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第72話 〜深雪side〜  陽だまりより熱く静かな思い

 その夏は、世界そのものが熱を持っているみたいでした。


 ニュースアプリを開けば、毎日のように「災害級」という赤い文字が踊っています。

 誰かにとってはただの猛暑でも、私にとって夏は、肌を刺し、視界を焼き、存在を脅かしてくる季節でした。


 けれど、その夏を私は少しだけ好きになりたかった。


 夏休みに入り、雑居ビル(私たちがそう呼ぶ学校)へ行く日がなくなりました。

 以前の相澤くんなら、それを喜んでいたのかもしれない。

 でも今の彼は、登校日が消えてしまったことを、どこか寂しそうにしていました。


 私も同じでした。


 だから最近は、公園ではなく「ル・カフェ・ド・エリソン」で会っていました。

 店の隅々に潜んでいるハリネズミたちを眺めながら、私たちは時間を過ごす。


 静かな店内。

 氷の溶ける音。

 相澤くんがときどき見せる、不器用な笑い方。


 その全部が、いつの間にか私の一週間の中心になっていました。


 だから私は、思い切って言いました。


 「海に行きませんか」


 口にした瞬間、自分でも驚きました。

 海なんて、私にはもっとも縁遠い場所だったから。


 強い日差し。

 照り返す砂浜。

 焼けつく紫外線。

 私の身体は、それらに耐えられない。


 それでも、一度くらい、『普通の夏』というものに触れてみたかった。


 相澤くんは少しも迷わず、「うん、もちろん」と答えてくれました。


 その返事が、うれしかった。


 当日の空は、容赦がありませんでした。

 雲ひとつない青。

 逃げ場のない光。


 私は鏡の前で、黒いロリータ服のリボンを整えていました。

 フリルを直し、袖を引き、日傘を確認する。


 可愛いからだけのために着たわけじゃない。

 紫外線を防ぐため。

 長袖、黒い布、大きなスカート。

 全部、生き延びるための格好でした。


 でも、相澤くんが驚いた顔をしたから、少しだけ楽しくなってしまった。


 私はポーズを取る。

 雑誌で見たような仕草を真似してみる。

 慣れなくて、なんだか滑稽だったけれど、相澤くんは真面目に聞いてくれる。


 「これはゴスロリじゃなくて黒ロリなんです」


 そう説明しながら、私は彼の顔を見ていました。


 相澤くんは、ちゃんと聞いてくれる。

 わからないものを、笑わない。

 知らない世界を、否定しない。


 それが私は好きでした。


 電車の中は暑く、視線も痛かった。

 汗が肌を伝う。

 周囲の人は私を見て、相澤くんを見て、また視線を逸らす。


 けれど相澤くんは、いつも通り隣にいてくれました。


 それだけで、十分でした。


 海は、まぶしかった。


 白い波。

 光る水面。

 熱を持った砂浜。


 世界はこんなにも明るいのだと、私は少しだけ途方に暮れました。


 本当は怖かった。

 肌が焼けることも、周囲の目も、自分だけがうまく夏になじめないことも。


 でも、その全部を隠すみたいに、私は笑った。


「これこそ、私の求めていたものです!」


 冗談めかして言うと、相澤くんは笑ってくれた。


 その笑顔を見ると、安心しました。


 私たちは結局、一度も海に入りませんでした。

 ビーチマットの上で音楽を流し、ただ話をしていた。


 公園でも、ハリネズミでも、海辺でも。

 やることは変わらない。


 でも、相澤くんといる時間は、不思議なくらい退屈しませんでした。


 言葉が途切れても苦しくない。

 沈黙が沈黙にならない。


 そんな相手を、私は初めて知りました。


 波の音を聞いているうちに、私は眠ってしまったらしい。


 目を閉じた世界は静かで、やわらかかった。

 夢と現実のあわいで、私は何かに守られている気がしていた。


 安心していた。


 たぶん、相澤くんが隣にいたから。


 どれくらい眠っていたのだろう。

 ふと身体が揺れて、私は目を覚ましました。


 最初に見えたのは、相澤くんの顔でした。


 真っ赤に焼けた顔。


 苦しそうなのに、無理やり笑おうとしている表情。


 胸が冷たくなる。


 「顔、真っ赤ですよ!」


 私が言うと、彼は困ったように笑った。


 「パラソルが飛んじゃって。でも、起こしたくなくて」


 その瞬間、私は息を呑みました。


 彼の背中は、ひどく焼けていました。


 赤く腫れ、水膨れになって、見るだけで痛みが伝わってきます。


 どうして。

 どうして、こんなになるまで。


 言葉にならなかった。


 あの日の夕暮れを、私はたぶん一生忘れない。


 団地へ帰る道。

 西日に染まるアスファルト。

 背中をかばうように歩く相澤くん。


 彼は最後まで、「大丈夫」と言っていた。


 でも、大丈夫なわけがない。


 私のために。

 私を守るために。

 あの人は、自分の身体を焼いたのだ。


 私はずっと、太陽を恐れて生きてきた。

 紫外線は、私にとって痛みそのものだった。


 けれど相澤くんは、その痛みを、自分の身体で知ろうとしてしまった。


 優しい人だと思った。


 そして、ずるい人だとも思った。


 そんなふうに守られたら、私はもう、ひとりではいられなくなる。


 口に出さなくても伝わるものが、この世界にはある。


 背中に残る傷跡。

 焼けた肌。

 あの日の沈黙。


 それら全部が、言葉よりもずっと確かに、彼の想いを私へ届けていました。


 潮風の匂いを思い出すたび、私は今でも思います。


 あの夏の日、私はきっと、誰かに大切にされるということを知ったのだと。

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