第35話 伐採_二次戦役1/6
最初に異変を見たのは、緩衝地帯の監視台だった。
国境と国境のあいだ、およそ一キロほどの幅で残された森は、長いあいだ、睨み合いのための場所であり続けてきた。細い街道が一本だけ通り、両国はその奥に石造りの砦を持つ。兵が覗き合い、斥候が消え、時に小競り合いはあっても、本格的な大軍同士の戦場になることは前提とされていない。森そのものが、互いにとって障害であり、同時に緩衝でもあった。
だから、その朝に森の奥から聞こえてきた音は、それだけで十分に異様だった。
斧が食い込む音。
枝が裂ける音。
幹が軋み、やがて地面を揺らして倒れる音。
それが一度きりではない。
間を置かず、二本、三本、さらにその向こうでも。
監視台の上で耳を澄ませていた監視兵は、すぐに望遠鏡を上げた。薄い朝靄の向こう、緑の塊が不自然に切れている。人がいる。斧を振るう者、枝を払う者、幹を曳く者。後ろにはさらに兵が控えていて、伐採そのものを護衛していた。
「伝令! 司令部へ! ノルディカ軍、緩衝地帯の伐採を開始!」
叫びは一つで済まなかった。
「街道沿いだけではありません!」
「敵側の監視台前面も開いています!」
「空地を広げています、人を並べるつもりかと!」
まだ試作の通信器が打たれる。同時に伝令馬が土を蹴る。朝露を散らしながら、報告は砦へ、砦からさらに後方へと送られた。
ノルディカ王国が緩衝地帯をこれほど広く切り開くということは、切り開かなければ収まりきらないほどの大軍を投入するつもりだ、ということでもあった。
◇◇
国境に設置された第二軍司令部の天幕には、広げた地図の四隅へ重しが置かれていた。春の山風はまだ冷たく、紙の端をさらっていこうとする。地図には砦、街道、緩衝地帯、左右の山、村道、細い水筋まで書き込まれており、そこへ青と赤の駒が並んでいた。赤がノルディカ、青がアヴァロンである。
第二軍大将バークレイ・ヴァレル卿は、報告を受けてしばらく黙っていた。年齢に見合った落ち着いた顔つきだが、黙って地図を見ていると、むしろ重さが増す。横に控える副官が、先に口を開いた。
「明らかに大軍をよこす気ですな」
バークレイ卿は短く頷いた。
「そうだろう。森が残ったままでは、大軍は並べにくい。砦の襲撃がやりにくい。向こうはそれを嫌っている」
「基本は密集隊形でしょう」
その言葉を継いだのは、天幕の端にいたエステルだった。
「魔砲については、向こうはどう判断しているのでしょうか」
バークレイ卿は、その名を避けなかった。
「意識はしているだろう。魔砲を意識していないはずがない。だが、それだけでもない。結局は砦を破るなら、大軍で一気に破壊するのが最適解だ。また、素早く激突して乱戦状態に持ち込めば、味方を巻き込む恐れのある魔砲は撃てなくなる。素早く攻撃するためにも、森が邪魔だ」
副官が地図の緩衝地帯を指でなぞる。
「街道の拡幅だけでなく、局地的な空地も作る。部隊の動きを速くする、と」
「そういうことだ。集中戦術の準備でもあり、高速戦術のための準備でもある。我々はその打撃に耐える重厚な陣形で受け止めなくてはならんだろう」
敵は学んでいる。
その認識が、天幕の中に黙って広がった。敗北から学ぶ軍は厄介だ。魔砲の大損害を受けて、何も変えずに来ると考えるほど、バークレイ卿も甘くはなかった。
そこへ、外から足音が近づいた。乱暴ではない。幕が開き、軽く片手を上げながら男が入ってくる。
「邪魔かな」
第一軍少将、アドリアン・アヴァロン。王の末弟であり、今回三千の応援部隊を率いてきた張本人だった。王族らしい上等な外套を羽織っているのに、歩き方と眼つきは野営に慣れた将そのもので、奇妙に馴染んでいる。
バークレイ卿が礼をとる。
「ちょうど配置を詰めていたところです、殿下」
「なら手間が省ける。私の三千をどこへ置いたら良いか聞こう」
アドリアン少将は地図の前へ来ると、青い駒の位置をひと目見て、鼻で小さく笑った。
「正面を厚くしたね。そうするか。蜂の群れが飛んでくるなら、熊はまず鼻面を守るべきだ」
副官が一瞬だけ顔をしかめたが、バークレイ卿は流した。
「第二軍本軍一万のうち、四千を砦前に布陣させます。敵が押してくるなら、まずそこで受ける。三千は砦の内側。万一突破された場合は、砦のこちら側で個々に止める。右の山に千、左の山に千。大きく抜けるのは難しい地形ですが、敵が一人ずつ登ることはできますから。残る千は司令部直轄予備。伝令、工兵、負傷兵後送、穴埋め、必要なところへ回します」
「で、私の三千は」
「正面の右です」
アドリアン少将は、置かれた青い駒を指でつついた。
「右か。いいね。街道とのつながりがいいなら、押し引きしやすい」
そして、自分の駒を正面右へ並べ、その列を少しだけ横へ広げた。
「私はここで受けながら、少し横へ伸ばせる形にしておく。厚みを増やすだけじゃない。使い勝手のいい置き方にしておきたい」
エステルが地図を見つめる。
「横へ、ですか」
「ただ並べるだけじゃもったいないからね」
バークレイ卿は短く頷いた。
「その形で頼みます」
「任された」
話はそれで終わったはずだったが、アドリアン少将は地図から目を上げ、天幕の奥をちらと見た。
「クラリス嬢は正面かい」
「騎馬魔法士隊には遊撃を担ってもらいます。重要な役目ですので、外せません」
「だろうね」
その言葉に、バークレイ卿の顔色は少しも変わらなかった。変わらないこと自体が、軍人らしかった。
◇◇
砦の外れでは、別の準備が進んでいた。
土嚢のあいだに太い筒が据えられ、架台が組まれ、固定の縄が張られている。砲身は冷たい。朝の冷気を吸った金属は、手袋越しでも硬く静かだった。隣では四列の技師たちが手順を再確認している。三名の魔砲技師に一名の列指揮官。それが四列。合計十六名が一門を支える。
エミリアは砲座の脇に立ち、砦の向こうを見ていた。
森が切られていく。
緑の塊が少しずつ削られ、その向こうに、動く点が増えていく。
前回、密集して押し出してきたところへ魔砲を撃ち込まれた。だから今回は、なにか対策をしてくる可能性がある。けれど、森を切って見通しが良くなること自体は、砲を撃つ側からすれば悪いことではなかった。隠れられる場所が減る。動きも見やすくなる。もし以前みたいに大きく固まって出てくるなら、そのときは――今度こそ、もっときれいに入るかもしれない。
エミリアは砲身に手袋越しの手を置いた。
胸の奥で、少しだけ熱いものが跳ねた。
魔砲が効いたから、敵が動いた。
効いたから、わざわざ戦い方を考え直している。
それはつまり、魔砲がそれだけ嫌な兵器だということだ。
だったら、今度も撃てばいい。
ちゃんと見えるところへ出てきたら、また撃てばいい。
前より広く、前よりよく見えるなら、むしろこっちには都合がいい。
こんども、すごい戦果を出してやる。
そんな少し無邪気な考えが胸をよぎって、エミリアは少しだけ口元を緩めた。
「エミリアさん」
後ろから声がして、振り向くとエステルがいた。第一軍の軍服は第二軍のそれと少し仕立てが違うが、野営に合わせて外套は簡素だ。
「司令部は?」
「いまは少将殿下とバークレイ卿が詰めています。私は砲の様子も見てこいと」
「なるほど。ついでに来たんだ」
「ついでとは言いませんけど、そういう役回りです」
その答え方に、エミリアは少しだけ笑った。
エステルは砲の脇まで来ると、緩衝地帯の向こうを見た。
「だいぶ切っていますね」
「うん。街道沿いだけじゃない。兵が走れる場所を作ってる」
エステルは一瞬だけ黙ってから、素直に頷いた。
「そうですね」
遠くでまた木が倒れた。重い音が山へ反響し、春の冷たい空気の中へ消えていく。
エミリアはその音を聞きながら、ぽつりと言った。
「なんで攻めてくるんだろうね」
エステルは答えを急がなかった。しばらく置いてから、静かに言う。
「理由は向こうにあるのでしょうけれど、われわれには止められません」
「うん」
「だから、われわれは準備して待ち構えることしかできません」
◇◇
出撃前の馬場は、いつもより静かだった。
騎馬魔法士隊の馬は、すでに鞍と軽装の防具を付けられ、鼻を鳴らしながら待っている。クラリスは自分の杖の革留めを確認し、馬具の締まりを指でなぞり、最後に馬の首筋を軽く叩いた。周囲の部下たちも準備は終えているが、口数は少ない。戦いの前はいつもこうだ。無駄な会話を減らす静けさであって、恐怖に呑まれた静けさではない。
そこへ、バークレイ卿が来た。
父であり、第二軍大将であり、いまはただ重い外套を着た一人の軍人に見える。家族と上官の顔が重なるのではなく、むしろ重ならないようにしているような顔だ。
「配置は聞いたな」
「聞きました」
「今回は正面が大きい。敵も相当粘るだろう。無理はするな」
「はい」
返事はきれいだった。だからこそ、バークレイ卿には届いていないことが分かる。
「死ぬなよ」
クラリスは手綱を持ったまま、ほんの一拍だけ父を見た。
「はい、お父様」
「……軽いな」
バークレイ卿が言うと、クラリスは少しだけ笑った。
「重く言えば、変わるものでもありませんよ」
言い方は穏やかでも、中身は硬かった。バークレイ卿は何も返せない。彼女は自分の戦い方を知っていて、その戦い方がどこまで危ういかも知っている。それでも変えにくいところまで来ている。父として止めたい気持ちは本物だが、第二軍大将としてその才能を前線から外せない現実もまた、本物だった。
だから結局、彼が言えたのは一つだけだった。
「戻ってこい」
クラリスは今度は笑わなかった。
「……はい」
短い返事だった。けれど、さっきよりは少しだけ深かった。
その時、砦前の方角から角笛が短く鳴った。
監視線からの合図だった。
準備が、終わる。
馬たちが耳を立てる。兵たちの背筋がわずかに伸びる。空気が変わるのが分かった。
クラリスは馬上へ上がった。部下たちも続く。杖が鞍脇で小さく鳴り、鐙が土を擦る。
砦の上では、きっとエミリアが見ている。
そして森の向こうでは、敵がもう動き出している。
クラリスは前を向いたまま、馬の首筋を叩いた。
「行くわよ」
返事は揃っていた。
春の冷たい空の下、切り開かれた緩衝地帯の向こうで、戦いの形が変わろうとしていた。




