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第46話 きれいなみず

 砂糖研究会の会合は、いつものように甘い匂いから始まった。


 焼き菓子の残り香、焦がし砂糖、乾いた粉、瓶詰めの麦芽糖液。机の上には菓子皿と記録紙が同じくらい当然のように並び、令嬢たちは茶を飲む手と、試食結果を書き込む手を交互に動かしていた。


 そこへ、セリーヌ王女が古い文献を一冊抱えて入ってきた。


 その本を見た瞬間、砂糖研究会の面々は軽く身構えた。王女がこういう顔で古文書を持ってくる時は、たいてい甘味だけでは済まない。


「皆様に、国の叡智として相談したいことがございます」


「殿下」


 エミリアが、おずおずと手を上げた。


「念のため確認しますが、ここは砂糖研究会です」


「ええ。存じておりますわ」


 セリーヌ王女は当然のように頷いた。


「ですから参りました」


 その言葉で、何人かが、これは逃げられない話だと身構える。


 王女は古文書を机に置き、少し楽しげにページを開いた。そこには、柱に囲まれた大きな建物と、湯気のような線が描かれていた。


「昔は、テルマエというものがありました」


「てるまえ……?」


 フローレが首を傾げる。


「湯殿のようなものですの?」


「王宮や貴族の屋敷の湯殿とは違います。町の人が使うための湯の施設ですわ。身体を洗い、温まり、休み、また働きに戻る。そういう場所だったようです」


 その瞬間、砂糖研究会の空気が少し華やいだ。


 フローレはすぐに、湯上がりに出す飲み物と軽い菓子を考え始めた。温かい湯のあとなら、甘くて薄い飲み物がよい。汗をかくなら少し塩気も要るかもしれない。ミレイユは香油や石鹸、肌の洗い方へ思考を滑らせ、エルザは桶、手拭い、脱衣籠の管理を考え始めた。


 ヘレーネは湯をどう沸かすか、熱をどう逃がさないかに目を細め、ノエミは「一日に何人使うのか」で紙の端に数字を書き始めた。


 エミリアも、少し遅れて口を開く。


「湯を大量に沸かすなら、火の熱を水へ効率よく――」


「その話は、まだ少し先ですわ」


 セリーヌ王女は、にこやかに言った。


 そして彼女が次に広げたのは、湯殿の絵ではなかった。


 王都の地図だった。


 さらに、王女の後ろから、一人の女性が進み出た。栗色の髪をきちんとまとめた、二十代後半ほどの女性だった。服装は華やかではないが、袖口は汚れにくいように留められ、背には地図筒を背負っている。


「こちらは、王都施設局補佐官のマルティーヌ・ベルトランです。今回の実務を見ていただきます」


 マルティーヌは、静かに一礼した。


「王都の上水、下水、雨水路の整備を担当しております。よろしくお願いいたします」


 砂糖研究会の面々は、文献と地図と行政官を順に見た。


 お風呂の話だったはずなのに、どう見ても水路の話である。


「……浴場の図面ではありませんの?」


 フローレが少し残念そうに尋ねる。


「ええ」


 セリーヌ王女は、地図に描かれた青い線を指でなぞった。


「湯殿の絵を見る前に、水がどこから来て、どこへ行くかを見ます」


 机の上の空気が、一気にいつもの研究会へ戻った。


◇◇


 王都には、上水路がある。


 ただし、それは各家庭の台所まで水が届くようなものではない。王都の外から引き込まれた水路が、街区の入口や広場の水場の前を通る。そこまで人が桶を持って行き、水を汲む。


 近い家なら数十歩。遠い家なら数百歩。富裕な家では使用人や水売りが運び、庶民は自分で桶を担ぐ。水はある。けれど、水は歩いて取りに行くものだった。


「王都の上水は、こちらの大河から引いております」


 マルティーヌが、地図の端に描かれた太い川を指した。


「王都は大河の流域そのものではありません。比較的上流から、十キロほど水路を引いております。水源から王宮までは蓋付きで、王家直属騎士団の巡回路でもあります」


「騎士団が、水路を見回るのですか?」


 エミリアが聞き返す。


「はい。王宮の水ですから」


 マルティーヌの声は、淡々としていた。


「料理にも、薬にも、儀式にも使います。毒や汚物を流されれば、王家そのものが狙われることになります。蓋を勝手に開けるだけでも重罪です。実際に毒や汚物を入れれば、場合によっては命で償うことになります」


 フローレが、少しだけ背筋を伸ばした。


 水路と聞くと、ただの石と水の道に思える。けれど、王宮へ向かう上水は、王家の喉元でもあるのだ。


「王宮を通った上水は、そこから貴族街へ流れ、さらに一般街へ流れていきます」


 マルティーヌは青い線を下流へなぞった。


「つまり、一本の上水です。ただし、王宮に届くまでの水は蓋付きで守られています。貴族街、一般街へ進むにつれて、汲む場所が必要ですからいくつかに分岐し開いている水路が増えます。同じ上水でも、どこを通ってきたかで状態は変わります」


「下水は、同じ川へ戻すのですか?」


 エミリアが尋ねる。


「戻すのは、王都を通した後のかなり下流側になりますね」


 マルティーヌは、今度は黒い線を指した。


「王都の下水は、下水幹線でまとめて大河の下流へ出します。王都のすぐ横には山嶺から来る小さな川も何本かありますが、そちらへ下水は流しません。むしろ雨水を下水の方に流すことはあります」


「なぜですの?」


 フローレが尋ねると、マルティーヌの表情が少し硬くなった。


「過去に失敗しております。小さな川は、雨水を逃がす程度には使えます。けれど、下水を受け止めるほどの力はありません。汚れが薄まらず、町の中を流れる小川がドブ川になりました」


 ミレイユが頷いた。


「流れているから消える、というわけではありませんのね」


「はい。水には、受け止められる限度があります」


 その一言は、会議室を少し静かにした。


 水は流れる。けれど、何でも流してよいわけではない。


◇◇


 セリーヌ王女は、古文書の絵をもう一度開いた。


「王宮にも湯船はあります。けれど、あれは日々使うためのものではありません。月に数度、儀式や外交のために湯を張るものです」


 王宮の湯船には、大量の水と燃料が要る。水を運ぶ者、湯を沸かす者、温度を見る者、床を拭く者、使った湯を捨てる者。湯船を満たすことは、身体を洗うというより、王宮全体を動かす儀式に近かった。


 貴族の屋敷にも湯殿はある。けれど、そこでも日々ざぶざぶ湯に浸かっているわけではない。


「貴族の令嬢でも、湯を何杯も使うのは贅沢ですわ」


 エルザが少し苦笑した。


「わたくしは、よほど汚れていなければ大きめの桶一杯で済ませます」


「厨房に入った日や旅の後で髪を洗うときには、三杯くらい欲しいところですが、普段からそれだけ使う家ばかりではありませんわね」


 フローレも頷いた。


 屋敷で使う湯桶は大きい。湯を遠くから運ぶためだ。何度も往復すれば手間がかかり、運んでいる間に冷める。だから、屋敷の桶一杯は、洗い場で手に持つ小さな手桶一杯とは違う。


 温泉地のように、湯が自然に湧く場所なら別だ。ざぶざぶ湯に浸かる浴槽の存在は、多くの者が知っている。けれど、それは湯が湧く土地だからできる贅沢だった。王都で同じことをしようとすれば、水も燃料も排水も、すべて人の手で用意しなければならない。


「ですから、最初から湯船を満たすような施設にはしません」


 セリーヌ王女は、古文書の別の絵を指した。


 そこには、壁沿いに人が横一列に座り、その前を細い湯の流れが通っている図が描かれていた。人々は手桶で湯を汲み、身体や頭を洗っている。使った湯は足元へ流れ、別の溝へ落ちていくようだった。


「王都で最初に作るなら、このようになるかと思います。座って、前を流れる湯から小さな手桶で汲み、身体を洗う。汚れた湯は足元へ流す」


 ノエミがすぐにノートへ数字を書いた。


「湯船よりずっと水量が少なくて済むね。手桶一杯目で全身を濡らして、身体をこすって、二杯目で流して、三杯目で顔や髪を整える。追加で数杯くらいは許すとしても、大浴槽よりはずっと少ない」


「それでも、上水と下水は要ります」


 ヘレーネが図を覗き込みながら言った。


「前を流れる湯水路、使った湯を逃がす排水路。どちらも必要です」


「ですから、まず地図を見ます」


 セリーヌ王女は、静かに言った。


◇◇


 候補地の検討は、浴場の間取りではなく、水路の線から始まった。


 上水が近い。将来、下水幹線へ接続できる。試験の余水を一時的に雨水路へ逃がせる。木炭や薪を積んだ馬車が入れる。煙が王宮や貴族街へ流れにくい。王宮上水の保護区間に近すぎない。町の人が歩いて来られる。工事できる空き地がある。


 条件を並べるほど、候補地は消えていった。


「ここは上水が近いですが、王宮上水の管理区間です」


 マルティーヌが言った。


「王宮より上流に、民衆が集まる浴場を接続するわけにはいきません」


「こちらは?」


 エミリアが別の場所を指す。


「下水幹線に近いですが、上水路が遠いです。毎日、桶の行列を作ることになります」


「ここは、職人街から近いですね」


「利用者は多いでしょう。ただし煙が貴族街へ流れます。湯を沸かすには燃料を使いますので、苦情が出ます」


 候補がひとつずつ消える。


 最後に残ったのは、王都外周の一角だった。


 上水路が城壁の外側から入り、古い馬車洗い場の近くを通る場所。近くには雨水路があり、さらに先へ延ばせば下水幹線へ落とせる溝もある。道幅もあり、薪や炭を運ぶ馬車も入れる。王宮や貴族街からは少し離れていて、煙も直接流れ込みにくい。


 セリーヌ王女の指が、その場所で止まった。


「となると、可能性はここね」


 その一言で、机の上に散らばっていた問題が、ひとつの場所に収束した。


◇◇


 数日後、砂糖研究会の面々は、その候補地へ向かった。


 そこは王都の中心から少し外れた、石畳の途切れ目に近い場所だった。古い馬車洗い場の名残があり、石で囲われた低い洗い場と、使い古された水桶が並んでいる。近くを、上水路が静かに流れていた。


 そして、その脇には、すでに小さな仮設小屋が建っていた。


 立派な建物ではない。柱を打ち、板壁を張り、片側を開けただけの、雨よけと道具置き場を兼ねた小屋である。中には網、濾し布、小さな隙間のある木箱、水瓶、机が並べられていた。


「早いですわね」


 フローレが驚くと、マルティーヌはノートを抱えたまま答えた。


「とりあえず調査用の仮設小屋をおきました。ここで水を採り、観察し、風呂用水として整えられるかを確認します」


 見た目には、悪くない水だった。


 陽の光を受けて、表面がきらきらしている。底の石も見える。強い臭いもない。下水のようないやな臭いはしない。


 水番の老人が、桶で水を汲みながら言った。


「このあたりの水は、悪くありませんよ。上の方から来ていますし、下水も混じりません」


「飲めますの?」


 フローレが尋ねると、老人は少し考えた。


「まあ、飲む人もおります。布で濾して、水瓶に入れて、落ち着かせてからですがね。心配な家は沸かします」


 そう言いながら、老人は近くの水瓶を指で二度、こんこんと叩いた。


 フローレが首を傾げる。


「今のは?」


「虫を避けているんでさ。上の方にいるのを、そのまますくうと嫌でしょう」


 砂糖研究会の面々が、そろって水瓶を覗き込んだ。


 透明に見えた水の中で、小さな影がいくつか動いた。


「ええっ……」


「……これを、飲みますの?」


 フローレの声が、少しだけ細くなった。


「濾しますよ。急ぎなら上澄みをすくう人もいますがね」


 老人は、ごく普通のことを言う顔をしていた。


 アデリーヌ・ブランシャールだけは、驚かなかった。発酵と生物を専門とする彼女にとって、水の中の生き物は観察する対象だった。


「少し、見てみましょう」


 アデリーヌが取り出したのは、掌に乗るほどの小さな観察器だった。薄いガラスで作られた小さな平たい器の前に、磨いた水晶のレンズが付いている。ほんの少しの水を入れて、その中を動くものを見る道具だった。


 最初に覗いたのはエミリアだった。


「……小さい粒があります」


「藻の仲間でしょう」


「動いています」


「動くものもいます」


 アデリーヌが、落ち着いた声で答える。


 その時、エミリアがぴたりと黙った。


「……何か来ました」


「見えますか?」


「頭の方だけ、薄い線があります。何かが今、視界全体を通過しています。でも、身体はほとんど透明です。通っている間、視界全体が、透明な何かに押されているみたいに歪みます」


 その透明なものは、小さな緑の粒をゆっくり押しのけながら、視野を横切っていった。先に進む側だけは分かる。だが、後ろは分からない。どこまでがその生き物なのか、どこからがただの水なのか、見分けがつかなかった。


 やがて、視野の揺れが少しずつ弱くなる。


「……終わった、のでしょうか」


「はい。たぶん通り過ぎました」


 アデリーヌは平然と答えた。


「ほとんど透明ですから、終わりは分かりにくいのです。先に進む部分だけが、周りの粒を押すので見えます」


「なんか、眼の前を広く横切りましたよ」


 エミリアが観察器から顔を上げ、メガネを掛け直した。


 フローレが観察器を受け取って、恐る恐る覗き込んだ。しばらくは、ただ澄んだ水の中に緑色の小さな粒が浮いているだけに見えた。だが、不意に視野の一部が、薄い膜で覆われたように歪んだ。


「……あ、いました」


 フローレは観察器から顔を上げた。


「ときどき大きい、ぶよーんとしたのがいますよね」


「います」


 アデリーヌは真面目に頷いた。


「水の中で形を変えながら動く、小さな生き物です」


「小さな……」


 フローレは小瓶を見た。


「小さな世界の中では、かなり大きく見えますわ」


 次に、マルティーヌが観察器を覗いた。


 王都施設局の補佐官である彼女は、水路の幅も、流量も、取水権も、下水幹線の勾配も知っている。けれど、上水の中をこのように見たことはなかった。


 しばらくして、彼女は静かに顔を上げた。


「……これは、上水の中にいるのですね」


「はい」


 アデリーヌが答える。


「この水は、悪い水ではありません。むしろ生き物が暮らせる“良い”水です」


 マルティーヌは帳簿を見下ろした。


「施設局の帳簿には、こういうものを書く欄はありません」


「別に怖いものではありません」


 アデリーヌは真面目に訂正した。


 その時、セリーヌ王女が静かに口を開いた。


「わたくしも、見てよろしいかしら」


「もちろんです」


 アデリーヌは観察器の向きを整え、光が入りやすいように小さな平たい器の位置を少し動かした。


 セリーヌ王女は、いつものように背筋を伸ばしたまま、そっと観察器を覗き込んだ。


 最初は、何もないように見えた。


 透明な水の中に、小さな緑の粒が浮いている。細い糸のようなものが揺れている。細かな塵のようなものが、流れもないのに少しずつ動いている。


 王女は、しばらく黙って見ていた。


 その時、視野の端が、ふいに歪んだ。


 何かが見えた、というより、向こう側が押し曲げられた。透明な膜のようなものが、小さな粒をゆっくり押し分けながら進んでくる。先に進む側だけは薄い線のように分かる。けれど、後ろは分からない。どこまでがその生き物なのか、どこからがただの水なのか、見分けがつかなかった。


 セリーヌ王女が、ほんのわずかにピクリ、とした。


 それは、ほとんど誰にも分からないほど小さな反応だった。けれど、隣にいたマルティーヌだけは気づいたらしく、一瞬だけ王女へ視線を向けた。


 セリーヌ王女は、何事もなかったように観察器から顔を上げた。


 表情は崩れていない。


 いつものように穏やかで、いつものように涼しげだった。


 ただ、声だけが少し慎重になっていた。


「……肉眼では、分かりませんのね」


「はい」


 アデリーヌが頷いた。


「かなり大きく見えるものでも、ほとんど透明です。見えているというより、周りの粒や光の揺れで分かることがあります」


「そうですか」


 セリーヌ王女は微笑んだ。


「上水のなかにも、色々居るのですね」


 ミレイユが頷いた。


「はい。上水であっても、使い方によっては、濾過や煮沸などが必要なこともあります」


 セリーヌ王女は、もう一度だけ観察器の小さな水槽を見た。


 そして、何事もなかったように一歩下がった。


 ただし、こめかみには、小さな汗がひとつ浮いていた。


 アデリーヌは小瓶を光にかざした。


「この美しい上水路には、様々な生き物が今も元気に息づいています」


 その言い方だけなら、王都の水路を讃える詩のようにも聞こえた。


 だが、フローレは小瓶の中で動く透明な何かを思い出し、微妙な顔になった。


「それは……褒めていますの?」


「この美しい上水の中には、様々な生き物が息づいています。ですが……その水を、そのまま飲みたいですか?」


 誰も、すぐには答えなかった。


◇◇


 アデリーヌは、観察器を片付けながら、ふと首を傾げた。


「そういえば、王宮も上水を飲んでいるのですよね?」


「王宮は飲用だと聞いていますわ」


 セリーヌ王女は答えた。


 けれど、その声は明らかに何かを警戒していた。


 マルティーヌが、地図の上流側を指で押さえた。


「殿下。王宮の水も、同じ大河から引いた上水でございます。ただし、王宮に届くまでの区間は蓋付きで、巡回があります。人の手が入りにくく、一般街の水場よりはずっと守られています」


「では、王宮の水なら安心ですの?」


 フローレが尋ねる。


 マルティーヌは少しだけ言葉を選んだ。


「上水の中では、もっとも安心できる水です。ですが、自然の川から引いている以上、最初から何もいない水とは申せません」


 アデリーヌが頷いた。


「大河の上流で取った水なら、下水は混じらないでしょう。けれど、生き物がいないとは限りません。むしろ、良い川なら何かが暮らしています」


「……王宮では、飲用と聞いたはずですが……」


 セリーヌ王女は微笑を崩さなかった。


 けれど、その目は、一瞬だけ地図の王宮へ向かった。


 ミレイユが穏やかに言う。


「おそらく、多くは茶や薬湯として、沸かして飲まれているはずですわ。上流階級が水をそのまま飲まず、お茶にするのは、優雅だからだけではありません」


 セリーヌ王女が少し安心したように息を吐いた。


「上流階級がお茶にして飲むのは、優雅だからだけではないのですね」


 ノエミがノートに書き込む。


「優雅さと安全が同じ方向を向いた習慣、ということかな」


 アデリーヌは小瓶を光にかざして言った。


「水の中の生き物から見ると、沸かされるのは迷惑でしょうけれど」


「その視点はいまは要りませんわ」


 何人かが同時に言った。


◇◇


 王都の上水を分ける工事は、砂糖研究会が思いつきで手を出してよいものではない。施設局の許可が要り、水路職人、石工、木工、工房の手配が要る。何より、浴場として使い始めるなら、下水幹線への接続も考えなければならない。


 けれど、今日確かめたいことは、そこではなかった。


「この水を、風呂用として使えるところまで浄化できるか、ですわね」


 ミレイユが言った。


「はい」


 ヘレーネは仮設小屋の机に、網や木箱、麻布を並べた。


「まず葉や小枝を止めます。次に網で水草や大きな虫を止めます。それから、しばらく置いて砂を沈めます。最後に、麻布を通します」


「飲用水を作るのではありませんわ」


 ミレイユが補足した。


「風呂に使う水です。見える汚れを減らし、臭いを避け、下水が混じっていないことを確認し、湯にして身体を洗える程度まで浄化します」


 ノエミがノートに数字を書き込んだ。


「全部を細かい布で濾したら、すぐ詰まるね。風呂用にそこまでやると、水が足りなくなる」


「そして料金が上がります」


 マルティーヌが静かに言った。


「町の者が使えない浴場にしては、意味がありません」


 水番が汲んだ上水を、まず粗い格子に通した。


 葉と小枝が残る。


 次に、荒い網へ流す。水草の切れ端と、小さな虫がいくつか止まった。フローレは少しだけ顔を引きつらせたが、アデリーヌは平然としていた。


「生き物がいる水ですから」


「その説明で落ち着けるかどうかは、人によりますわ」


 網を通った水を浅い木桶に移し、しばらく置く。最初は細かく濁っていた水が、少しずつ落ち着き、底に薄い砂の筋ができ始めた。


「流れを遅くすると、重いものから沈みます」


 エミリアが木桶を覗き込んだ。


「本工事では、ここを大きな沈砂槽にするのですね」


「はい。掃除しやすい形にする必要があります」


 ヘレーネは頷いた。


 最後に、水を目の荒い麻布へ通す。砂利、粗い砂、取り外せる麻布を重ねただけの簡単なものだったが、出てきた水は見た目にはかなり澄んでいた。


 白札ではない。飲用水でもない。けれど、上水路をただ流れていた水は、少なくとも風呂に使える水へ近づいた。


 試験に使った水は、細い溝を通って近くの雨水路へ流れていった。今はまだ、浴場の排水ではない。上水を通す試験の水である。


「下水路へ流すのではありませんの?」


 エルザが尋ねると、マルティーヌが答えた。


「実際に浴場として使い始めたら下水路ですね。身体を洗った湯、石鹸や灰汁、髪や泥が混じった水は、雨水路へ流してはいけません。下水幹線まで接続する必要があります」


「つまり、今日は水の入口だけですか」


 エミリアが言うと、ヘレーネは頷いた。


「はい。出口は、まだ仮です」


 それでも、濾過器を通った水は、見た目には驚くほど澄んでいた。


 さっきまで網に残っていた葉や藻の欠片はない。小さな虫の影も見えない。水槽の底まで、光を受けてゆらゆらと見えている。


「これが風呂用の水か。……きれいだな」


 エディがそう言って、指先を水にちょんとつけた。


「エディ?」


 ノエミが止めるより少し早く、彼はその指先を舌に触れさせた。


「ぺろ」


「エディ!」


 ノエミの声が裏返った。


 エディは目を瞬かせ、真面目な顔で言う。


「水の味だな」


「当たり前ですわ!」


「いや、戦場や野外なら、小川の水くらい普通に飲むぞ。流れていて、臭くなくて、上流に変なものがなければ、まあ、飲用だ」


 ノエミは彼の手を掴み、すぐに布で拭いた。


「これは青札です。白札ではありません。風呂用の水です。飲用水ではありません」


「飲んではない。舐めただけだ」


 エディは少し笑った。


「でも、だから札が要るんだろ。現場の人間は、見た目が十分きれいなら飲む。俺みたいに」


「まあ、そうでしょうけどね」


 アデリーヌが、濾過器を抜けた水を観察器の小水槽に入れた。


 大きな葉も、藻の塊も、虫の姿もない。けれど、食い入るようにしばらく覗いていたエミリアの顔が、少しずつ真面目になった。


「……だいぶ少なくなったけど……いますね」


「います」


 アデリーヌが静かに頷いた。


「大きなものは減りました。目に見える汚れも減っています。でも、水の中の世界が消えたわけではありません。少量を取ってよく見れば、まだ様々な生き物がいます」


 フローレが水槽を見た。


 さっきまで、ただ澄んで見えていた水だった。


「これほどきれいに見えるのにですか」


「はい。きれいに見える水です。しかし生き物がまったくいない水ではありません」


 アデリーヌは、淡々と、しかし少しだけ優しく言った。


「でも、これは良い原水です。洗う水としてはかなり良い。湯にする水としても使えるでしょう。ですが、飲む水にするなら、沸かしたほうが良いでしょう」


 マルティーヌがノートに書き込んだ。


「浴場用上水、試験結果良好。飲用不可。飲用に転用する場合は煮沸。試験余水は雨水路。本運用前に下水幹線接続計画を提出」


 フローレが小さく呟いた。


「役所の帳簿に入ると、急にお風呂が遠くなりますわね」


「行政とは、そういうものです」


 マルティーヌは真面目に答えた。


 セリーヌ王女は、そのやり取りを微笑んで聞いていた。


 いつものように穏やかで、いつものように涼しげな表情だった。けれど、こめかみに浮いた小さな汗だけは、まだ消えていない。


 王女は、水槽の澄んだ水をもう一度見た。


 葉も、藻の欠片も、小さな虫の影も見えない。底まで透き通っている。いかにも、きれいな水だった。


 けれど、その中には、まだ目に見えないほど小さな世界が残っている。


 セリーヌ王女は、微笑を崩さないまま、ほんの少しだけマルティーヌの方へ身を寄せ、小さく声をかけた。


「……マルティーヌ」


「はい、殿下」


「王宮の飲み水は、普段から沸かしてありますか。あとで確認しておいてくれます?」


「承知いたしました。厨房、薬室、茶の支度をする者、それから水番の記録を確認いたします」


 マルティーヌは、ノートの端に小さく一行を書き足した。


 王女殿下より、王宮飲用水の煮沸運用を確認せよ、とのこと。


 セリーヌ王女は小さく頷き、何事もなかったように視線を水槽へ戻した。


 見た目には、どこまでもきれいな水だった。

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