第70話 ~深雪side~ いじめられたことのないふたり
「いじめられていたの」
相沢さんがそう言った瞬間、教室の空気がゆっくり変わっていくのがわかりました。
まるで合言葉みたいでした。
その一言をきっかけに、みんなが少しずつ自分の傷を見せ始める。
「私も」
「俺もそうだった」
「学校、行けなくなって」
静かだった教室が、急に熱を持ち始めました。
古い雑居ビルの一室。
会議室だった名残のある白い壁。
パイプ椅子の軋む音。
蛍光灯の白い光。
その全部が、不思議なくらい近く感じました。
私はぼんやりみんなを見渡します。
ここにいる人たちは、たぶん普通の学校ではうまく呼吸ができなかった人たちなんだと思いました。
夢の途中で立ち止まった人。
壊れてしまった人。
疲れてしまった人。
その傷を見せ合うことで、ようやく安心できる場所。
相沢さんは、その中心に立つのが上手な子でした。
少し大袈裟なくらいに笑って、少し芝居がかった声で話す。
でもたぶん、それは彼女なりの生き残り方なのだと思いました。
「なんか『グレイテスト・ショーマン』みたいだね」
誰かが笑って、教室も少し笑った。
私はその輪の中にいながら、少しだけ外側に立っている気持ちでした。
すると突然、相沢さんがこちらを向きました。
「ユキちゃんは?」
その呼び方に、私は少しだけ驚きます。
まだほとんど話していないのに、距離を縮めるのが上手い子なんだなと思いました。
みんなの視線が集まる。
私は少しだけ迷って、それから正直に言いました。
「私、いじめられたことないんです」
一瞬だけ、空気が止まりました。
私はその小さな沈黙に気づいてしまう。
相沢さんの表情が、ほんの少しだけ揺れたことにも。
そのあと彼女は、私をじっと見つめました。
白い髪。
白い肌。
薄い瞳。
たぶん彼女は、不思議だったのだと思います。
「こんな見た目なのに?」
そう思われることには慣れていました。
私は小さい頃から、先に「アルビノなんです」と説明して生きてきたから。
でも、いじめられたことは本当になかった。
もちろん、怖がられたことはある。
知らない人にじろじろ見られたこともある。
ひどい言葉を投げられたことだって、一度や二度じゃない。
それでも私は、「いじめられていた」とは思っていませんでした。
たぶん、お母さんのおかげでした。
お母さんは、私をかわいそうな子として扱わなかった。
外に連れ出してくれた。
ちゃんと笑わせてくれた。
だから私は、自分を「被害者」だと思わずにここまで来られたのかもしれません。
ふと、相澤くんを見る。
彼は明らかに困っていました。
視線が泳いでいる。
肩が強張っている。
自分の番が来ることを怖がっている顔でした。
私は少しだけ安心しました。
「あ、この人も同じなんだ」
ここにいるのに、まだここへ馴染めていない。
傷を持っている人たちの輪の中で、自分だけ透明になってしまったみたいな顔をしている。
その感じが、少しだけ愛おしかった。
相沢さんの視線が彼へ向かう。
その瞬間、チャイムが鳴りました。
相澤くんが目に見えて安堵する。
私は思わず、小さく笑ってしまいます。
授業後、教室はまた賑やかになっていました。
相沢さんが中心で、みんながそこへ集まっていく。
私は後ろを振り返りました。
相澤くんはまだ少し疲れた顔をしていた。
だから私は、小さな声で話しかけます。
「さっきいったんですけど」
彼がこちらを見る。
その目は、相変わらず少し不器用で、真っ直ぐでした。
「私、いじめられたことないんです」
彼は黙って頷く。
私はなんとなくわかっていました。
たぶん彼も、「そういう側」じゃない。
誰かを強く傷つけたことも、逆に壊れるほど傷つけられたこともない。
だから今、ここで少し息苦しい。
その感じが、痛いくらい伝わってきました。
私は窓の外へ目を向けます。
春の光が、古いビルの窓を白く滲ませていました。
そして、ふと思いました。
『あの公園へ行きたい』
あの小さなベンチで、少しだけ普通に呼吸がしたい。
だから私は、できるだけ自然な声で言いました。
「帰りがけに、あの公園に行きませんか?」
すると彼は、驚くくらい迷わず頷いた。
その反応が少し嬉しくて、私はそっと笑いました。
教室の中では息苦しい春も、あの公園なら、もう少し柔らかくなれる気がしたのです。




