨んだ。
「中心は合ってるはずだ。さっきより精度も上げた。それなのに、どうして止まる」
ヘレーネは少し離れたところで、水車全体を見ていた。
「……逆かもしれないわ」
「逆?」
「精度を上げすぎてる」
エディが顔を上げた。
「精度が悪いから止まるんじゃないのか?」
「小さい時計なら、そうかもしれない。でも相手は水車よ。木でできていて、水に押されて回って、軸も架台も少しずつゆさゆさ揺れている。そんなものに、ぴったり噛み合う部品をつけたら、揺れを逃がす場所がなくなる」
ヘレーネは、クランクの穴を指で示した。
「ここに少し遊びを作る。前後左右に、ほんの少し逃げられるようにするの」
「隙間を作ったら、力が逃げる」
「全部逃がすんじゃないわ。回転は伝える。でも、ずれだけ逃がす」
エディは、しばらく黙った。
そして、クランクの穴を見た。
「……丸穴じゃなくて、角棒と角穴で受けるか」
「そう。軸を四角にする。角で回転を受ければ、多少ガタがあっても空回りはしない。でも、穴に少し余裕を持たせれば、軸の揺れは吸収できる」
エディの目が変わった。
「精度を下げるんじゃない。壊れないための隙間を設計する」
「そういうこと」
ヘレーネは頷いた。
「機械は、全部ぴったりにすればいいわけじゃない。大きくて重いものほど、逃げ道が要る」
その言葉は、その場にいた工学系の学生たち全員に刺さった。
彼らは、さっそくクランク穴を削り直した。軸は四角。穴は少しだけ大きく。回転の力は角で受けるが、前後左右の揺れは遊びで逃がす。
三度目の試運転。
回転するたびにかたかた、と頼りない音がした。
しかし、今度は止まらなかった。
「回った!」
「よし、次。ピストンへつなぐ」
ここからも、問題は次々に出た。
「ピストンが斜めになる。ピストンの長さをもうちょっと伸ばすように作り変える」
「弁が戻らない。弁の革を薄い柔らかいものに」
「管の継ぎ目から漏れてる。銅管を錫でロウ付けお願い」
「水車が速すぎる。水門を絞れ。最初から全開にするな」
一つ直せば、別の問題が出る。
それでも、装置は少しずつ動きに近づいていった。
圧縮した空気は、まず熱くなる。だから、そのまま箱へ入れても意味がない。エディたちは、桶に水を張り、その中へ細い銅管を沈めた。圧縮された空気をその管へ通し、熱を水へ逃がす。
そのあと、細い口から一気に広げる。
冷えるとすれば、最後のところだった。
エディが吹き出し口の風に指をかざした。
「一応、冷たい空気にはなってるっぽい」
◇◇
昼を少し過ぎたころ、水車小屋の中に、妙に静かな時間が訪れた。
水車は回っている。
木製の歯車も回っている。
クランクが上下に棒を動かし、その先の木製ピストンが、筒の中を往復している。
しゅこっ。
しゅこっ。
しゅこっ。
まだ頼りない。
まだ粗い。
まだ、どこか一つ狂えば止まりそうだ。
それでも、装置は動いていた。
木の筒の中で空気が押し縮められ、押し縮められた空気は管を通って、水を張った桶の中へ入る。桶の中の銅管を通る間に、熱は水へ逃げていく。
そのあと、空気は小さな木箱の脇に取り付けられた細い口から、箱の中へ吹き込まれていた。
箱は立派なものではない。
大きい木箱に小さい木箱を収め、隙間に布を詰め、蓋の周りに革を当てただけの、急ごしらえの冷却箱である。完全に空気を閉じ込められるわけではなく、冷たい風のかなりの部分は隙間から逃げている。
だが、今はそれでも十分だ。
箱の中には、フローレが持ってきた甘味飲料の瓶が入っていた。
「……そろそろ見てもいいですわよね?」
フローレが、冷却箱の前にしゃがみ込んだ。
「まだ早いかもしれません」
エディはそう言ったが、声に力がなかった。
もう彼自身も見たかったのである。
「開けますわ」
フローレは、蓋をそっと持ち上げた。
中から、ひんやりした空気が漏れた。
強い冷気ではない。冬の風のようなものでもない。けれど、暑い水車小屋の空気とは明らかに違う、少し低い温度の空気だった。
フローレは瓶を取り出した。
瓶の表面には、細かな水滴がついていた。
「……濡れていますわ」
「それは、水が漏れたわけではありません」
ミレイユが、横から静かに言った。
「たぶん、空気中の水分です。瓶の表面が冷えて、そこに水がついたのでしょう」
「つまり?」
ノエミが聞く。
「瓶が冷えている、ということですわ」
その言葉に、水車小屋の中の視線が瓶へ集まった。
フローレは、瓶に指を当てた。
そして、目を丸くした。
「……冷たいですわ」
アグネスもそっと触れた。
「本当です。冷たいです」
ヘレーネも指先で確かめる。
「室温より、はっきり低いわね」
エミリアは、瓶ではなく桶の水に指を入れた。
「こちらは温かくなっています」
桶の水は、最初より明らかにぬるくなっていた。
冷却箱の中では、瓶が冷えている。
その一方で、桶の水は温かくなっている。
熱は消えていない。
ただ、移動しただけだ。
ノエミが笑った。
「冷たい場所を作るには、熱を捨てる場所が必要になるんだね」
「魔法で冷やしたわけではありませんから」
エミリアは小さく頷いた。
「冷たさを作ったというより、熱の場所を変えたのですね」
「それでも、飲み物は冷えていますわ」
フローレは、そこが一番大事だと言わんばかりに、瓶の栓を抜いた。
小さな杯に注ぐ。
淡い甘味飲料が、杯の中で光った。
フローレはまず自分で一口飲んだ。
次の瞬間、彼女の表情が変わった。
「……美味しいですわ」
「それは、もともと美味しい飲み物だからでは?」
ヘレーネが言う。
「違います。冷えているから、甘さがしつこくありません。柑橘の香りも、ぬるい時よりきれいに立っています。これは別物ですわ」
その評価は、機械の動作報告よりも、工学系の男子学生たちに効いた。
床に座り込んでいた一人が、震えるように片手を上げる。
「……飲ませてくれ」
「僕も」
「俺にも」
「順番ですわ」
フローレは、妙に楽しそうに杯を並べた。
エディにも杯が渡された。
彼は、油と木屑で汚れた手を見て、いったん躊躇した。ノエミが布を差し出す。エディは手を拭き、杯を受け取り、一口飲んだ。
冷たい。
それだけのことだった。
けれど、その一口で、朝から続いていた疲れが、少しだけ別のものに変わった。
「……冷たい」
エディの声は、ほとんど呟きだった。
それでも、水車小屋にいた全員が聞いていた。
ノエミが笑う。
「勝った?」
エディは、杯を持ったまま、しばらく考えた。
「……今日は、勝った」
その言葉で、工学系男子たちの間から、ようやく小さな歓声が上がった。
大きな歓声ではない。
全員、疲れ切っていた。喉も乾いていたし、腕も肩も痛かった。水車小屋の床には木屑が散り、豚脂の匂いが残り、分解した弁の部品がまだ作業台の端に転がっている。
それでも、飲み物は冷えた。
魔法ではない。
その事実は、十分に大きかった。
◇◇
だが、成功の時間は長くは続かなかった。
夕方が近づくころ、水車小屋の音が変わった。
朝には、しゅこっ、しゅこっ、と軽く動いていたピストンが、今は時々、ぎぎ、と嫌な音を混ぜている。
冷たい風も、最初ほど勢いがない。
管の先に手をかざすと、まだ少し冷たい。だが、昼前のようなはっきりした差ではなかった。風量も落ちている。
「止めよう」
エディが言った。
「これ以上動かすと、壊す」
誰も反対しなかった。
水門が閉じられた。
水車の回転が、ゆっくりと落ちていく。歯車の音が小さくなり、クランクが止まり、木製ピストンは筒の途中で静かに止まった。
動いている間は頼もしく見えた装置が、止まった途端に、急ごしらえの試作品に戻ったように見えた。
「分解します」
エディはそう言って、筒の固定を外した。
木製シリンダーを作業台へ運び、慎重に外す。中を見た瞬間、学生たちは同時に顔をしかめた。
内側は黒く汚れていた。
削れた木粉と豚脂が混ざり、そこへ冷えた場所で生じた水分が加わって、泥のようなものになっている。筒の内側には斜めの擦れ跡があり、ピストンの側面にも、強く当たった痕が残っていた。
ピストンは、途中で少し噛んでいたらしい。
「……やっぱり、長時間は保たないか」
エディは、悔しそうではあったが、驚いてはいなかった。
「半日動いたなら、木製試作としては悪くない。けれど、これを冷却器として使い続けるのは無理だな」
木工に明るい学生が、ピストンの断面を見て頷いた。
「木が変形してる」
「変形?」
「年輪の向きで、膨らみ方も縮み方も違う。朝に真円だったものが、昼にはもう真円じゃない」
彼は、ピストンの断面を指で示した。
「木はどの方向にも同じように膨らむわけじゃない。水気を吸った時も、熱を受けた時も、年輪に沿う方向と、中心へ向かう方向で動き方が違う。ここは膨らんで筒に噛んだ。こっちは逆に隙間が空いて、空気が漏れた」
「その隙間から漏れて、膨らんだところで擦って、削れた木粉が脂を吸って、さらに動きが悪くなったわけか」
エディは、黒く汚れたピストンを作業台に置いた。
「木で、動くことは分かった。圧縮した空気を水で冷まして、細い口から広げる。そうすれば、確かに冷たい風が出る。飲み物も冷えた」
「木では長時間保たない。では次に何で作るか」
ヘレーネがそう言いかけたところで、エディが片手を上げた。
「それは、明日にしてください」
「疲れた?」
「疲れました。最後に飲み物が冷えたから、今日はこれで終わらせてください」
アグネスは、嬉しそうに頷いた。
「冷たい飲み物ができたなら、牛乳もいつか冷やせますね」
◇◇
その日の夕食で、エミリアは大学校での出来事を家族に話した。
王都のグレンウッド邸の食卓には、父のオーウェン、母のエリザベス、オリビアがいた。王都滞在中の家族で囲む食卓は、研究室ほど騒がしくはないが、話題はたいてい何かしら実務に寄っていく。
「今日、大学校でエディさんたちが、飲み物を冷やす機械を作りました」
エミリアがそう言うと、食卓の空気が少し止まった。
父オーウェンが、まず反応した。
「飲み物を冷やす機械?」
「はい。木製なので長くは動きませんでしたけれど、圧縮した空気を水で冷まして、それを膨張させると、冷たい風が出ました」
「空気を冷やすのか」
「正確には、熱くなるところと冷たくなるところを別にする感じです。桶の水は温まりましたから」
オーウェンは少し考え込んだ。
「……夏場の牛乳や野菜、肉にも使えるかもしれないな」
「アグネスさんも、最初にそれを言っていました。牛乳や生肉を冷やせると助かると」
オリビアも、手を止めた。
「冷たい場所が作れるなら、食品の保管も変わるかもしれません」
「まだ木製試作です。半日で動きが悪くなりました」
「半日でも、飲み物は冷えたんでしょう?」
「はい」
エミリアが頷くと、食卓の端で、エリザベスが静かに顔を上げた。
「薬品庫」
ぽつり、と言った。
「え?」
エミリアが聞き返す。
エリザベスの目が、妙に鋭くなっていた。
「薬液、軟膏、薬草の抽出液、寒天保護材。暑い季節に傷みやすいものはいくらでもあるわ。冷やせるなら、薬品庫の扱いが変わる」
「あの、母様。まだ、飲み物を冷やしただけで……」
「飲み物が冷えるなら、薬も冷えるでしょう?」
「それは、たぶん……でも、長時間はまだ……」
エリザベスは、にこりと笑った。
きらーん☆
治癒師としての母が、何かを見つけた時の顔だった。
エミリアは思った。
しまった。
これは、次の面倒なことが始まる顔だ。
冷却器は、まだ一杯の甘味飲料を冷やしただけである。
しかし、その一杯は、どうやら食卓の上だけでは終わらないらしかった。




