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第34話 予兆

 グレンウッド邸の通信机は、一見すると普通の書斎の机に似ていた。


 左に置かれているのは受信機である。小さな筐体の正面に、細い針が一本だけついている。届いた信号に応じて、その針が右へ触れる。短い信号なら、ぴくりと触れてすぐ戻る。長い信号になると、針は右へ押さえられるように触れ、それから少しずつ戻り、最後にわずかに逆方向へ返る。その返りもまた、読み手にとっては手がかりになる。


 右にあるのが送信機だ。こちらには二つの操作部がある。ひとつは左手を置く黒いパッドで、もうひとつは右手で押す打鍵器である。


 送信機の魔石は、いわば魔素を溜める高圧タンクだ。左手を黒いパッドに置いて魔力を与えると、魔石は周囲と地面から魔素を引き寄せる。送信機からは灰色の布や紙を巻いた炭素繊維線が伸び、一本は遠く相手先へ、もう一本は部屋の隅を這って外へ出て、地面へ落ちている。土そのものの魔素は薄いが、広く接していれば魔素を十分に吸い上げられる。


 魔石に魔力をかけて魔素を集め、高圧になったところで、圧が抜けないように魔素が入ってくる外のラインを外す。そうしておいてから、右手の打鍵器を操作すると、溜めていた魔素が通信線へ短く、あるいは少し長く流れる。皆はそれをトン、ツーと呼んでいた。受け手はその流れを、遠く離れた針の触れで読む。


 もっとも、放っておけば魔素圧は半日もすれば少しずつ抜けていくのは否めない。だから送信前には軽く充填し直す必要があった。魔法が使える者なら、それほど難しい操作ではない。


 その机の前に、若いメイドが座っていた。横には王国で使っている旗信号票が開かれている。まだ全部は覚えていない。覚えていないからこそ、票を見ながらでも正確に打つよう、何度も練習してきた。


 その横で、セバスチャンは砦から回ってきた通信文を読み終えたところだった。


「……侵攻の予兆、ですか」


 低い声だった。だが迷いはなかった。


 敵国ノルディカが兵を動かし、食料を買い集めていることは、王都でもすでにある程度知られている。だが、それは大きな流れの話だ。国境に近い監視台や砦から、いま何かが起きつつあると来る報せは、重さが違う。


「王立大学校へ打ちます」


 若いメイドが顔を上げた。


「届きますでしょうか」


「分かりません」


 セバスチャンは即答した。


「ですから、今回は馬も出します。通信は通信、早馬は早馬です。届けばそれだけ早い」


 別の使用人へ向き直る。


「王宮か軍司令部へ急報。直ちに早馬を出してください。」


 使用人が駆けていく。セバスチャンはそれを見送ってから、通信机へ戻った。


「では、まず軽く充填を」


 若いメイドは左手をパッドに置いた。送信機の魔石が、淡く鈍い光を帯びる。十分だと見て、セバスチャンが頷く。


「呼出からです。発信したいが、そちらに受けられる者はいるか。という意味の信号を打ちます、返信に気をつけてください」


 メイドは息を整え、右手を打鍵器へ置いた。


 トン、トン、トン。


 少し間を置いて、もう一度。


 トン、トン、トン。


 それが灰色の布巻きの線の中へ吸い込まれていく。


◇◇


 王立大学校の一室では、エディが通信士見習いたちに受信の読み方を教えていた。


「トンは短い右触れです。ツーは右へ長く触れて、戻り際に少し逆へ返ることがある。その返りまで含めて見てください。長い信号がちゃんと届いた印です」


 練習生の一人が頷いた、そのときだった。


 受信機の針が、ごくかすかに動いた。


「……いま、動きましたか?」


「静かに」


 エディの声が低くなる。


 針はすぐ戻った。窓枠の振動か、線の擦れかと思えるほど弱い。だが、少し間を置いて、また来る。


 一回。二回。三回。


 間。


 もう一度、一回。二回。三回。


 エディは椅子を引いた。


「呼出です」


「でも、中継所は――」


「まだ常駐する人はいないはず。だから直接、弱く届いてるんです」


 練習生たちの顔色が変わる。本来なら途中の中継所で拾って打ち直されるはずの信号が、そのまま大学校まで抜けてきている。


 エディは急いで左手で送信機を軽く充填し、打鍵器へ指を置いた。


 トン、トン、トン。


「これは、受けられます、の返事だ」


 全員が針を見つめる。これで向こうは、こちらに受け手がいると分かる。


 しばらくして、今度はさっきより長く、続けて信号が入ってきた。


 エディは机の端から旗信号票を引き寄せる。まだ全部を暗記しているわけではない。むしろ、こういうときほど票を見る。


 右触れを数え、長い触れと返りを見て、符号を拾っていく。


「……侵攻の予兆」


 部屋の空気が変わった。


「本物ですか」


「確認する」


 エディは四打の運用符号欄を指で追った。問合せの位置を確かめる。


 トン、ツー、ツー、ツー。


 ――本信号か。訓練または試験か。


 返答は少し遅れて返ってきた。ツーのところで針が右へ長く触れ、戻りかけて、かすかに逆へ返る。


 トン、ツー、ツー、トン。


 エディは票を見て、はっきりと言った。


「本信号です」


 見習いの一人が青ざめる。


「ど、どうします」


 その問いに、エディは一瞬だけ言葉を失った。受けることはできる。読むこともできる。だが大学校で受けた急報を、その先どう王宮と軍へ流すかは、まだ制度としては固まっていない。


 しかし、立ち止まっている暇はなかった。


「事務局へ走ってください」


 エディは顔を上げた。


「大学校から王宮と軍司令部へ、どう急報を回せるか聞いてきてください。定期便ではなく、臨時の急報です。急いで」


 学生の一人が飛び出していく。


 残った者たちはもう、練習中の顔ではなかった。針のかすかな触れの向こうで、グレンウッド領が本当に何かを送っている。その事実だけで十分だった。


◇◇


 軍司令部へ届けられた紙片は、報告書にしては短すぎた。


 侵攻の予兆

 一四〇〇


 第一軍第一旅団のアドリアン少将は、その末尾で指を止めた。


「一四〇〇……十五分前か?」


 副官が口を開きかける前に、少将は自分で首を振る。


「いや、違うか。昨日の一四〇〇ではないのか」


 その場の誰も、すぐには返せなかった。国境の報せが当日の一四〇〇時、そして今は一四一五だ。そんな短い時間で王都へ届くはずがない。常識で考えれば、そう読むしかない。


「いいえ」


 静かな声がして、部屋の視線がそちらへ向いた。


 セリーヌ王女だった。


「今日の一四〇〇ですわ」


 少将はゆっくり顔を上げた。


「……当日?」


「ええ。グレンウッド領から、王立大学校まで届いた通信です」


 少将は紙片を見下ろしたまま、低く言う。


「これは、グレンウッド領から、「ノルディカ王国の侵攻の予兆が有る」という連絡だと判断していいのだな」


 セリーヌは頷いた。


「かなり確率が高まったということを、グレンウッド領が伝えてきた通信だと信じております」


 少将は短く息を吐いた。ここに来るまで、敵が本当に侵攻に踏み切るかは、まだ読みの範囲だった。だが、グレンウッド領がわざわざこの線を使って急報を上げてきた。それ自体が重いことだ。


「了解した」


 少将は顔を上げ、副官たちを見回す。


「副官諸君、旅団の出陣準備を早める指示を出せ」


 室内の空気が変わる。机上の紙切れ一枚が、作戦準備の時間を前へ押し出したのである。


 副官たちが一斉に動き始めるのを見てから、少将は改めてセリーヌへ向き直った。


「セリーヌ、この通信とは、つまりどういう仕組みなんだ」


 セリーヌは紙片の上に指を置いた。


「言葉そのものが飛ぶのではありません。見た者が定めた符号を打ち、それを受けた者が同じ符号を次へ打つ。短い意味札だけを次々と渡していく仕組みです」


「……王宮直通ではない?」


「ええ。ですから、わたくしは大学校までしか許しませんでした」


 その言い方に、少将はわずかに眉を上げる。


「セリーヌの許可で」


「そうです。王都の中へ私設の線を勝手に張らせるわけにはまいりませんもの。ですが大学校までなら、一つの研究の王家預かりとして監督も記録もできます」


 少将はゆっくり頷いた。


「ようやく分かってきた。これは魔法の奇跡ではない。人と記録で成り立つ、新しい伝令線なんだな」


「その通りですわ」


 セリーヌの声は静かだった。


「あの線を大学校まで許さなければ、この報せはまだ街道の上にあったでしょう」


 少将は再び紙片を見た。


「これは変わるな。王立大学校と司令部の間の連絡法も考えねばならん」


 セリーヌは小さく頷いた。


「ええ。ここから先は、本当に運用の話になります」


◇◇


 その日の急報は、それだけだった。


 しかし王立大学校では、エディはそのまま見習いたちの訓練を続けた。受けられる者を増やさなければ、話にならないと、誰の目にも明らかになったからである。


「呼出が来たら、まず受信可能の返答です」

「はい」

「ツーは右に長く触れて、最後に少し返る。その返りも見落とさないこと」

「はい」

「票を見ても構いません。慌てず、同じ形を返してください」


 エディ自身、まだ票を手放してはいなかった。だが、現時点で最も安定して針を読み、問い返しを打ち、他人に教えられるのは彼だった。通信士という名はまだ正式には無い。それでも大学校では、もう事実上、そういう役目の者として扱われ始めていた。


 グレンウッド邸でも同じだった。セバスチャンは通信机と早馬を並べて動かすやり方を、その日のうちに手順の一つとして整え始めた。まだ、今の段階では信頼性がない。重要な通信の場合は馬も出すことも考える。それが一組の動作になっていく。


 まだ線は細い。まだ通らない場合もある。だが、もう遊びではなかった。


 前線で何かが動けば、グレンウッド領を通って、王立大学校へ来る。大学校から先は、馬が走って上へ通す。そこまでの流れが、ようやく人の配置と紙の記録に落ちてきた。


 その一本を、本気で使う者たちが、もう生まれていた。

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