第73話 〜深雪side〜 ふたりだけの名前
クリスマス・イブの夜でした。
街はきっと、どこも光であふれている。
恋人たちはイルミネーションの下で笑い合って、白い息を重ねて、ありふれた幸福を抱きしめているのでしょう。
でも私は、いつもの公園を選びました。
相澤くんが、勇気を出して誘ってくれたことはわかっていました。
たぶん、すごく考えてくれたんだと思う。
だから少し申し訳なかったけれど、それでも私は首を横に振りました。
「ううん、あの公園がいいんです」
あそこじゃないと、だめでした。
冬の夜気は冷たく、吐く息は白かった。
白いダッフルコートに身を包み、赤いマフラーを巻いていても寒さは容赦なく入り込んでくる。
でも、その寒さは嫌いじゃありませんでした。
相澤くんに「雪だるまみたい」と言われて、私は少しだけ頬を膨らませました。
「アルビノジョークがいえるようになりましたね」
そう返しながら、ほんの少し嬉しかった。
最初の頃の彼なら、きっとそんな冗談は言えなかったから。
自販機の灯りだけが妙に明るくて、缶の温かさが掌にじんわり広がる。
私はミルクティーを、相澤くんはブラックコーヒーを買いました。
きっと苦いのは苦手なのに、彼はいつもブラックを飲みます。
どうしてそんな小さな意地を張るのだろうと思いながら、私は何も言いませんでした。
そういう不器用なところを、少しだけ愛おしいと思っていたから。
私はふと、悪戯心で尋ねました。
「今日は何の日でしょう」
困った顔をする相澤くんが見たかった。
きっと「クリスマス・イブ」とか、「サンタの日」とか、つまらない答えを返すと思っていました。
なのに。
「誕生日……、誕生日でしょ!」
当ててしまった。
私は思わず大袈裟にため息をつく。
「普通、こういうの当てちゃダメなんですよ」
本当に、そういうところがある。
偶然みたいな顔をして、彼は時々、まっすぐ核心を掴んでしまう。
私は少しだけ拗ねながら、自分の生まれた日の話をしました。
深夜まで続いた難産のこと。
母が苦しみの中で窓の外を見た瞬間、ひとひらの雪が落ちてきたこと。
そしてそのあと、まるで雪に導かれるみたいに、私は生まれたこと。
「深々と降る雪の日に生まれたから、深雪」
その名前が、私は昔から嫌いでした。
白すぎる髪も。
白すぎる肌も。
雪みたいだと言われるたび、世界から切り離されていく気がしたから。
しかもその名前をつけた父は、もういない。
夜空を見上げるふりをしながら、私は小さく息を飲み込みました。
相澤くんは、何も聞かなかった。
優しいのか、臆病なのか、たぶんその両方なのだろう。
だから私は、その沈黙に救われた。
代わりに私は尋ねました。
「相澤くんは、なんでテツヒトなんですか?」
哲学者みたいな名前。
硬くて、不器用で、真面目そうな名前。
彼は少し照れながら由来を話しました。
そして最後に、小さく言う。
「僕も好きじゃない」
その瞬間、私は思いつきました。
「じゃあ、名前を変えましょう!」
本当の名前じゃなくていい。
裁判所も戸籍もいらない。
ふたりだけが呼ぶ、秘密の名前。
それならきっと、今までの自分から少しだけ自由になれる気がしました。
相澤くんは「何でもいいよ」と言いました。
本当に、彼は不器用だと思いました。
でも、そのあと続いた言葉に、私は少しだけ胸が熱くなりました。
「逢川さんがつけてくれるなら、何でもいい」
そんなことを真顔で言う。
ずるい。
私は考えた末に、「てつと」という名前を選びました。
テディベアの映画の名前から取っただけ。
でも彼は時々、本当にぬいぐるみみたいな顔をするのだ。
少し困っていて。
少し寂しそうで。
抱きしめたら、そのまま黙ってしまいそうな顔。
だから「てつと」。
そして今度は、彼が私の名前を考える番でした。
冬の風が、私たちの間を通り抜けました。
静かな時間。
その沈黙が嫌じゃありませんでした。
やがて彼は、おそるおそる言いました。
「『みゆ』は?」
私はその響きを心の中で転がしました。
みゆ。
深雪じゃない。
雪を背負わない名前。
白さも、運命も、孤独も含まれていない。
ただ柔らかくて、あたたかい音。
私は笑いました。
「気に入りました!」
本当に、嬉しかった。
彼がくれたその名前は、今まで嫌いだった自分を、少しだけ好きにさせてくれる気がしたから。
「これからは、『てつと』と『みゆ』」
呼び捨てにすることも。
敬語をやめることも。
全部がくすぐったくて、でも嬉しくて、胸の奥がじんわり熱くなった。
だから私は、赤い手袋のまま拍手をしました。
子どもみたいに。
それが恥ずかしくなくなるくらい、その夜は特別でした。
私は鞄から白いマフラーを取り出す。
それは、自分と同じもの。
「これと、新しい名前の『てつと』が、私からのクリスマスプレゼント」
少し背伸びをして、彼の首に巻く。
近づいた瞬間、彼が息を止めたのがわかった。
可愛いな、と思った。
「私の白い髪の毛が編み込んであるから、悪いことしたら呪われますからね」
そう冗談を言うと、彼は困ったように笑った。
その顔を見ていると、呪いなんかじゃなくて、むしろ願いに近いのかもしれないと思った。
どうかこの時間が終わりませんように、と。
そして私は両手を差し出す。
「てつとから、みゆへの、クリスマスプレゼント。
くださいな」
彼が差し出したのは、小さなスノードームでした。
中には、二体の雪だるま。
白いマフラーの雪だるまと、赤いマフラーの雪だるま。
まるで、今夜の私たちみたいでした。
私はドームをそっと揺らす。
きらきらと雪が舞う。
硝子の中だけの、小さな雪景色。
けれどその光景は、この世界のどんなイルミネーションよりも綺麗だと、私は思いました。




