第42話 勇者と剣
アヴァロン王国の王立製鉄所は、朝から低く唸るような音に包まれていた。
石積みの高炉は夜のあいだも火を落とさず、下から押し込まれる風に応えるように、腹の奥で絶えず赤い息をしている。水車が回り、歯車が鳴り、ふいごが空気を送り、炭の匂いと鉄の匂いが混ざって重く流れていた。
そこにある音は、鍛冶場のような甲高い槌音とは違う。もっと大きく、もっと鈍く、鉄鉱石を溶かし、銑鉄を作り、炭素量を調整して、扱える鋼へと近づけていく。ここは一本の剣を仕上げる場所ではなく、国の中で使われる鉄の基礎を作る場所である。
その門の前に、旅装の男が立っていた。
背丈があり、肩も広い。使い込まれた鎧の上からでも、戦い慣れていることが分かる体つきだ。腰には長剣を帯び、外套の裾は長旅で汚れている。門番に名を告げると、相手は少しだけ目を見張り、それから慌てて奥へ案内した。
勇者、と呼ばれている男だった。
案内された先で、帳面を手にした青年が顔を上げた。作業着の袖を捲り、煤のついた手袋を片方だけ外しかけている。ヘンリー・アッシュトンは、来客の顔を見るなり、露骨に眉をひそめた。
「……勇者、ね」
それは驚き半分、面倒ごとを察した顔半分だった。
勇者はその目つきを気にしたふうもなく、一礼した。
「ヘンリー殿ですね。突然伺って申し訳ありません」
「うちは剣を作るところじゃないんですが」
開口一番がそれだった。愛想も何もないが、勇者も最初から期待していなかったらしい。
「承知しています。ただ、ここへ来れば話が早いと聞きました」
「誰に」
「リエシュタイン王国の宮廷です」
その国名に、ヘンリーの表情が少し変わった。リエシュタイン王国。アヴァロン王国から見れば、二つ三つの国を越えた向こう側にある山国だ。巨大な山岳地帯を抱え、三国の境が岩と谷のあいだで入り組んでいると聞く。
「遠いな」
「ええ。だからこそ、できるだけ無駄な寄り道はしたくありませんでした」
勇者は静かに続けた。
「南の大山脈の奥に、ドラゴンが棲みついたそうです。山道を通る荷隊が襲われ、谷沿いの集落も幾つか捨てられました。王宮と冒険者ギルドが征伐を決め、私もその役を引き受けました」
「それで、鉄屋を訪ねてきた?」
「ドラゴンを切れるような最高の剣を、作ってほしいのです」
そこで勇者は一度息をつき、少し言いにくそうに、それでも真面目に言った。
「王家から資金は十分に受けています。もし入手できるなら、オリハルコンでもミスリルでも使ってください」
その瞬間、ヘンリーははっきり嫌そうな顔をした。
「……誰だ、そんなことを吹き込んだのは」
「伝承です。ドラゴンには特別な金属が――」
「おとぎ話だな」
即答だった。
勇者は口を閉じた。否定されるのを予想していなかったというより、もう少し穏やかな否定を想像していた顔だった。
ヘンリーは小さく息を吐き、手袋を作業台に置いた。
「オリハルコンの剣、か。はっはっは。そういう話は、確かにある」
口元だけで笑ったあと、すぐに真顔へ戻る。
「だがな。使えない金属で、どうやって剣を作る」
「使えない?」
「存在はする。だから余計に面倒なんだよ」
そう言ってヘンリーは奥の棚へ歩き、小瓶を一つ持って戻ってきた。蓋を開けると、中にあるのは灰色の粉だった。ごく少量だ。金属光沢はあるが、塊ではない。ただの細粉にしか見えない。
「これが、そうだって話だ」
勇者が身を乗り出す。
「……これがオリハルコンですか」
「特殊な鉱石を薬品で処理して、どうにか粉までは取り出せる。ここまではいい。問題はその先だ」
ヘンリーは指先で少しだけ粉をつまみ、光にかざした。
「溶けない。鉄にも混ざらない。叩いても伸びない。粉のままなんだよ。セラミックみたいに焼いて形を作る使い方なら、どこかの変わり者がそのうち試すかもしれないが、ここは製鉄所だ。少なくとも、剣にする話ではない」
「では、オリハルコンの剣というのは」
「そういうおとぎ話があった、ってだけだ」
あまりにあっさりしていて、勇者はしばらく黙っていた。伝説を否定されたことより、現物が本当にあるのに、製造技術の側が追いついていないという事実のほうが意外だったらしい。
「……分かりました。では、ミスリルは」
「そっちはまあ、使えなくはない」
ヘンリーは木箱の蓋を閉じると、今度は別の引き出しから黒い小袋を取り出した。中には黒光りする粒のようなものが入っている。砂鉄に似ているが、色に少し独特の深みがあった。
「ミスリルは、単体で剣にするような金属じゃない。鉄に混ぜて使う」
「混ぜる」
「そう。こいつ自体が魔法みたいに強いわけじゃない。鉄に混ぜると、鉄の出来が変わるんだ」
勇者は袋の中身を見つめた。
「どう変わるんです」
「そいつは、鍛冶屋に見せたほうが早いな。俺は銑鉄を作って、炭素量を調整して、鋼や軟鉄を揃えるところまでだ。その先でどう効かせるかは、鍛冶の仕事になる」
そして少しだけ口元を緩める。
「ちょうど、腕のいい無愛想がいる」
「無愛想」
「ガルドだ」
ヘンリーは帳面を閉じた。
「連れて行く。お前が本気なら、あいつも話くらいは聞くだろう」
◇◇
ガルドの鍛冶工房は、王立製鉄所の巨大さとは別の意味で圧があった。
炉は人の背ほどの高さしかない。だが火は近く、熱は直接皮膚に触れる。金床の周りには大槌、小槌、火箸、砥石、桶、木炭、削りかけの地金が並び、壁には完成した刃物が掛けられ、失敗作の欠片が無造作に積まれていた。雑に見えて、どこに何があるかはそれなりに決まっているのだろう。
ガルドはちょうど、短刀の研ぎを終えるところだった。五十前後、肩幅が広く、腕は太い。目つきは悪いが、研いでいる指先だけは妙に静かだ。ヘンリーが声をかけると、彼は顔も上げずに返した。
「なんだ」
「仕事だ」
「お前のか?」
「半分はそうだ」
ようやくガルドが顔を上げ、勇者の姿を見た。そして頭の先から靴先までゆっくり眺める。
勇者が口を開いた。
「ドラゴンを討伐する剣をお願いしたい」
「……ドラゴンだと?」
勇者が頷く。
「鱗が硬いそうです」
「硬いもんは叩き割る」
それが第一声だった。
「切るのが難しいからな」
ヘンリーがすぐに返す。空気が少し張った。
ガルドは目を細めた。
「理屈で切れるなら、誰も苦労はせん」
「理屈がないから叩いて壊すしかないだろ」
「叩いて壊れる相手なら、それで済む」
「ドラゴンは済まない」
短いやりとりだが、二人が昔から同じ話題で何度も言い合ってきたのが分かる調子だった。勇者は口を挟まず、ただ黙って見ていた。
やがてガルドが鼻を鳴らす。
「で、どうする」
ヘンリーは作業台の上に簡単な図を描いた。
「刃の部分だけ、より硬くしたい。多めの炭素鋼にミスリルを加える。ただし、それだけだと割れやすくなる」
「ミスリルだと!!」
ガルドの声が初めて少し大きくなった。
ミスリルという名前に反応したのは、伝説の素材だからではない。扱いが面倒で、失敗すれば高価な材料を無駄にするからだ。
「だから芯に低炭素鋼を使う。ミスリルの刃鉄を、粘る芯鉄で包む」
ガルドの眉が少し上がる。
「刃だけを働かせる剣か」
「そうだ。叩き壊すためじゃなく、切るための剣だ」
「相当に面倒だな、打つのが大変だ」
「面倒だから、お前に持ってきた」
「嫌な言い方しやがる」
だが、断るわけではなかった。ガルドはしばらく図を見てから、勇者へ視線を移した。
「お前、良いガタイしてるな」
「は?」
「手伝ってもらうぞ」
勇者は一瞬きょとんとした。王家の依頼で高価な剣を頼みに来たのだから、てっきり鍛冶師が一人で作り、自分は金を払って待つだけだと思っていたのだろう。
「……私が、ですか」
「当たり前だ。これは相当に大変な仕事だ。お前さんの腕力も使わせてもらうぞ」
それは乱暴な言い方だったが、勇者はしばらく考えたあと、素直に頷いた。
「分かりました。やります」
ガルドは口元だけで小さく笑った。
「よし」
◇◇
ミスリルは、まず見た目からして普通の鉄鉱石とは違った。
ガルドがヘンリーから受け取った袋を開け、掌に黒い粒を転がす。火の光を受けて、その黒はただ黒いのではなく、奥に少し青みを含んだような深い色を見せた。
「……黒光りしてる。色味もいい」
ガルドはしばらく無言で眺めてから、小さく言った。
「ヘンリーが、つてを辿って手に入れたミスリル、これは当たりかもしれねえ」
「見て分かるんですか」
勇者が訊くと、ガルドは肩をすくめた。
「見て分かるようになるまで、何本も折った」
それ以上の説明はしない。だが、その言葉だけで十分だった。
鍛造は、その日のうちに勇者の想像を打ち砕いた。
まず、ヘンリーの用意した鋼を小さな炉で加熱し、ミスリルを加えて溶かし込むところから始まった。王立製鉄所の大きな炉で全体を処理するのではなく、剣一本に必要な量だけを工房で扱う。そうしなければ、量が大きすぎて調整ができないからだ。
溶けた鋼は型へ流され、扱える塊へとまとめられる。その後、炉へ戻し、赤く熱してから打つ。見た目には十分に柔らかそうに見えた。だが、大槌で打ち下ろしても、普通の鉄のようには伸びない。槌の音は重く、返ってくる衝撃も強い。
「ほら、打て」
ガルドが命じる。
勇者は大槌を振り下ろした。火花が散る。だが地金はほとんど形を変えない。
「……動かない」
「動かねえよ」
ガルドは平然と答えた。
「ミスリルが入ってる」
「温度は足りてるはずだ」
「足りてる。だからこれでいい」
「これでいいって」
「強い鉄ってのはな、楽には形を変えねえんだよ」
炉へ戻して、また打つ。少し向きを変え、また打つ。今度は弟子が片側を持ち、勇者が大槌を振るう。次に弟子が打ち、勇者が支える。さらにもう一人が加わって、三人で交代しながら叩く。
それでも進みは遅い。たしかに少しずつ形は変わっているが、普通の鉄の感覚で見れば、作業の進み方はもどかしいほどだった。
勇者は最初、力を込めればなんとかなると思っていた。だが、すぐに違うと分かった。力任せに叩くだけでは、槌が跳ね、腕が先に死ぬ。打つ場所を揃え、温度を見て、焦らずに少しずつ動かす必要がある。強い材料とは、ただ頑丈なのではなく、こちらの思い通りに形を変えてくれない材料でもあるのだ。
その日は、棒の形にまとめるだけで終わった。
しかも終わった頃には、勇者だけでなく弟子たちまで工房の隅で座り込んでいた。汗で髪は濡れ、腕は上がらず、誰も余計な口をきく気力がない。
「……これ、まだ最初ですよね」
勇者が言うと、ガルドは当然のように頷いた。
「まだ棒だ」
弟子の一人が呻くように笑った。
「今日はよく寝られますよ、きっと」
「寝られるなら幸せだな」
勇者はその晩、弟子たちと一緒に本当に寝込んだ。
◇◇
翌日からは、棒を刃鉄と芯鉄に分けて作り始めた。
芯鉄には低炭素鋼を使う。こちらはまだ少し素直だった。打てば伸びるし、形も変わる。もちろん簡単ではないが、ミスリル入りの刃鉄と比べれば、まだ相手をしている感覚があった。
だが刃鉄は違う。ミスリルを加えて靭性を持たせたうえで、さらに炭素を増やして硬い寄りに持っていく。そのぶん脆さの気配も出てくるから、全体をそのままで造ることはできない。
「全部これで作ればもっと切れるんじゃないか、と思うだろうがな」
ガルドが言う。
「そう思います」
「そうすると、よく切れる前に、よく割れる」
勇者は、刃鉄の小片を見た。
硬いものは切れる。だが、硬いものは欠ける。単純に強くすればよいわけではない。刃として働く部分と、衝撃を受け止める部分を分けなければならない。
だから芯鉄で受ける。刃鉄を芯鉄で抱くように合わせ、硬いところだけを働かせ、全体の破断は防ぐ。その理屈を、勇者は見ていくうちに少しずつ理解していった。
剣は一種類の鉄を削って作るものだと、どこかで勝手に思っていた。だが実際には違う。中で役割が分かれている。切るところ、支えるところ、衝撃を逃がすところ。完成した剣の外側だけを見ても、その分担は見えない。
合わせ鍛えは、見ていて妙な作業だった。別々の鉄が、熱し、打たれ、重ねられ、やがて境目が溶けていく。完全に一つになるわけではない。だが離れもしない。ちょうどよく一緒に働くように継がれていく。
「ここで浮いたら終わりだ」
ガルドは境目を見ながら言う。
「少しでも隙があれば、そこから壊れる。刃がどれだけ良くても、そこで剥がれたら意味がない」
勇者はそれを聞きながら、自分が今まで見てきた剣が、完成した姿しか知らなかったことに改めて気づいた。戦場で剣を振るう者は、刃が切れるかどうかを見ている。だが鍛冶場では、切れる前に壊れないことを考えている。
◇◇
焼入れは、一瞬だった。
だが、その一瞬のために何日もかけて鍛え、削り、整えてきたのだと思うと、勇者は思わず息を詰めた。
ガルドは炉の色を見ている。温度計などはない。火の色、鉄の色、表面の様子、取り出したときの光り方。それらを全部見て、今だというタイミングを選ぶ。
熱した刃が水に入る。白い蒸気が一気に立ち、工房の中の空気が揺れる。
「これで終わりですか」
勇者が訊くと、ガルドは首を振る。
「終わるなら楽でいいが」
焼入れのあとの刃は硬い。だが硬すぎる。そこで今度は焼戻し、ガルドの言い方を借りれば「少し戻す」工程に入る。
「締めたままじゃ脆い」
ヘンリーが説明する。
「だから少しだけ力を抜く」
「ちょうどよく、か」
「そうだ」
その“ちょうどよく”が、結局いちばん難しいのだろう。
最後の研ぎに入る頃には、勇者はもうこの剣をただの武器として見られなくなっていた。ここまでにどれだけ火を見て、槌を振り、境目を消し、性質を作り分けてきたかを知ってしまったからだ。
そして、この頃から妙なことが起き始めた。
剣の前に立つと、何か気配のようなものを感じるのである。はっきり姿が見えるわけではない。ただ、じっと見られているような、どこかで様子を伺われているような感覚がある。
最初は疲れだと思った。何日も火の前に立ち続け、腕も腰も悲鳴を上げているのだ。そんなことくらいある。
だが、研ぎの角度を変えたとき、あるいは刃を光にかざしたとき、その気配は少しだけ強くなる。今の角度ではない。もう少し寝かせろ。もう少し引け。言葉ではないのに、そんな感覚だけが手元に残る。
ガルドは、勇者が何かを気にしていることに気づいたのか、砥石の水を替えながら言った。
「あー、鍛冶場でも、なんとなくウマが合う鍛冶場と合わねえ鍛冶場があるもんだ」
「ウマが合う、ですか」
「同じ道具、同じ火、同じ鉄でも、妙に手が合う日と合わねえ日がある。理由なんざ知らん。だが、そういうもんはある」
ガルドはそれ以上は説明しなかった。
勇者も、それ以上は聞かなかった。
◇◇
剣が完成した日、勇者は自然に、いつものように上から叩きつけるような試し打ちをしようとした。
だが、それをガルドが止めた。
「違う」
「え?」
「それは叩く剣の振り方だ」
ガルドは木片を一本立て、勇者の手から剣を取った。
「普通の剣は、力任せに叩くように切る。重さをぶつけて、刃先を食い込ませる。それで済む相手も多い」
そう言って一度、わざと鈍い振り方を見せる。木片ははね飛ぶだけで、きれいには切れない。
「だが、これは切るための剣だ」
今度は構えを少し変えた。押し込むのではなく、刃を斜めに流す。包丁を斜めに滑らせて切るように、刃先だけでなく刃全体を使う。
木片は、音もなく切れた。
「……今のは」
「ただでさえ鋭い刃先を、さらに刃全体ですべらせるんだ。押し切るんじゃない。動かす」
勇者は何度も繰り返した。最初はうまくいかない。頭では分かっても、腕は今までの打ち込みの癖で動いてしまう。
叩くと、剣は弾かれる。押し込むと、刃は止まる。刃を立てすぎると食い込まない。寝かせすぎると滑るだけになる。
だが、何度目かにふと感覚が変わった。押さない。叩かない。刃を流す。
その瞬間、木片がするりと切れた。
同時に、どこかから強い視線を感じた。
振り返っても誰もいない。弟子たちは離れたところで見ているし、ガルドは目の前だ。だが、何かが確かに「今だ」と頷いたような気がした。
「どうした」
ガルドが訊く。
「……いえ」
勇者は首を振った。
「なんでもありません」
だが、その日を境に、切り方の鍛錬を重ねるたびに、その気配は濃くなっていった。腕が上がるほどに、何かが近づいてくるようだった。教わっているのは確かにガルドなのに、ふとした瞬間に、誰か別のものからも見られているような気がする。
それは不気味というより、妙に静かな緊張感だった。
◇◇
ドラゴンは、噂どおり遠かった。
三つの国を越え、さらに山道を進み、人の領分が薄くなったあたりでようやく痕跡が増えた。大きく抉られた岩、焼けた木、荷車の残骸。道はあるが、もう人が安心して通れる道ではなかった。
勇者の仲間は五人いた。前に出る盾役、巨大なアックスを持つ斧使い、弓で牽制する者、回復役、それに魔法で牽制と目くらましを担当する者である。彼らは全員、ドラゴンが普通の魔物とは違うことを知っていた。正面からまともに受ければ死ぬ。攻撃が通らなければ、時間をかけて削るしかない。そのための役割分担もできていた。
ドラゴンは谷の奥にいた。
岩場に伏せていた巨体が動いた瞬間、戦闘が始まった。まず頭が上がり、次に首が動き、翼がわずかに開く。鱗は岩の色に近く、遠目には体の線が分かりにくい。だが、動き出せばその大きさははっきり分かった。
「散れ! 正面に固まるな!」
盾役が前に出る。弓が射られ、魔法の光がドラゴンの眼前を走った。注意を逸らすためだ。
次の瞬間、炎が来た。
盾役が踏み込み、巨大な盾を正面に構える。炎は広がるというより、圧と熱を持って押し出されるように来る。盾に当たった瞬間、金属が熱を持ち、盾役の足が後ろへ滑った。後ろの二人が支え、なんとか押し返されずに耐える。
その間に勇者は右から回り込んだ。ドラゴンの視線が盾へ向いている間に距離を詰める。
最初の斬撃を入れる。
これまでの癖で、上から叩きつけるように振った。刃は鱗の表面で弾かれた。切れるどころか、角度がずれて腕が持っていかれる。
「くそっ、やっぱり切れねえ!」
斧使いが叫びながら踏み込む。巨大なアックスを全身で振り下ろす。鈍い音がして、鱗の一部が欠けた。だが、それは割れたというより、表面が少し砕けた程度だった。
「叩け! 何度も叩いて剥がすしかねえ!」
それが彼らの知っている戦い方だった。硬い相手には、切るのではなく、重さで壊す。鱗を一枚ずつ砕き、下にある柔らかい部分へ攻撃を通す。その方法は時間がかかるが、ほかに手段がなければそれしかない。
勇者ももう一度、同じように振った。
やはり弾かれた。
そこで、斬りつける直前、心の中で自分を俯瞰的に見る姿勢と、なにかの影が重なった。
足の位置、肩の向き、剣の軌道が、自分の外側から見える。その線の上に、もう一つ別の線が重なった。影のようなものが、同じ構えで剣を持っている。ただし、そのラインは自分の想定したラインと、ほんのちょっとだけ違っていた。
剣が、わずかに傾いている。
「そういう切り方もあるということか」
勇者は、ほとんど独り言のように呟いた。
それは剣の重心を鋭く叩きつける手法ではなかった。剣をほんの少しだけ傾けるものだった。そうすると、刃が当たる位置がわずかに手前に来る。真正面から押し込むのではなく、接触した瞬間から刃が走り始める。剣の勢いを止めずに、刃全体を切るために使う形になる。
勇者はその影の動きに合わせて、剣を振った。
鱗に刃が触れる。
弾かれない。
止まらない。
わずかな抵抗のあと、刃が表面を走った。
鱗が一本の線で切れた。
取れたのではない。叩いて剥がれたのでもない。刃の通った線で、きれいに切れていた。
「……入った」
勇者は、自分の手元を確認するようにもう一度構えた。
同じことを試す。
今度は浅い。角度が少し違ったらしい。刃は滑っただけで終わる。
もう一度。
位置を少しずらし、角度を合わせる。押さずに引く。刃の長さを使い切るように動かす。
切れる。
同じように切れる。
「切れてるぞ!」
後ろで声が上がった。
勇者は止まらない。同じ動きを繰り返す。鱗の重なりを見て、角度を合わせ、剣をわずかに傾け、刃の長さを使って引き切る。
一枚。
もう一枚。
ドラゴンの動きが乱れる。
斧使いが、勇者の作った切れ目に武器を叩き込む。今度は表面で弾かれない。割れ目から力が入り、鱗の下の組織へ届く。
ドラゴンが吠えた。
痛みを感じたのだ。
その直後に炎が来た。盾役が受けるが、角度が悪い。熱が横へ流れ、前衛の二人が巻き込まれた。一人は転がりながら炎から逃れたが、もう一人はまともに熱を受け、動けなくなった。
「下げろ! 回復を!」
回復役が飛び出し、倒れた二人を引きずって後ろへ下げる。瀕死だが、まだ息はある。だが、前衛の手数は明らかに減った。
それでも勇者は止まらない。
ここで切れなければ終わる。ここで退けば、ドラゴンは体勢を整え、もう一度炎で押し潰してくる。
勇者は距離を詰めすぎず、しかし離れすぎもしない位置を保ち、同じ角度、同じ動きで切り続けた。押さない。叩かない。剣をわずかに傾け、刃を当て、引き切る。腕だけでなく、足と腰を使い、剣の長さを全部使う。
何度目かに首へ入れた斬撃で、ドラゴンははっきりと大きく出血した。
それまでの反応とは違う。鱗の表面で弾かれていたときには見せなかった動きで、首を引き、距離を取ろうとする。呼吸も荒くなり、動きに迷いが出る。
ここで初めて、退却を考えたのが分かった。
ドラゴンは後肢に力をため、翼を広げる。飛翔の姿勢に入る。
「飛ばせるな!」
誰かが叫ぶ。
勇者は一歩奥へ踏み込んだ。
狙いは首ではない。動き出した翼の付け根、その先に広がる薄い膜と、その内部を走る太い腱だった。
剣を当てる。
わずかに傾ける。
押し込まず、そのまま引く。
刃の長さを使い切るように引き切る。
手応えがあった。
薄膜が裂け、その奥の太い腱に刃がかかる。完全に断ち切ったわけではないが、大きく傷を入れるには十分だった。
翼の動きが崩れる。
飛び上がろうとした姿勢のまま、体が支えを失う。
ドラゴンはそのまま前に倒れた。
地面に叩きつけられ、体勢が崩れる。
「今だ、立たせるな!!」
勇者は間を置かずに踏み込む。
立ち上がる前に決める必要があった。
首元へ回り込み、先ほど切り開いたラインに刃を当てる。
角度を合わせる。
そのまま引く。
深く入る。
同じ動きを繰り返す。
一度、二度、三度。
切り口が広がり、出血がさらに増える。
ドラゴンが激しく暴れた。
尾が振られ、地面が抉れる。前脚が振り回され、岩が砕ける。炎が吐き出され、周囲が一気に焼かれる。
勇者は後ろに飛び退き、岩陰に身を隠す。炎が頭上をかすめ、空気が焼ける。熱が引いたのを確認してから、再び前へ出る。
ドラゴンはなおも暴れていたが、動きは徐々に鈍くなっていく。出血が止まらない。
呼吸が乱れ、力の入り方が変わる。
勇者は無理に近づかない。距離を保ち、動きを見ながら、隙ができたところだけに入る。
同じやり方で、刃を当て、引き切る。
深追いはしない。
確実に傷を増やす。
その繰り返しだった。
やがて、ドラゴンの動きが明らかに遅くなる。
炎の勢いも弱くなり、吐き出す間隔が伸びる。
さらに一歩、踏み込む。
首元に残っていた太い筋へ、最後の一撃を入れる。
刃を当て、角度を合わせ、引き切る。
手応えが途切れた。
そのまま、ドラゴンの体から力が抜ける。
しばらくのあいだ、痙攣のように動きは続いたが、やがて完全に止まった。
◇◇
討伐のあと、冒険者たちは焚き火を囲んで、当然のように剣の話を始めた。
「あの剣、もう一回見せてくれ」
勇者は苦笑しながら剣を抜いた。
「どうやって切ってたんだ」
「押すんじゃなくて、滑らせるんだ」
「分からん」
「だろうな」
そう言って、軽く一度だけ剣を振る。
その瞬間、いた。
今まで感じていた気配の主たちが、後ろに勢揃いしていた。人数は多くない。だが一人ではない。静かに立ち、同じように構え、同じ角度で刃を引いている。無言なのに、妙に楽しそうだった。ここまで付き合ってきて、最後の披露にも当然いる、とでも言いたげな顔をしている気がした。
勇者は思わず顔をしかめた。
「……うるさいよ」
「何がだ?」
仲間が怪訝そうに訊く。
「いや、なんでもない」
その一言で、彼らははっとしたように動きを止めた。やりすぎた、と気づいたように、揃ってすっと引く。次の瞬間にはもう見えない。
――楽しかったのかもしれない。
勇者はふと、そんなことを思った。手伝えるのが嬉しくて、つい出過ぎたのだろう。
あれが剣の守護神なのか、精霊なのか、幽霊なのかは分からない。
ただ――それでも。
そのあとでふと剣を見たとき、まだどこかその辺から覗いているような気がしたのは、たぶん気のせいではない。




