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第44話 戦略

 戦争は終わった。


 敗走したノルディカ王国軍は、略奪もできず、新しい土地も手に入れられず、兵士の三分の一を失った。戦のために、多くの食料と兵を傘下の領から徴発しており、残された村々は冬を越せるかどうかも分からない状況に追い込まれていた。


 国境では、アヴァロン王国は当然のこと、周囲の国も警戒を強めていた。砦は門を固め、街道には検問が置かれ、兵は弓と槍を手放さなかった。


 だが、飢えは国境線を踏み越える。


 軍の一部が、略奪のために侵入してくる。

 野盗は、夜陰に紛れて襲ってくる。

 流民は、子を抱え、老人を支え、どこかに食べ物があると信じて歩いてくる。


 それらが混じれば、砦の兵には見分けがつかない。


 そして、見分けがつかないものを国境で止めるには、最後には槍を向けるしかなくなる。


 その最初の火種は、グレンウッド領主館に現れた。


◇◇


 グレンウッド邸の応接室に通された男は、明らかに疲れ切っていた。


 身なりは整えている。敵国の使者として、最低限の体面を保とうとしているのは分かる。だが、頬はこけ、目の下には濃い隈があり、差し出された茶器を持つ指先は、わずかに震えていた。


 オーウェン・グレンウッド伯爵は、向かいの席からその様子を静かに見ていた。


「改めて伺いましょう。貴殿は、ノルディカ王国の国境沿い、ヴァルム領の使者である。そう名乗られましたな」


「はい」


 男は深く頭を下げた。


「我が主、ヴァルム男爵の命により参りました」


 ノルディカ王国の地方領主。しかも、つい先日までアヴァロン王国と戦っていた国の領主である。


 本来であれば、グレンウッド邸の応接室に通してよい相手ではない。


 だが、その男は武装していなかった。護衛も最低限で、同行してきた者たちも皆、同じように顔色が悪かった。


 敵として来たのではない。助けを求めて来たのだ。


「率直に申し上げます」


 使者は、言葉を選ぶ余裕もない様子で口を開いた。


「我が領は、冬を越せません」


 応接室の空気が重くなった。


「戦に出した兵の多くは戻りませんでした。戻った者も、傷を負い、働ける状態ではありません。馬は徴発され、荷車も壊れ、倉は軍に荒らされました。中央からは、なおも兵糧を供出せよとの命が届いております。ですが、もう出すものがありません」


 オーウェンは、茶に手を伸ばさなかった。


「ノルディカ王都からの支援は」


「ございません」


 使者は、苦いものを飲み込むように答えた。


「届くのは命令ばかりです。略奪せよ。徴発せよ。兵を戻せ。倉を開けよ。ですが、食糧は届きません。種籾すら守れぬ有様です。このままでは、春に蒔く種も、冬を越す領民も、どちらも失います」


「それで、我がグレンウッドへ来られた」


「はい」


 使者は、椅子から立ち上がり、その場で膝をついた。


 敵国の使者が、敵国の領主の前で膝をつく。


 その姿を見て、応接室に控えていた者たちが息を呑んだ。


「恥は承知しております。怒りを買うことも承知しております。ですが、このままでは、我が領は死に絶えます。中央に従えば、領民が飢えます。種籾を食えば、秋に死にます。食えねば、今死にます」


 使者の声は震えていた。


「どうか、穀物をお分けいただきたい。できれば、農地を立て直す知恵もお貸しいただきたい。我が主は、領民を死なせぬためであれば、どのような恥も受ける覚悟でおります」


 オーウェンは、しばらく答えなかった。


 同情はあった。だが、同情だけで国境は動かせない。


「事情は理解しました」


 オーウェンは、ゆっくりと言った。


「ですが、グレンウッド伯爵家が独断で、ノルディカ王国の領主へ穀物を渡すことはできません。つい先日まで、我々は戦っていたのです。食糧を渡せば、それが次の兵糧になるのではないか。そう疑われても、反論は難しい」


「そこを、なんとか……!」


「貴殿を追い返すとは言っておりません」


 オーウェンは、膝をついたままの使者を見下ろした。


「これは、一領主の温情で扱ってよい話ではありません。王宮に報告します。返答があるまで、貴殿はこの館で休まれよ」


 使者は、顔を上げた。


「王宮、ですか」


「ええ。これは、国家間の問題です。グレンウッドだけの問題ではありません」


 オーウェンは、控えていた筆頭執事へ視線を向けた。


「セバスチャン。通信室へ。王都へ急報を送る」


「承知いたしました。至急、最優先で扱わせます」


 グレンウッド家の筆頭執事セバスチャンは、深く一礼した。


 その声にも、所作にも、慌てた様子はなかった。だが、彼が部屋を出ていった時点で、この話はすでにグレンウッド家の通常業務ではなく、国境危機として動き始めていた。


 使者は、まだ床に膝をついたままだった。


「立たれよ」


 オーウェンは静かに言った。


「貴殿の主は、敵国の領主に頭を下げた。それは軽いことではありません。ならば、こちらも軽くは扱わぬ」


◇◇


 グレンウッド邸から王都へ送られた報告は、通信所を通じて王立大学校へ届き、そこから王宮へ運ばれた。


 ノルディカ国境領より非公式支援要請あり。

 領内飢餓深刻。

 中央より食糧支援なし。

 種籾不足。

 放置すれば流民化、略奪化の恐れあり。

 領主はグレンウッドへの農業支援要請を希望。


 その報告は、すぐに王宮奥の戦略会議室へ回された。


  厚い扉に閉ざされたその部屋には、国王、アンリ王太子、セリーヌ王女、ジュリアン第二王子が集まっていた。


 軍部からは、第一軍大将であり王の弟でもあるレオナール侯爵、前線から戻ったばかりの第一軍少将アドリアン、そして二次戦役で主力として国境を支えた王国軍第二軍大将のバークレイ卿が呼ばれている。


 さらに、王宮外務局の特任外交官ジュールも同席していた。


 卓上には、グレンウッド領とノルディカ王国の国境地帯を描いた地図が広げられている。


「ついに来たか」


 アンリ王太子は、報告書を読み終え、短く息を吐いた。


「ノルディカ側の国境領が、王都ではなくグレンウッドへ助けを求めた。これは小さくない」


 レオナール大将が腕を組んだ。


「罠の可能性は」


「あります」


 アドリアン少将が即座に答えた。


「ですが、飢餓そのものは本物でしょう。ノルディカ軍は略奪に失敗しました。兵の損耗も大きい。徴発された領では、農作業の主力である成年男子が戻っていません。戻っても傷病兵です。馬も荷車も失われています」


 アドリアンは地図上の国境領を指した。


「このまま放置すれば、彼らは統制された軍ではなく、生きるために何でもする集団になります。敗残兵、流民、盗賊、病人、密偵。それが混ざって国境に来る」


 バークレイ卿も、低く頷いた。


「第二軍としても、同じ見立てです。敵の大規模侵攻は当面ありません。ですが、飢えた小集団が国境を越える事態は別です。砦は軍を止めるためのものです。流民と敗残兵と盗賊が混じったものを、長期間さばき続けるには向きません」


「軍で止めるしかあるまい」


 レオナールが言うと、アドリアンは首を横に振った。


「統制された軍なら止められます。ですが、子どもを抱えた女と、敗残兵と、病人と、盗賊が同じ列にいる場合、砦の兵はどう判断しますか。止めるしかない。止まらなければ殺すしかない。冬の間中、それを何十日、何百日と続けることになります」


 会議室に、重い沈黙が落ちた。


 勝利はした。


 だが、勝利の後に残るものは、敵兵の死体だけではない。


 飢えた隣国も残る。


「ノルディカ王国を救いたいわけではありませんが」


 セリーヌ王女が、静かに口を開いた。


「ですが、飢えた民を国境で殺し続けるよりは、まだましかと」


 会議室に、再び沈黙が落ちた。


 それは優しさの言葉にも聞こえた。


 だが、この場にいる誰もが知っている。


 王族が会議室で口にする優しさは、たいてい、ただの優しさでは終わらない。


 セリーヌは、地図の上に並ぶ小領地を見た。


「ノルディカ中央政府を相手に援助する必要はありません。そこへ食糧を渡せば、軍に回るだけです。けれど、国境沿いの地方領主が、自領の流民化と略奪化を防ぐために助けを求めるのであれば、そこには入り込む余地があります」


 アンリが頷いた。


「国家間援助ではなく、国境安定化のための限定措置か」


「はい」


 セリーヌは続けた。


「穀物は一時的に命をつなぐだけです。本当に必要なのは、その間に畑を戻すことです。種籾を食べさせない。水路を直し、在庫を把握する。人口と配給を管理する。畑ごとに作付けを決める。収穫までの五か月を食い延ばす計算をする」


 レオナールが苦い顔をした。


「敵国に、グレンウッド式の農業を教えるのか」


「全部ではありませんわ」


 セリーヌは淡々と答えた。


「ですが、彼らが死なないだけの方法は教えなければなりません。そうすれば、彼らは畑へ戻る。国境へ崩れ込んでくる人数は減る。こちらの兵が、飢えた民を斬る回数も減ります」


「そして、彼らはグレンウッドの指導に依存する」


 ジュリアン第二王子が、壁際で肩をすくめた。


「姉上の言葉は、いつも優しく聞こえるのが怖いところですね」


 彼は、地図上の国境領を見た。


「話を最後まで聞くと、かなり悪辣です」


「言い方が悪いですわ」


「違いますか」


「違いませんけれど」


 セリーヌは、わずかに笑った。


「ですが、首輪をかけるためだけなら、もっと雑にやります。今回は、彼らを生かさなければなりません。死んだ領地は、国境の安定には役に立ちませんもの」


 アンリは、ジュールへ視線を向けた。


「外務局として、扱えるか」


 ジュールは、手元の書類を揃えた。


「扱えます。ただし、言葉を間違えてはなりません」


 彼は淡々と続けた。


「本件は、アヴァロン王国によるノルディカ王国への援助ではありません。ですが、国境沿いの一地方領主が、流民化と略奪化を防ぐために支援を求めているのであれば、外交上の調整案件として扱います」


 会議室の空気が、わずかに変わった。


 これは慈善ではない。

 侵略でもない。

 少なくとも、表向きは。


「国境安定のため、限定的な物資移動と人員派遣を認める。相手はノルディカ王国中央政府ではなく、国境沿いの一領主。支援は兵糧ではなく、流民化防止と農業復旧のため。記録には残しますが、国家間援助の形は取りません」


「通るか」


 レオナールが問う。


「通していただきます」


 ジュールは静かに答えた。


「そのために、私が呼ばれたのでしょう」


 アンリは、少しだけ口元を緩めた。


「頼もしいな」


「ただし、条件は付けます」


 ジュールは、地図の上に指を置いた。


「当然のことですが、供与する穀物を兵糧として徴発させないこと。種籾を守ること。倉、人口、作付け面積、配給量を記録させること。ノルディカ中央から徴発命令、出兵命令が来た場合は、一領主では断れないでしょうが、直ちにこちらへ知らせること。指導員の安全を保障すること」


「相手が守らなければ」


「もちろん指導員は引き上げます」


 ジュールは言った。


「穀物だけでは一ヶ月で尽きます。方法を受け入れなければ、秋には何も残りません」


 国王は、ここまで黙って話を聞いていた。


 やがて、ゆっくりと口を開いた。


「ノルディカ中央が、その地方領を罰しようとした場合はどうする」


 その問いに、会議室の全員が王へ視線を向けた。


 セリーヌが答える。


「その時は、彼らに選択肢が生まれます。自領の民を飢えから守るため、アヴァロン王国の保護を求める、という選択肢です」


 レオナールの目が細くなった。


「領ごと、こちらへ寝返るということか」


「こちらから奪うのではありませんわね」


 セリーヌは静かに言った。


「ノルディカ中央が、飢えた領民を救った自国領主を攻撃するのであれば、その領主は民を守るために保護を求めることができます。そうなれば、ノルディカは豊かな穀物と国土を同時に失います。だからこそ、中央は彼らを罰したくても罰しにくい」


 ジュリアンが小さく笑った。


「姉上。本当に剣を抜かない戦いがお好きですね」


「剣を抜かせないための策ですわ。抜かれたら、こちらも兵を出さなければなりませんもの」


 国王は目を閉じ、しばらく沈黙した。


 やがて、重い声で結論を下す。


「剣の役目は終わった」


 その言葉に、全員の背筋が伸びた。


「これより先は、パンと知恵で国境を守る。アンリ、議会への説明を整えよ。セリーヌ、グレンウッド伯と連携し、農業指導と物資の手配を進めよ。ジュール、外交上の処理は任せる。レオナールとアドリアンは軍全体の再編を進めよ。バークレイ、第二軍は国境警備を緩めるな。ただし、こちらから無用に国境を越えるな」


「はっ」


 返答が重なった。


 戦争は終わった。


 だが、戦後は終わっていなかった。


◇◇


 ジュールがグレンウッド邸に到着したのは、王宮会議の翌日だった。


 ノルディカの使者は、その間、客人として扱われていた。だが、食事の席でも遠慮がちで、柔らかいパンを見ても、すぐには手を伸ばさなかった。


 敵国で出される食事を警戒していたのではない。


 食べ慣れないほど、飢えに慣れてしまっていたのだ。


 応接室に通された使者の前に、オーウェンとジュールが座った。


「お待たせしました」


 ジュールは、最初にそう言った。


「王宮に話は通しました」


 使者の肩が、目に見えて震えた。


「では……」


「まず、誤解のないように申し上げます。本件は、アヴァロン王国によるノルディカ王国への援助ではありません」


 ジュールの声は穏やかだが、隙がなかった。


「そのような扱いになれば、我が国の議会も軍部も、そして国民も納得しません。つい先日まで我々は戦っていたのです。穀物を渡せば、それが次の兵糧になるのではないか。そう疑われるのは当然です」


 使者は、言葉を失った。


「ですが、国境沿いの一地方領主が、自領の民の流民化と略奪化を防ぐため、隣接するグレンウッド領に支援を求めているのであれば、対応できなくもありません」


 ジュールは、卓上に置いた書類を指先で整えた。


「それは国家間の援助ではなく、国境安定のための外交上の調整案件として扱えます」


「それで、通るのですか」


「通しました」


 ジュールは、さらりと言った。


「そのために、私がここに来ました」


 使者は、深く息を吐いた。


 その表情には、安堵と恐怖が同時に浮かんでいた。


 助かった。


 だが、どのような条件が付くのか分からない。


 その顔を見ながら、ジュールは説明を続けた。


「第一陣として、一ヶ月分の穀物を用意します。これは、貴殿の領民が飢えをしのぎ、畑へ出るための量です。食べ放題になる量ではありません。配給を守らなければ、一ヶ月もちません」


「一ヶ月……」


「はい。一ヶ月です」


 ジュールは、少しも声を柔らかくしなかった。


「一ヶ月分の穀物は、一ヶ月で尽きます。その後をどうするかが本題です」


 使者は、顔を上げた。


「農業指導員を派遣します。倉を調べ、作付けを決め、配給を計算します。水路を直し、種籾を守らせます。必要な道具と、グレンウッド式の数盤も持たせます」


 使者は、静かに頷いた。


「条件があります」


 ジュールは、紙を一枚差し出した。


「供与された穀物を兵糧として徴発しないこと。種籾を食べないこと。倉を隠さないこと。指導員の安全を守ること。配給を勝手に変えないこと。ノルディカ中央から徴発命令、出兵命令が来た場合、反抗しろとは言いません。しかし、ただちにグレンウッドへ知らせること」


 使者の顔に苦いものが浮かんだ。


「それは、我が主が中央に逆らうことになります」


「中央に従って、領民を飢えさせることも選択肢です」


 ジュールは言った。


「選ぶのは、貴殿の主君です」


 応接室に沈黙が落ちた。


 やがて、使者は書類を両手で受け取り、深く頭を下げた。


「……受け入れます」


 それは、領主の正式な返答ではない。だが、使者はもう分かっていた。


 これ以外に道はない。


 オーウェンは、ようやく口を開いた。


「我々は、貴殿らを哀れんで穀物を出すのではありません」


 使者が顔を上げる。


「貴殿の領が飢えれば、飢えた民は国境へ向かうでしょう。敗残兵も、盗賊も、病人も、その中に混じる。その時、我々は彼らを止めなければならない。止まらなければ、殺さなければならない」


 オーウェンの声は、重かった。


「それを避けたいのです。貴殿らのためだけではない。我々の兵に、飢えた民を斬らせないためでもある」


 使者は、長く頭を下げた。


「それでも……感謝いたします」


 ジュールは、その姿を見ても、表情を変えなかった。


 彼はすでに、第一陣の人員、穀物量、通行路、護衛、記録形式を頭の中で組み立てていた。


 救済は、感情では成立しない。


 穀物の袋数と、荷車の台数と、配給日数と、畑の広さで成立する。


◇◇


 グレンウッドから支援団の第一陣が出発したのは、それから数日後のことだった。


 荷車には、麦袋が積まれている。


 だが、それは単なる食糧ではなかった。


 別の箱には、封印された種籾が入っている。さらに、畑を測るための縄、杭、水路の勾配を見るための道具、倉の記録帳、配給札、そしてグレンウッド式の数盤が積み込まれていた。


 護衛の兵もいる。


 しかし、この一団の中心は兵ではなかった。


 農業指導員。

 倉の管理係。

 数盤を扱える記録係。

 水路を見られる者。

 簡単な治療ができる者。

 ノルディカ語に通じる通訳。


 彼らが運んでいるのは、一ヶ月分の命と、秋まで生き延びるための方法だった。


 国境を越えた先の村は、沈んでいた。


 畑はある。家もある。井戸も、納屋も、教会のような小さな礼拝所もある。


 だが、人の気配が薄い。


 井戸のそばに立つ女は痩せ、子どもは大人の後ろに隠れ、老人は荷車を見る目だけをぎらつかせていた。


 麦袋が下ろされると、村人たちの間にざわめきが広がった。


「本当に麦だ」


「毒ではないのか」


「敵の施しなど受けられるか」


「子どもが死にかけているんだぞ、黙っていろ」


 声がぶつかる。


 領主の館から来た役人が、村人たちをなだめようとした。だが、彼自身も痩せており、声に力がなかった。


 支援団のまとめ役である農業指導員は、まず倉を見せるよう求めた。


「配給は、倉の中身を確認してから決めます」


 その言葉だけで、村人たちが顔色を変えた。


「倉を調べるだと」


「敵国人に倉を見せるのか」


「全部持っていくつもりじゃないだろうな」


 護衛の兵が緊張する。


 だが、指導員は怒鳴り返さなかった。


「持っていくためではありません。後どのくらい持つのか、今度どのくらい運ぶべきかを計算するために調べます」


 そう言って、彼は封印された箱を指した。


「この箱は、通常の配給には使いません。種籾です。倉の奥に置き、勝手に開けないでください」


 その瞬間、村の男が怒鳴った。


「ふざけるな!」


 男は痩せていた。頬はこけ、腕も細い。だが、目だけは血走っていた。


「子どもが腹を空かせているんだぞ。食える麦を目の前に置いて、食うなと言うのか!」


「それは秋のための種です」


「種だろうが麦だろうが、食えるものは食える!」


「今食べれば、秋に食べるものがなくなります」


「秋まで生きていられるか分からんから、今食わせろと言っているんだ!」


 男の叫びに、周囲の村人たちもざわめいた。


「そうだ、まず子どもに食わせろ」


「敵国人が何を偉そうに」


「こいつらのせいで、うちの息子は帰ってこなかった」


「戦へ連れていったのは王都だろうが!」


「黙れ!」


 罵声が飛び、誰かが農業指導員の肩を押した。


 護衛の兵が一歩前へ出る。


 だが、指導員は片手を上げて、それを止めた。


 怒鳴り返しはしなかった。


 侮ることもしなかった。


 ただ、静かに荷車の方を見た。


「分かりました」


 その声は、不思議なほどよく通った。


「では、私たちは帰ります」


 村人たちの声が止まった。


 指導員は、倉の前に積まれた麦袋を見た。


「一ヶ月分の穀物は置いていきます。約束ですから。大切に食べれば、あなた方は一ヶ月は生きられます」


 誰も動かなかった。


「ですが、指導はできません」


 指導員は続けた。


「種籾を食べる村に、作付けの計画は立てられません。水路を掘らない村に、排水の方法は教えられません。配給を守らない村に、収穫まで食いつなぐ計算はできません」


 村人たちは、凍りついたように立っていた。


「我々を敵と呼ぶのは構いません。実際、つい先日まで敵でした。あなた方の家族を殺した兵の中に、アヴァロンの兵がいたかもしれません。こちらにも、あなた方の軍に殺された者がいます。ですから、好きになれとは申しません」


 指導員は、封印された種籾の箱を指した。


「ですが、畑は好き嫌いで実りません。水路は憎しみで掘れません。種籾は、怒鳴れば増えるものでもありません」


 誰かが、唇を噛んだ。


「私たちは、あなた方と仲良くしに来たのではありません。あなた方を、今年の秋まで死なせないために来ました。そして、来年も畑を作れるようにするために来ました」


 指導員は、最後に静かに問いかけた。


「戦いを続けるのであれば、私たちは帰ります。穀物は置いていきます。約束ですから。ですが、一ヶ月後、あなた方はどうするのですか」


 その問いに、村の誰も答えられなかった。


 倉の前には、一ヶ月分の穀物が積まれている。


 それは救いだった。

 だが、救いは一ヶ月で尽きる。


 敵は、剣を抜かなかった。

 ただ、帰ると言っただけだった。


 それだけで、飢えた村は沈黙した。

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