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第41話 銀と寒天

治癒魔法は、傷を「消す」魔法ではない。


 王立治療院では、そのことを弟子たちに何度も叩き込む。傷口の細胞を活性化し、分裂と修復を早める。だからこそ、汚れを落とし、水分と塩分と若干の糖分を与え、細胞が生きていられる環境を先に用意しなければならない。乾けば裂ける。汚れが残れば膿む。細胞の周りに水も塩も糖も足りなければ、魔法だけかけても育つものも育たない。


 だから治癒師は、魔法より先に洗う。


 それは分かっている。


 分かっているのに、治癒師シルヴィアには、ずっと引っかかっていることがあった。


「……また固着してる」


 処置台の前で、彼女は小さく息を吐いた。


 洗浄した傷に生理食塩水を含ませた布を当て、包帯で固定する。古くからある、ごく普通のやり方だ。間違ってはいない。けれど交換のたびに、布が傷に貼りつくことがある。剥がせば、新しく育ち始めた柔らかい表面まで一緒に傷める。患者は顔を歪め、治癒師はまた洗い、また魔法をかける。


 守っているはずのものが、次の処置で傷を増やしている。


 その感覚が、どうにも嫌だった。


◇◇


 きっかけになったのは、リザ様の輸液だった。


 体の中に、水と塩と糖、そして僅かなミネラルを入れる。細胞が生きていられるように、体内の条件を維持する。


 その発想を、シルヴィアはずっと覚えていた。


 ならば、外側にも作れないだろうか。


 傷の上に、水分を保ち、乾燥と固着を防ぎ、細胞が崩れにくい土台を。


 そこで彼女が目をつけたのが、寒天だった。


 水を抱え、形を保ち、柔らかい。傷の面に沿わせやすい。布と違って繊維がからまない。血液に近い側へ寄せた塩分等を含ませ、ごく少量だけ糖分も加える。大事なのは、水分を抱え、細胞の表面を乾かさないことだった。


ちなみにタンパク質のゼリーは腐る速度が非常に早く、すぐに液状に溶けたのでボツになった。


 最初の試作は、うまくいきかけた。


 洗浄した浅い傷の上に、薄い寒天保護材を置く。上から軽く固定する。交換のとき、布よりずっと剥がしやすい。痛みも少ない。傷の表面が乾ききらないぶん、治癒魔法の効きも悪くない。


「……これ、いいですね」

「繊維が残りません」

「交換のときの荒れ方が違います」


 周囲の治癒師たちの反応も良かった。


 シルヴィア自身も、これは行けるかもしれないと思った。


 だが、それは三日目で崩れた。


 寒天は、水を抱える。

 塩も抱える。

 傷から出る栄養たっぷりの滲出液も抱える。


 つまり、細胞にとって生きやすい土台は、雑菌にとっても生きやすい土台だった。


 曇る。ぬめる。匂いが変わる。膿みかけた傷では、寒天の方が先に悪くなることさえあった。


「……雑菌の培地ですね」


 見本を見た同僚の治癒師が、短くそう言った。


 言い返せなかった。


 人体を守るために作ったものが、雑菌を育てる土台にもなる。

 それが分かった時点で、このままでは使えない。


◇◇


 そこでシルヴィアは、学生の頃の知り合いのアデリーヌを訪ねた。


 麹や発酵を扱う、生物系の研究者だ。目に見えない小さな生き物を相手にしている人間なら、こういう失敗の先を知っているかもしれないと思った。


 王立大学校の一室で、シルヴィアが記録紙と失敗した寒天片を並べると、アデリーヌはすぐに頷いた。


「寒天そのものが悪いわけではありません。でも、水分と時間があれば、菌は増えます。まして傷の上ですから、菌にとって十分な土台になりますね」


「止める方法はありますか」


 アデリーヌは少し考えたあと、紙の端にいくつか書いた。


「強い酸や濃い塩は人の皮膚にはつかえませんから、昔から知られているものなら、銅と銀です。菌は、そういう金属に弱いことがあります」


「金属に?」


「ええ。古い王侯貴族が銀食器や銀の水差しを好んで使ったのは、見栄だけではないはずです。経験的に、水や食べ物が傷みにくいと知っていたのでしょう」


 銀の杯。銀の皿。銀の水差し。


 貴族の見栄としか見ていなかったものが、別の意味を帯びて見えた。


◇◇


 銀が菌に効くらしい、と聞いた日の夕方、シルヴィアは自室の机に向かっていた。


 最初は、学院や治療院の備品で済ませるつもりだった。だが、銀はそう簡単に手に入るものではない。工房に頼めば時間がかかる。薬師部門の棚を探しても、都合よく銀粉が転がっているわけではなかった。


 けれど、貴族であるシルヴィアの家には銀食器があった。


 大広間で使う大仰なものではない。来客用の棚の奥に、銀の小皿や脚付き杯が何点かある。古くから家にあるもので、使うのは年に何度もない。貴族の家なら一つや二つ、珍しくもない品だった。


 だから最初は、本当に少しだけのつもりだった。


 端を削る。

 ほんの少し粉を取る。

 それで足りなければ、また考える。


 理屈としては、そうだった。


 だが、実際にヤスリを手に取って銀の縁を削り始めると、金属の表面が思ったより早く削れ、細かい銀色の粉が紙の上に落ちた。これなら培地の上で比較しやすい。


「……あ、これ、かなりいい」


 誰もいない自室で、シルヴィアは小さく呟いた。


 こうなると、もう止まらない。


 小皿の縁。

 脚付き杯の台座。

 

 削りやすいところから少しずつ削っていき、紙の上に落ちた粉を集め、別の紙に包んで記号を書く。試験用。比較用。粉末大。粉末小。銀箔片あり。なし。


 気づいたときには、机の上は銀粉と紙片とヤスリでいっぱいになっていた。


 そして床には、見るからに無惨な姿になった銀食器が二つ、転がっていた。


 縁は一部が不自然に薄くなり、片方などは小さく欠けている。貴族の令嬢の部屋にあるべき風景ではなかった。


 そこへ、メイドが茶を替えに入ってきた。


 一歩入ったところで、足が止まる。


「シルヴィア様、これは?」


 視線の先には、机の上の銀粉、ヤスリ、紙束、そして床に転がる、削れて欠けた銀食器。


 ぎょっとするのも無理はなかった。


 シルヴィアは顔を上げ、手を止めるでもなく答えた。


「ああ、薬を試してたの。気にしないで」


 気にしないで、で済む光景ではなかった。


 メイドはしばらく口を開けかけて閉じ、また床の食器を見た。銀食器は高価だ。しかもこれは、来客用の、ちゃんとした家の品である。


「……あの」

「大丈夫。使いものにならなくなるほどは削ってないから」


 そう言いながら、シルヴィアは自分でも、あまり説得力がないと思った。少なくとも「使うたびに欠けたところが目に入る」のでは、もう駄目だろう。


 メイドはややあってから、恐る恐る床の小皿を拾い上げた。光にかざす。欠けた縁が、実にはっきり分かる。


「旦那様や奥様がご覧になったら、なんとおっしゃるか……」

「多分、一つや二つなら気づかないと思う」

「そういう問題でしょうか……」


 メイドの声は、半分本気で困っていて、半分はもう諦めていた。


 シルヴィアは紙の上の銀粉を小さな瓶へ移しながら、何でもないことのように言った。


「銀は、水に見えないくらいしか溶け出てこないみたいなの。だから表面積を増やしたくて」

「……はい」

「銀箔か、細かい粉か、そのあたりで反応が変わると思うの」

「はい……」

「だから、これが一番早かったの」


 メイドはもう一度だけ床の銀食器を見下ろし、それから小さく息を吐いた。


「……とりあえず、削りかすは絨毯に落とさないでくださいませ」

「うん」

「それから、欠けた食器は、せめて棚の奥に隠しておきましょう」

「うん」

「あとで私が見つけたことにして、処分の相談をします」

「助かります」


 礼の言葉だけは、妙に素直だった。


 メイドは返事をせず、欠けた銀皿を布で包んだ。布の中で、かすかに硬い音がした。


◇◇


 削った銀粉は、たしかに効いた。


 培地の中央に銀粉を少量置く。周囲へ菌を広げていくと、銀粉のすぐ近くだけ、菌が薄い。顕微鏡で覗けばなお分かりやすい。銀の粒の周囲にだけ、ぽつりと空いたような場所がある。


「……ここ、周りに菌がいませんね」


 シルヴィアが言うと、アデリーヌも顕微鏡を覗き込んだ。


「ええ。効いてはいます。ですが、かなり局所的です」


 銀箔でも同じだった。


 細かいぶん、塊の銀よりは反応が出やすい。だが、広い面に対して一様に効くほどではない。銀粉のすぐ近くは薄くなるが、離れればまた菌が出る。銀粉を増やせば輪は増える。だが、それだけだった。


 つまり、銀は効く。


 ただし、遅い。

 狭い。

 反応が鈍い。


「水にあまり溶け出さないからなんでしょうね」


 シルヴィアが銀粉を光にかざしながら言うと、アデリーヌは頷いた。


「たぶん。金属の表面から、ほんの少しだけ溶けるものが出ているのでしょう。でも、その“ほんの少し”では、広い傷を守るには足りません」


 それでもシルヴィアは諦めなかった。


 銀粉の粒を揃えてみる。

 もっと細かく削ってみる。

 銀箔を細く切って寒天に埋め込んでみる。

 水に長く浸してから使ってみる。


 やれることは一通りやった。


 その結果、分かったことは、むしろはっきりしていた。


 金属の銀は、効く。

 だが、あまりにゆっくりだ。


「これでは……傷の治癒より先に腐りますね」


 試験結果を並べていたシルヴィアが、疲れた声で言った。


 そのとき、ミレイユが静かに言った。


「殺菌ができるものは、ないわけではありません」


 机の上の試験皿を見ながら、彼女は続ける。


「塩もあります。酢もあります。乾燥もありますし、熱もあります。ですが、それらはたいてい、菌だけでなく細胞の側も傷めます。強く乾かせば菌は減りますが、傷も乾いて割れます。酢や熱はもっと分かりやすいでしょう」


 そこで彼女は、寒天片の上に指先を止めた。


「人の細胞を生かしながら、その横で菌だけを抑える。やりたいのはそれです。ですが、それができるものは、最初からかなり限られるのです」


 銀を選ばなければならない理由が、その短い言葉の中に全部入っていた。


◇◇


 そのとき、ミレイユは持ってきた小箱を机の上に置いた。中から、厚手の布に包まれた小瓶が出てくる。白い結晶が入っている。


「水に溶ける銀化合物はあります」


 シルヴィアは瓶を見た。見た目は、ただの塩と変わらない。


「これが?」

「ええ。ただし」


 ここでミレイユの声が、少しだけ硬くなった。


「これは金属の銀とは別物です。濃ければ、かなり危険です。菌に効く前に、人の細胞も傷めます。扱いを間違えると薬ではなく傷害になります」


 危ないものだというのは、その言い方だけで分かった。


「ですが、薄くすれば?」

「そこです」

 ミレイユは言った。

「薄くすれば、人の細胞への刺激を下げられる可能性があります。問題は、そのとき菌への効きがどこまで残るかです」


 アデリーヌも、その小瓶を覗き込んでいた。


「つまり、強すぎれば使えない。弱すぎれば意味がない」

「はい。ですから、適正濃度を探します。かなり細かく。最初から“一番よさそう”を狙うのではなく、危険な側と効かない側の両方を見て、間を探るべきです」


 シルヴィアの頭の中で、やることが一気に並んだ。


 濃度を変える。

 菌への効きを見る。

 傷への刺激を見る。

 寒天へ入れたときの挙動も見る。


「……試します」


 シルヴィアが言うと、ミレイユはすぐ頷いた。


「ええ。ですが、順番は守りましょう。まずは人ではなく、培地と動物です」


◇◇


 銀化合物の試験は、まず培地で行われた。菌に対してどの程度効くのか、どの濃度で寒天の中でも働きが残るのかを見るためである。そのあと、王立治療院の許可のもとで動物実験へ進んだ。


 結果だけ言えば、濃度の範囲は大体決まった。


 濃ければ菌にはよく効く。だが、その濃さでは傷そのものを傷めた。逆に薄すぎれば刺激は少ないが、今度は菌に負ける。動物実験では、このあたりの濃度が上限だろう、という線までは絞れたが、最後のぎりぎりはなお曖昧だった。


 どの程度の刺激なら治療として許容できるのか。どこから上が、菌を抑える薬ではなく、細胞を傷める薬になるのか。


 その境界だけは、どうしても記録の数字だけでは決めきれなかった。


 師匠のリザ様は、昔、自分に輸液を試した。危険だと分かっていながら、自分の体で確かめた人だった。そして同時に、その危うさをよく知っているからこそ、弟子には「自分を危険にさらす実験はするな」と何度も言っていた。


 シルヴィアも、その説教は嫌というほど聞いていた。


 それでも、最後の一線だけは、数字では決められないと分かってしまった。


◇◇


 夜の処置室で、彼女は左手の甲に浅い傷をいくつか作った。表皮を削り、わずかに血が滲む程度。


 深くしてはいけない。

 あくまで浅く、小さく。


 そこへ、濃さを変えた銀化合物の液を順に落とす。


 最初の一滴で、息を呑んだ。


「っ……!」


 激痛だった。


 濃い。

 これは駄目だと、すぐに分かる。


 薄める。

 また試す。

 まだ痛い。

 さらに薄める。


 ひりつきが強い条件。

 熱く刺す条件。

 少し遅れてじわじわ来る条件。


 記録を取り、また試す。


 何日もかけて、ようやく一つの線が見えた。


 刺激をほとんど感じない。

 それでも、まだ菌への効きは残っている。


 その境界を見つけたころには、シルヴィアの左手の甲には小さな試験痕が並び、薬液の触れた場所はうっすら黒ずんでいた。銀のせいだった。


 その黒さを、翌日、リザ様に見つかった。


「……手、出しなさい」


 隠した時点で、もう半分は白状していた。


 左手を前に出すと、リザ様は一拍だけ黙った。


「自分の体を実験台にするなと何回言った?」

「……何回も、です」

「誰が言った?」

「……先生です」


 リザ様は大きく息を吐いた。


「私がやらかしたからって、弟子まで真似しなくていいんだよ」


 シルヴィアは俯いた。


「でも、最後は人の刺激で見ないと、線が決められませんでした」

「分かる」

 リザ様はそこを否定しなかった。

「分かるから困るんだよ。次は最初から私に話しなさい。観察役もつける。中止線も決める。一人でやるな」


「はい……」


 そうして叱られながらも、リザ様は記録紙を見て、小さく頷いた。


「……線は悪くないね」


 その一言で、シルヴィアの胸は少しだけ軽くなった。


◇◇


 ごく薄い銀化合物は、確かに使えた。


 刺激は少ない。

 菌への効きも、弱いながら残る。


 だが、そのまま内層の寒天に混ぜると、今度は別の問題が出た。


 濁る。

 効きが落ちる。


「塩ですね」

 ミレイユがすぐに言った。

「食塩側と反応して、働きが鈍っています」


 細胞を守るためには、内層に塩分が要る。

 だが、銀化合物はその塩と一緒になると反応して別の物質になってしまう。


 両方とも必要なのに、同じ場所に入れると殺し合う。


 机の上の曇った寒天片を見て、シルヴィアはしばらく無言だった。


 ここまでやって、まだ駄目なのか。


 だが、そこで発想を変えたことで、ようやく先へ進めた。


 傷口には、血液に近い側へ寄せた塩分と微量成分を含む寒天保護材。

 その外側に、銀化合物を含む寒天シート。


 内側は細胞のための層。

 外側は菌を遅らせる層。


 混ざると駄目なら、混ざらないように重ねればいい。


 傷そのものは薄い銀化合物で殺菌した後で、生理食塩水でよく洗い流す。


 そこに寒天保護材を被せて、傷を保護する。そして更にその外側に、少し固めに作った銀化合物の寒天シートで覆うのだ。固めに作ることで、寒天保護材への銀化合物の浸透を抑える。保護材を交換する一日程度は殺菌作用を保たせることができる。


 その多層構造が、ようやく寒天と銀を同時に生かした。


◇◇


 最初の本格的な使用機会は、突然やってきた。


 熱湯の煮沸槽が倒れ、広範囲の熱傷患者が運び込まれたのだ。


 胸、腹、右腕、太腿の前面。広い。広すぎる。唇は乾き、脈は速く弱い。体液が皮膚から逃げ、すでに脱水が始まっていた。


 リザ様は即座に命じた。


「冷たい生理食塩水を。すぐに」


 やけどは、表面だけでは終わらない。皮膚の下に残った熱で、損傷が進み続ける。だから最初に熱を奪う。だが広すぎる熱傷では体ごと冷やしすぎるのも危ない。焼けた場所を狙って手早く冷やし、露出していない部分は布で保温する。


 冷たい塩水が流れるたび、患者の体が跳ねた。


「っ、あ……!」

「うん、痛いよね。でも、ここで熱損傷を止めないと」


 冷やし、洗い、汚れと剥がれた皮膚を落とす。

 その間に、輸液の準備も進む。


 広い熱傷では、外から守るだけでは足りない。体液が刻一刻と流れ出ている。内側にも水を足さなければならない。


 リザ様が針を入れ、輸液が落ち始める。

 シルヴィアは、洗浄の終わった場所から順に、多層保護材を置いていく。


 内層の寒天。

 その外の銀層。

 乾いた保護布と包帯。


 全部を覆い終えたとき、リザ様が患者全体を見て言った。


「……これほど重いやけどは、ほとんどが治療が成功しない。今夜が正念場だよ」


 その夜、二人は保護材の上から治癒魔法を流した。


 ただし、張りつきっぱなしではない。


「長丁場になるよ。私たちの体力の温存も考えよう。朝まで持たせるのが仕事だ」

 リザ様は言った。

「いまのうちに、水分とカロリーを補給してきなさい」


 しばらく治癒魔法を流す。

 脈と呼吸を監視する。


 水を飲む。

 ビスケットやパンをかじる。

 また戻る。


 長い夜の仕事だった。


 患者が時折、乾いた喉で「みず……」と漏らすたび、リザ様はすぐ答えた。


「入ってるよ。ちゃんと入ってる。だから、いまは寝てていい」


 やがて夜半を過ぎ、心拍は落ち着いてきた。

 保護材の外層に湿りはあるが、匂いの立ち上がりは強くない。

 内側の寒天は、少なくとも今夜のあいだ、傷面を守っている。


 そして、空が白み始めたころ。


 患者の呼吸が、ほんの少しだけ深くなった。


「……朝まで来たね」


 リザ様が小さく息を吐く。


 まだ助かったわけではない。

 だが、今夜は越えた。


 寒天保護材は広い火傷でも乾燥を遅らせた。

 銀の外層は、その外で菌を遅らせた。

 輸液は、逃げる水を内側から補った。

 そして治癒魔法が、その全部の上で細胞を起こし続けた。


 どれか一つでは足りなかった。

 全部があって、ようやく朝に届いたのだ。


◇◇


 翌朝の最初の交換は、夜より静かだった。


 広範囲の熱傷は、一晩持ったから助かるというものではない。だからこそ、最初の交換は、よく観察しながら慎重に行われた。


 患者の呼吸は昨夜より深い。

 輸液はまだ落ちている。

 脈も速いが、昨夜のような不整脈は少ない。


 包帯を解く。


 外まで湿りは回っている。だが、滴るほどではない。


「外まで抜けきっていません」

 補助が小さく言う。

「中で受けてるね」

 リザ様が短く返す。


 次に外側の銀層を外す。

 形を保っている。崩れていない。境目がまだある。


 そして、内層。


 ここが一番大事だった。


 もしここで傷面に噛んでいたら、交換そのものが新しい損傷になる。


 シルヴィアは呼吸を整え、端に指をかけた。


「……いきます」


 持ち上げる。


 ――するり、と離れた。


「……固着していません」


 傷面はまだ赤く、湿り、脆い。完治には遠い。だが、乾ききってもいない。濁りも強くない。滲出液はある。だが、それが傷面の上で悪い膠のように固まっていない。


 そして、匂いが抑えられている。


 リザ様が傷の縁をじっと見て、言った。


「いいね。熱傷面が荒れてない。交換で皮膚が剥がれていない。滲出も、出る量のわりに外まで漏れ出てない」


 さらに、外した内層の寒天片を見る。


「内側で受けてる。だから傷の表面が乾いて崩れない」


 昨夜は、ただ朝まで持たせることだけで精一杯だった。

 だが、いまこうして見ると、多層構造の意味がはっきり分かる。


 外側の銀層は、菌を遮断する。

 内側の寒天は、血液に近い側へ寄せた水分環境を保ちながら、滲出液を受ける。

 そして、交換のときに傷面を荒らさない。


 つまり、ただ覆っているのではない。


 壊れた皮膚の代わりを、少しだけしている。

 そして、壊れた皮膚が再生するのを守っている。


「これなら次がある」

 リザ様が言った。


 助かった、と言うにはまだ早い。

 それでも、次の一日を考えていい状態にはなった。


「昨夜の被覆で、ここまで違うんですね」

 補助の治癒師が小さく息を吐く。


「被覆だけじゃないよ」

 リザ様がすぐ返す。

「冷やした。洗った。輸液を入れた。夜のあいだ治癒魔法も切らさなかった。そのうえで、この保護材が“仕事をした”んだ」


 そしてシルヴィアを見る。


「でも、その仕事の中身は大きい」


 シルヴィアは、外した寒天片を見下ろした。透明だったはずの内層は、いまは滲出液を受けて少し曇っている。けれど、その曇りは傷面に溜まるものだった。傷の上で悪さをせず、寒天が吸い取ってきたものだ。


 それを見た瞬間、初めて、昨夜の緊張とは別の実感が湧いた。


 これは、使える。


 火傷の広い面でも、ただの思いつきでは終わらない。


「交換材、次を」

 リザ様が言う。

「同じ手順で、もう一回。今日は今日でまた守るよ」


「はい」


 シルヴィアは新しい保護材を取り上げた。


 透明な寒天が、朝の光を受けて静かに揺れる。

 その薄い一枚が、昨夜より少しだけ違って見えた。


 もう試作品ではなくなったから。


 少なくとも、昨夜を越えた患者の皮膚として、一度は役に立った。


 それは、王立治療院の中では十分すぎる前進であろう。

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