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第43話 砂糖と水飴

 戦が終わると、止まっていたものが少しずつ戻ってきた。


 港に入る船が増え、街道を走る荷車の数も増えた。市場には香辛料が戻り、染料が戻り、紙が戻り、そして砂糖も戻ってきた。王宮と治療院と前線へ優先的に回されていた甘味が、ようやく街へも流れ始めたのである。


 王立大学校の研究棟、その一角にある砂糖研究会の部屋にも、久しぶりに白い砂糖が戻ってきた。


 蓋を開けると、細かな結晶がさらりと光る。白く、乾いていて、指を入れれば指先にすぐ甘い粉がつく。その見慣れた白さを、けれど研究会の面々は前のようには素直に喜ばなかった。


 戻った、ということは、また止まるかもしれない、ということでもある。


 戦を一度経験してしまうと、その白い壺を見ても、ただ安心するだけでは終われない。


 セリーヌ王女が、机の中央に置かれた砂糖壺を一度見てから、穏やかに言った。


「平時に戻ったからこそ、考えておきたいことがありますの」


 フローレが顔を上げる。王宮料理部門の運営に深く関わる家の娘であり、その言葉が献立と予算と人手の話でもあることをよく知っている。


「砂糖、ですわね」


「ええ」


 王女は頷いた。


「入ってくるようになった以上、使うのは問題ありません。ですが、戻ったからといって、また全部を輸入の砂糖に頼ってよいのか――そこは別のお話ですわ」


 部屋の空気が少し締まる。


 砂糖の代わりを探したことは一度ではない。さつまいもを甘くしたこともあった。黒麹を拾ってみて、甘味の代用品にはならないと見切ったこともあった。失敗したものも、別の使い道を見つけたものも、全部この部屋に蓄積されている。


 エミリアが、机の端を指先で軽く叩いた。


「でしたら、今度は基本からやりましょう」


「基本?」


 ミレイユが聞き返す。


「はい」


 エミリアは砂糖壺ではなく、その横の紙の束を見た。


「前は、さつまいもそのものを甘くしました。でも今回は、芋を甘くするだけじゃありません」


 そして、はっきりと言う。


「澱粉から、甘味そのものを取り出します」


◇◇


 候補はすぐに出そろった。


 米。芋。麦。


 果物の汁や蜂蜜を煮るのは話が違う。欲しいのは、この国である程度まとまった量が取れて、保存もきいて、しかも砂糖が足りない時に台所や菓子へ回せるような甘味だった。


 フローレが、蒸した白米を指先でほぐしながら言う。


「麦芽を使うのでしたら、まず米や芋の澱粉をきちんと糊化しないといけませんわね」


「ええ」


 ミレイユが即座に頷く。


「前に見た通りですわ。酵素は、固い澱粉粒のままではあまり仕事をしません。水を含んで、ふやけて、糊のようになった状態――糊化していないと」


 ヘレーネが紙に簡単な図を描いた。丸い粒が、水を含んで崩れていく図だ。


「つまり、先に煮るか蒸すかして完全に糊化させる。そのあとで、麦芽の酵素が死なない温度まで下げてから糖化させる、ですね」


「そう」


 エミリアは頷いた。


「前にさつまいもでやった時は、芋の中にもともとある酵素を使ったから、糊化が起こる温度と酵素が壊れない温度が狭いところで重なっていました。でも今回は違います。外から麦芽を入れられる。先に糊化。あとで糖化。工程を二つに分けられます」


 その整理だけで、皆の顔が少し明るくなった。


「米が一番きれいでしょうか」

 エルザが材料札を並べながら言う。

「味が素直ですものね」


「でも芋も捨てがたいですわ」

 フローレがすぐに言い返した。

「量を取りやすいですし、失敗しても最悪、そのまま食べられますもの」


「最後の理由が、いかにもフローレさんですね」

 ミレイユが微笑む。


 ノエミが記録紙の余白に線を引いた。


「両方やろう。米はまず『きれいな糖液が取れるか』、芋はそれ単体でも甘くはなるけれど、麦芽糖化で『調理しやすいか』。同じ成功でも意味が違う」


 その一言で方針が決まった。


 クラリスが腕を組んで言う。


「で、今日はどっちから?」


「米からやりましょう」

 エミリアが答えた。

「こっちは初めてなので」


「初めてなのに、そんなに落ち着いてるの?」


「落ち着いてるように見えるだけです。内心はかなり怖いです」


「正直ね」


 クラリスは笑った。だが、その正直さは研究者には大事だ。うまくいくか分からないものを、分からないまま扱う。それを怖いと思えなくなったら、まあ、だいたい、えらい事になる。


◇◇


 最初の実験は、米から始めた。


 白米をたっぷりの水で炊き、粥よりやや濃いくらいのところまで持っていく。そこへさらに熱い湯を足し、木杓子で粒を潰すようによく混ぜる。粒の輪郭が残っていては、酵素の届かない場所ができる。


 鍋の中身は、しばらくするとただの米粥とは明らかに違う顔つきになった。艶が鈍く広がり、杓子で持ち上げると重く、ゆっくり落ちる。澱粉が糊化して、どろりとした粘りに変わっているのが目に見える。


「ここまではいいですわね」

 ミレイユが頷く。


「はい。ここから冷まします」


 鍋を火から外し、台の上へ移す。ここからは待つ時間だが、ただ待つわけではない。早く麦芽を入れたくても、熱が強すぎれば酵素は死ぬ。冷ましすぎれば今度は反応が鈍い。


 アニーが鍋の上に手をかざした。


「まだ熱いです」


 ベラも倣って首を振る。


「手を入れたら嫌なやつです」


「分かりやすい基準ですね」

 ヘレーネが淡々と言った。


 ようやく「指を突っ込んでいられる」くらいまで落ちたところで、砕いた麦芽を加える。乾いた穀物の匂いが立った。甘いというより、パン種に近い匂いだ。


 最初は何も起こらないように見えた。


 白く濁ったままの鍋を、エミリアは杓子でそっと混ぜる。


 どろり、と重く尾を引く。


 もう一度混ぜる。


 まだ重い。


 さらに少し時間を置いて、三度目に底から持ち上げた時だった。


「……あれ?」


 最初に声を出したのは、エミリアだった。


 もう一度、杓子を底から持ち上げる。さっきまで、どろりと遅れて落ちていたものが、とろり、くらいに軽くなっている。さらにもう少し混ぜると、今度は明らかに手応えが違った。


「え、ちょっと待って」


 エミリアは杓子を止めた。


「……さらさらになってきてる」


 クラリスが鍋を覗き込む。


「甘くなったの?」


「いえ、まだ、そこまででは……」


 エミリアは匙の先を舐めて、首を傾げた。


「甘味はまだ、わずかですね。でも、粘りだけ先に抜けてる」


 ミレイユがそこで小さく頷いた。


「長い澱粉の鎖が、先に途中まで切られているのですわね」


「途中まで?」


「ええ。まだ麦芽糖まで細かく切れきっていないので、甘味は弱い。でも、粘りを作っていた長い鎖は先に壊れていくのです」


 エミリアは、もう一度だけ鍋を混ぜた。さっきまで重かったものが、明らかに軽い。


「……なるほど。先に手応えが変わるんですね」


「びっくりした?」

 クラリスが笑う。


「少し」

 エミリアは素直に認めた。


 そして、その後は味が追いついてきた。


 最初は「なんとなく甘い」くらいだったものが、時間が経つにつれて、舌の上にじわりと残るようになる。先に粘りがほどけ、そのあとで糖が舌へ届く。その順番が、皆にも分かるようになっていった。


◇◇


「……これは、飲み物になりますわね」


 最初にそう言ったのはフローレだった。


 濾したばかりの糖化液を小鉢に取り、慎重にひと口含み、次にもうひと口含む。研究の味見というより、すでに少し楽しんでいる。


「甘いですけれど、丸いですわね。砂糖水みたいに強い甘さではなくて……もっと柔らかいです」


 ミレイユも小さく頷く。


「澱粉から切れた糖ですものね。麦芽糖が主なら、こういう伸びる甘さになりますわ」


 そこへ、フローレがふと思いついたように言った。


「果汁を少し入れたら、もっと締まるかもしれません」


 果実の汁をほんの少しだけ垂らし、匙で混ぜて、もう一度味を見る。


 フローレの目が、すっと細くなった。


「……あ」


「どうしましたの?」

 セリーヌ王女が尋ねる。


 フローレは少し間を置いてから答えた。


「駄目ですわ」


 部屋の空気がぴたりと止まる。


「何が駄目ですの?」


「止まらなくなります」


 その一言で、皆が半ば疑い、半ば期待しながら同じものを手に取った。


 ひと口。


 もうひと口。


 米の丸い香りがあり、砂糖水のような鋭さはない。けれど甘味はちゃんと舌に残る。そこへ果汁が入ると、後味が急に締まり、次のひと口が欲しくなる。


 エミリアが匙を持ったまま小さく言った。


「……これは危ないですね」


 クラリスが笑う。


「甘味って、だいたいそういうものじゃない?」


 ノエミは何も言わず一口飲んでから、壺の方を見た。


「果汁を入れたほうが、明らかに消費速度が上がるね」


「消費速度って言わないでくださいませ」

 フローレが言う。

「せっかく少し優雅な飲み物になりかけていたのに」


「でも、事実でしょう?」

 ヘレーネが真顔で返す。

「甘味飲料として成立しています。再現性もある」


 笑いながら、皆の手は止まらない。


 誰かが「このくらいの濃さがいい」と言い、誰かが「もう少し薄めても飲める」と言い、フローレが「冷やしたらもっとおいしいでしょうね」と言い出し、エルザが「保存容器を考えたほうがよさそうです」と真面目に返す。


 しばらくして、エルザが壺の中を覗き込み、ふと首を傾げた。


「……米の糖化液、ずいぶんと減りましたわね」


「あ」


 その一音で、部屋の中がぴたりと止まった。


 机の上の陶器壺には、たしかに最初より少ない量しか残っていない。誰かがこぼしたわけではない。布の下も床も乾いている。


 となると、答えは一つしかない。


 全員がそっと視線を逸らした。


「……味見は必要でしたの」


 ミレイユが続ける。


「必要でしたわね。糖化が進んでいるかどうか、確認しませんと」


 ヘレーネが真顔で頷く。


「確認は、何度か必要でした」


 ノエミが壺を覗き込んだまま、静かに言った。


「何度か、という量じゃないね」


 そして皆の視線がエミリアに集まった。


 エミリアは一拍だけ黙ってから、小さく言った。


「……果汁を入れたあたりから、急に飲みやすくなったんです」


「つまり、みんな止まらなくなったのね」


 セリーヌ王女がまとめると、エミリア達は素直に頷いた。


 クラリスが腕を組んで笑う。


「研究会らしいわね。成果物を、先に飲み干しかけるなんて」


 セリーヌ王女は口元に手を当て、上品に、けれど隠しきれない楽しげな声で言った。


 ノエミが即答する。

「研究用と、おやつ用を分けよう」


「飲み物です」

 フローレが訂正した。


「どちらでも同じだよ」

 クラリスが返した。


 笑いが落ち着いたあとで、エミリアがようやく言う。


「……でも、分かりました。これは途中経過でしかないと思っていましたけれど、もうこの段階で別の価値があります。糖化液そのものが飲み物になる」


「煮詰める前から、使い道があるということですわね」

 ミレイユが言う。


 糖を作る、ということは、最後まで煮詰めて固めることだけではない。研究会は、この段階でそれを一つ学んだ。


◇◇


 とはいえ、そこで終わるわけにはいかなかった。


 人間にとって美味しいものは、雑菌にとっても美味しい可能性が高い。このまま明日に持ち越せば、残り全部が雑菌のご馳走になってしまうだろう。しかも液体のままでは重い。運ぶにも不便だし、薄いままでは腐りやすい。甘味を得ることと、保存することは別なのだ。


 濾した糖化液を今度は鍋へ戻す。水分を飛ばして、糖原料にしていく。焦がしては駄目だが、軽すぎてもいけない。火が強すぎると焦げる。弱すぎると終わらない。


 フローレが泡の立ち方を見ながら言う。


「砂糖を煮る時とは違いますわね」


「どう違うの?」

 クラリスが聞く。


「砂糖なら、最初から砂糖の結晶ですの。でもこれは、今ここで作ったものですから糖以外のものが残っています」


 鍋の中身はだんだんとろりと重くなった。匙を持ち上げると、細い糸になってゆっくり落ちる。


「……糖液にはなりそうですわね」


 誰かが言った。


 その一言で、部屋の空気が少し変わった。


 芋を甘くしたのではない。米や芋の澱粉から、狙って糖を取り出し、さらに液体材料として扱える形まで持っていけたのだ。


 だが、そこで終わらないのが研究会だった。


「問題は、この先ですね」

 エミリアが言う。


「この糖液、甘いことは甘いんですけど、砂糖みたいな強い甘さではありません。おそらくは同じ重さだけ使っても、お菓子にすると少し物足りないはずです」


「麦芽糖の甘さは、砂糖ほど強くはありませんものね」

 ミレイユが答える。

「それに、これを乾いた結晶にして砂糖のように扱えれば楽なのですけれど……麦芽糖はそこが面倒です。結晶にしにくいし、しても実用的ではありません」


「だから、結局は液として使うのが自然なのね」

 フローレが言う。


「ええ」

 エミリアは頷いた。

「無理に砂糖の真似をさせるより、糖液として使ったほうが、この甘味の良さが生きます」


「つまり」

 クラリスが言う。

「砂糖の“代わり”じゃなくて、別の材料ってこと?」


「そうです」

 エミリアは頷いた。

「同じ甘いものでも、性質が違う。だから使いどころも違う」


◇◇


 そこでエミリアは、ふと別のことを言い出した。


「複雑なお菓子だと、何が効いたのか分かりませんから」


 皆が顔を上げる。


「まずは、研究会の原点に戻ります。焼き菓子で比較します」


 その言葉に、フローレが少し笑った。焼結炉の残り火で焼き菓子を焼き、そこから砂糖研究会が始まったことを、この部屋の面々は皆知っている。


「原点回帰ね」

 クラリスが言う。

「で、何を焼くの?」


「パウンドケーキです」


 エミリアは、砂糖を使ったいつもの配合のパウンドケーキと、糖液へ置き換えた試作を並べて焼いた。片方は慣れた甘い香りで、片方は少し重い、穀物の匂いを引きずるような甘さが立つ。


 焼き上がった二本を切り分ける。


 見た目は似ている。だが、指で押した感触が違った。


 砂糖の方は軽い。糖液の方は少しだけどっしりしている。けれど乾いた重さではなく、押すとゆっくり戻るような重さだった。


 クラリスがまず食べ比べた。


「こっちは甘さが立つわね」


 砂糖の方を指す。


「で、こっちは……妙にしっとりしてる」


 糖液の方をもう一口食べる。


「派手さはないけど、こっちの方が止まらないわね」


 フローレがすぐに頷いた。


「糖液は、焼き菓子に使うなら悪くはありませんわ。砂糖ほどしっかりした甘さは出ませんけれど、その代わり乾きにくい。翌日でも、ぱさつきにくいはずです」


 ミレイユが言う。


「この糖液のように水を抱えますものね。だから粉砂糖のようには使えなくても、焼き菓子ではむしろ利点になる」


 エミリアは少し笑った。


「材料の失敗って、だいたい使いどころ変えればなんとかなっちゃうんですね」


「でも、いつも使いどころがあるとは限らないからね」

 ノエミが言った。


◇◇


 では、糖液をそのまま飴にできるのか。


 研究会は当然そこへ進んだ。


 まずは糖液だけで試す。鍋でさらに煮詰め、冷やしてみる。見た目にはそれなりに固まる。だが、指で押せば少し沈む。蝋紙へ落として包んでみても、翌日には包みの内側へべたりと張りついていた。


「……駄目ですわね」


 フローレが率直に言う。


「腐りはしないでしょうけれど、これでは配れません。袋の中で全部が仲良く一塊になります」


「べたつくのよね」

 クラリスが言う。

「こういうの、兵に持たせると面倒よ。食べようとした時に手も袋も汚れるし、夏場なんて最悪だわ」


「それに、糖液だけでは固まっても『乾いた固まり』にはなりませんわ」

 ミレイユが補う。

「柔らかさが残る。だから飴になりきらない」


「じゃあ今度は、砂糖だけ?」

 クラリスが聞く。


「はい。比較しないと、何が悪いか分かりませんから」


 白砂糖を煮て、べっこう色に持っていく。冷やせばしっかりと硬くなる。見た目もきれいだ。だが、少し加工したり、鍋肌の結晶が混じったりすると、途端にざらつき、白っぽく結晶に戻りやすい。


「砂糖って一度溶かしても、また結晶に戻ろうとするんですのね」

 ミレイユが言う。

「きれいに並び直したがる。だから粉にしやすいのです」


「同じ甘味なのに、ずいぶん面倒ね」

 クラリスがうんざりしたように言う。


「性質が違うなら、組み合わせてみては?」


 ノエミが先に言った。

「混ぜるしかないね」


◇◇


 そこからは、配合の話になった。


 砂糖を多くすれば固い飴になる。だが高価な砂糖をあまり使いたくない。また、場合によっては結晶に戻る。


 糖液を増やせば、砂糖が並び直すのを邪魔できる。だが多すぎれば柔らかく、へにゃつく。


 つまり、どちらか一方で勝つのではなく、両方をあわせることを考える。


「砂糖一、糖液一」


 ノエミが記録紙にそう書く。


「まずはここから」


 煮る。泡を見る。冷水へ一滴落とす。まだ柔らかい。もう少し。次は丸まる。さらに少し。今度は取り上げると、きん、と硬い。


「この辺ですわね」

 フローレが言った。


 鍋を引き、少しだけ冷ましてから、油を薄く塗った石板へ落とす。熱いうちに細く引き、切り分けられる硬さになる寸前で小さく整える。


 冷えたものをクラリスが一粒口へ入れた。


 しばらく舌の上で転がして、それから言う。


「……これなら持てるわ」


 エルザがすぐに蝋紙を持ってくる。小さく切った紙へ一粒ずつ置き、端をきゅっと捻る。飴は紙の中でくっつかず、ちゃんと独立したまま収まった。


「これなら配れます」


 エルザの声が少し弾んでいた。


「糖液だけの時よりずっと良いです。少なくとも、袋の中で一塊にはなりにくい」


 ミレイユが蝋紙包みを指でつまみながら言う。


「面白いですわね。甘いものを作るだけでも、考えることは多いですね」


「ええ」

 エミリアは頷いた。

「固まること。戻らないこと。包めること。運べること。そこまで来て、初めて品物になる」


 クラリスが包みをひとつ掌へ転がしながら言う。


「こうしてみると、小さいのにちゃんと武器ね」


「武器?」

 フローレが聞き返す。


「甘味は、兵の機嫌にも、足にも、頭にも効くのよ。前線だと、そういうものが地味に効くの」


 その言い方に、セリーヌ王女が静かに頷いた。


◇◇


 完成した飴は、小箱に収められて王女の前へ並べられた。


 砂糖の飴ほど透き通ってはいない。だが琥珀色で、揃っていて、蝋紙に一粒ずつ包まれている。それだけで、ただ鍋から偶然生まれた副産物ではないことが分かる。


 セリーヌ王女は一粒を手に取り、包みを開いて、しばらく眺めた。


「可愛らしいですわね」


「見た目の話ですか?」

 クラリスが聞く。


「持ち歩ける、という意味でもありますわ」


 王女は飴を口へ入れた。しばらく黙って味を見てから、穏やかに言う。


「砂糖だけの飴ほど華やかではありませんわね。ですが、十分に甘い。そして味が柔らかい。しかも、これなら砂糖の使用量を減らせます」


「はい」

 エミリアが答える。

「上等な飴ほどではなくても、携行用ならこちらの方が向いていると思います」


「兵に持たせるのに、ちょうど良いですわ」


 王女はすぐにそう言った。


「見張りや伝令は、長く食事を取れないことがありますもの。携行ケーキほどの量はいりませんけれど、少しだけ甘いものが欲しい場面はございます」


 クラリスも頷く。


「行軍の途中でも、これなら一粒だけ口へ入れられるわね」


「そして」


 王女は、糖液の壺の方へ視線を移した。


「残りは飴にしなくてもよろしいのですわね?」


「ええ」

 フローレが答えた。

「むしろ糖液のままの方が、料理や焼き菓子には使いやすいです。しっとりしますし、艶も出ます」


「庶民向きの甘味としては、そちらの方が広がるかもしれません」

 エルザが続ける。

「高価な砂糖のように白く量って使うものではありませんけれど、台所には入りやすいです」


 ノエミが最後に、紙の数字を見ながらまとめた。


「つまり、住み分けね」


 皆が顔を上げる。


「上等な飴や軍用の携行飴には、米や芋から作った糖液と砂糖を合わせる。料理や庶民の菓子には、糖液を主に使う。全部を一つで置き換えようとしない」


 セリーヌ王女が微笑んだ。


「合理的ですわね。とても」


◇◇


 その日の帰り際、研究会の机の上には、白い砂糖壺と、琥珀色の糖液壺と、蝋紙包みの飴の小箱が並んでいた。


 砂糖は、さらさらと乾いている。


 糖液は、匙を入れれば細い糸を引く。


 飴は、紙の中で一粒ずつ独立している。


 どれも甘い。けれど、どれも同じではない。


 フローレが片付けの手を止めて言った。


「砂糖と糖液って、似たものだと思っていましたわ」


「甘いもの、という意味では似てるでしょうね」

 ミレイユが答える。

「でも、作り方も、固まり方も、使い方も違います」


「簡単ではありませんでしたわね」


「ええ。全然」


 エミリアは机の上の三つを見た。


「でも、簡単じゃなかったから、ここまで来たんでしょう」


 甘味を作ることは、甘くすることではなかった。


 澱粉をほどき、糖に変え、煮詰め、性質の違いを見て、組み合わせ、包んで、運べる形にする。そこまで来て、ようやく甘味は研究室の机から外へ出ていける。


 砂糖だけでは高価で戦争時には手に入らない。

 糖液だけでは固まらない。

 なので、その違いを合わせた時、初めて使えるようになった。


 ふと、エルザが小箱を持ち上げて、首を傾げた。


「……研究用の飴、ずいぶん減っておりますわね」


「あ」


 その一音で、部屋の中がぴたりと止まった。


 さっきまで、たしかにもう少し入っていたはずだった。誰かが床に落とした様子もない。蝋紙の破れた屑も見当たらない。となれば、答えは一つしかない。


 視線が、ゆっくりと一方向へ集まる。


 クラリスは一拍遅れて頬の動きを止めた。


「……なによ」


「いえ、別に」


 クラリスは飲み込んでから、開き直ったように言った。


「持ち歩けるか、確認してたのよ」


「今、この部屋の中ですわよ」

 フローレが即座に返す。


「部屋の中でも、持ち歩きたくなる出来ってことでしょう?」


 その言い分に、数人が吹き出した。


 セリーヌ王女はとうとう笑いを隠しきれなくなって、侍女の持つ箱を見て言った。


「では結論ですわね」


 皆が顔を上げる。


 王女は、いかにも満足そうに微笑んだ。


「この飴は、前線でも研究室でも、すぐになくなりますわ」


◇◇


 それからしばらくして、王都の一角に、妙な屋台が現れた。


 王立大学校の正門から少し離れた通りである。昼どきになると学生が流れ、講義の合間には教師や事務方まで通る場所だった。そこに小さな木台が一つ据えられ、その上に大きな陶器壺が置かれている。壺の外側には濡らした布が巻かれ、横には薄めた果汁の瓶、木匙、素焼きの小杯が並んでいた。


 看板もある。


 大きく、やや不格好な字でこう書かれていた。


 王立大学校学生実習販売

 砂糖研究会開発 甘味飲料


 エミリアは、その看板を見上げて、しばらく無言になった。


「……何ですか、これ」


 隣でクラリスが吹き出す。


「そのまんまじゃない。甘味飲料でしょ」


「そういう意味じゃありません」


 木台の向こうでは、王立大学校の学生が二人、妙に手際よく杯へ液を注いでいた。

 エミリアの魔素通信機でバイトをしてもらっているエディ君達だった。

ひとりは杯を並べ、もうひとりは果汁をほんの少し加えて木匙で混ぜる。受け取った客は、最初こそ「ただの甘い汁だろう」といった顔をするのだが、ひと口飲んだあとはたいてい表情が変わる。そして、だいたい同じ反応になる。


「ああ、これ、もう一杯」


 通りの端には、すでに短い列までできていた。


 エミリアは木台の前へ歩み寄った。


「……誰の許可で」


「王女殿下のご許可です」


 売り子の学生が、妙に胸を張って答える。


「売上の一部は材料費と研究会の活動費へ、残りは学生の実習手当です」


「実習手当」


「はい。甘味飲料の調合、衛生管理、容器回収、売上計算まで含めて、実地訓練を兼ねております」


 その言い方があまりにも真面目で、エミリアは一瞬だけ言葉を失った。


「……誰が考えたんですか」


「わたくしですわ」


 後ろから、いかにも楽しそうな声がした。


 振り向くと、セリーヌ王女が立っていた。侍女を伴ってはいるが、どう見ても覗きに来ただけ。


「だって、もったいないではありませんか」


 王女は当然のように言う。


「糖化液の段階で、あれほど飲み物として完成していたのですもの。煮詰めて糖液にする前に、一つ商品として成立するなら、出さない手はございませんわ」


「商品って……」


「ええ。王都の学生は甘いものに飢えておりますし、大学校の近くなら評判も広がりやすいでしょう?」


 その理屈は、腹立たしいほど正しい。


 クラリスが横で肩を揺らした。


「いいじゃない。研究会らしくて」


「らしい、で済ませていいんですか、これ」


「だって実際、売れてるわよ」


 言われて見れば、その通りだった。


 糖化液を薄め、果汁を少し入れた甘味飲料は、驚くほど評判が良いらしい。重すぎず、後味が軽い。砂糖水よりやわらかく、しかも少しひんやりしている。学生たちは講義の合間にそれを買い、飲みながら次の教室へ歩いていく。教師らしき人物まで、最初は怪しそうにしながら、二杯目になると何も言わずに銅貨を置いていった。


 フローレが少し遅れて姿を現し、売り場を見て満足そうに頷いた。


「果汁の量、ちょうど良いですわね。甘味がだれません」


「味見したんですか」


「しましたわ」


「さっきから、研究会って何でも味見しますね」


「甘味研究会ですもの」

 

 ヘレーネは木台の横で、壺に巻いた布の湿り具合を見ていた。


「布はもう少し頻繁に濡らしたほうがいいですね。ぬるくなると、飲み口が落ちます」


 ノエミは帳面を持っていて、横で、すでに売上と杯数を数えている。


「午後のほうが売れるね。講義が終わったあとの学生がもう一杯いく」


「……なんで、もう運営が回ってるんですか」

 エミリアが呟くと、ノエミは顔も上げずに答えた。


「だって売れるもの」


 その一言に尽きた。


 砂糖研究会が作ったのは、砂糖の代用品だけではなかった。糖液だけでも、飴だけでもない。王都の通りで、学生が実際に売って、客が実際に金を払う「使える甘味」が、もう一つ増えていたのだ。


 その時、売り子の学生が木台の下を見て、少し困った顔をした。


「先輩、甘味飲料、もう残り少ないです」


「えっ」


 エミリアが思わず壺を見る。たしかに、さっきまで半分ほどあったはずの液面が、もうずいぶん下がっている。


 クラリスが横で笑う。


「前線でも研究室でも、すぐなくなるって話だったでしょ」


「今度は王都の一角でも、ですね」

 ミレイユが静かに言った。


 セリーヌ王女は、売り子の学生に向かって軽く扇を振った。


「本日の販売は、売り切れ次第終了でよろしいですわ」


「はい、殿下!」


 学生の声は妙に元気だった。どうやら実習手当という言葉は、若者に対してたいへん強く効くらしい。


 エミリアは、看板をもう一度見上げた。


 砂糖研究会開発 甘味飲料


 その字面が、なんだか少しだけ可笑しい。


 砂糖を研究していたはずなのに、今、王都で売れているのは砂糖でも糖液でも飴でもなく、薄めて果汁を落とした飲み物だった。


 けれど、考えてみれば、それも確かに研究会らしかった。


 使える形になったものから、先に社会へ出ていく。


 セリーヌ王女が、いかにも満足そうに言った。


「砂糖研究会が今回王都で売ったものは、砂糖でも糖液でも飴でもなく、甘味飲料でですわ」


 誰も反論できなかった。

 その場で、いちばんよく売れていたからである。

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