第69話 ~深雪side~ 日傘の下のふたり
始業式の日、教室から逃げるみたいに帰っていった彼の背中が、なぜだかずっと頭に残っていました。
驚かせてしまったかな、とも思いました。
でも、それだけではない気もしていました。
彼は、私を見た瞬間、まるで強い光を直視してしまった人みたいな顔をしていたからです。
怖がる人とも、珍しいものを見る人とも違う目。
だから私は、少しだけ気になっていました。
一週間後の登校日。
私はいつものように、少し遠回りをしてあの小さな公園へ寄りました。
昔、お母さんと来ていた公園。
夕方になるまで遊んだ場所。
怖いと言われても、気色悪いと言われても、お母さんが「気にしなくていい」と笑ってくれた場所。
そこだけは、「白い私」がちゃんと息をしていていい気がした。
春と夏の間みたいな陽気でした。
日傘を差しながら公園へ入ると、ベンチに誰かが座っているのが見えました。
白いTシャツ。
少し猫背な背中。
そして、握られている缶コーヒー。
私は思わず立ち止まりました。
あの男の子だ。
なぜだか、胸の奥が少しだけ跳ねました。
彼はたぶん、私に気づいていませんでした。
ぼんやり遠くを見ていて、何かに怯えているようにも、考え込んでいるようにも見えました。
私は少し迷ってから、いたずら心みたいなものに背中を押されて、そっと近づきました。
そして肩を軽く叩く。
びくっと身体を揺らした彼が振り返る。
その表情があまりにも真剣で、私は少し笑いそうになりました。
「そこ、私の席です」
始業式の日と同じ言葉。
すると彼は、まるで時間が止まったみたいに私を見上げました。
春の日差しの中で、その目だけが妙にまっすぐでした。
私は一瞬だけ、息を呑みます。
ああ、この人、本当にちゃんと見てしまう人なんだ、と思いました。
表面だけじゃなくて、その向こうまで。
だから少し怖かった。
でも同時に、嬉しかった。
「あの……、確か……」
名前を思い出そうとした瞬間、彼は慌てたみたいに言いました。
「うん、同じ学校になった相澤です」
そこまではよかった。
でも次の瞬間、
「あいざわのざわは難しいほうの澤なんだけど、昔から書いているから僕はそうは思わないんだ」
と続けた。
私は一瞬きょとんとして、それから吹き出してしまいました。
なんだろう、この人。
必死すぎる。
でも、その不器用さが可愛かった。
「なにそれ! 面白い!」
そう言うと、相澤くんはさらに慌てた顔になった。
その反応が面白くて、私はつい、自分の名前でも同じことを返してしまう。
すると彼は、ようやく少しだけ自然に笑った。
その笑顔を見た瞬間、私は胸の奥がふわっと軽くなるのを感じました。
きっとこの人は、優しい人なんだと思いました。
ただ、優しすぎて、うまく呼吸ができなくなってしまうタイプの。
彼は時々、私の目を見つめたまま黙ってしまう。
薄緑色の瞳。
小さい頃から何度も見られてきた目。
綺麗だと言われたこともある。
怖いと言われたこともある。
でも彼の視線は、そのどちらとも少し違いました。
だから私は、冗談っぽく言ってみたのです。
「こんな可愛い子に話しかけられたからですか?
それとも白い子だからですか?」
本当は、少しだけ怖かった。
彼の中で私は、「白いもの」として映っているのか、それとも「私」として映っているのか。
その答えを知りたかった。
すると彼は、突然大きな声で、
「そうじゃない!」
と言った。
その声に、私までびっくりしてしまいました。
でも次の瞬間、胸の奥がじんわり熱くなる。
ああ、この人は、本当に違うんだ。
そんな気がしました。
私は小声で「人が集まっちゃいますよ」と言いながら、笑ってしまう。
たぶん私は、その時点でもう、かなり彼に心を許していたのだと思います。
日傘を少し傾ける。
すると、地面に二人分の影ができました。
その影を見た瞬間、胸がきゅっとしました。
まるで、本当に隣にいていいみたいだったから。
私は昔のことを話しました。
この公園のこと。
お母さんのこと。
怖いと言われたこと。
傷ついたこと。
たぶん、初対面の相手にする話ではありませんでした。
でも相澤くんは、途中で茶化したりしなかった。
うまく言葉にはできていなくても、一生懸命受け止めようとしてくれているのがわかりました。
それが、嬉しかった。
だから私は最後、少しだけ意地悪をしたくなった。
「貴方も私を見て、怖いとか気色悪いとか思って……」
そう言いかけた瞬間、
「違う!」
彼はまた、大きな声で否定した。
私は思わず笑ってしまいました。
その不器用な否定が、なぜだか泣きたくなるくらい優しかったから。
時間になって立ち上がる。
本当は、もう少しだけここにいたかった。
でも、急ぎすぎると壊れてしまいそうな気もした。
だから私は少しだけ距離を残したまま、
「またあとでね」
と言いました。
振り返ると、彼はまだベンチに座ったまま、呆然とこちらを見ていました。
私は小さく笑って、公園をあとにします。
背中に春の風を感じながら、私はそっと思いました。
相澤くん、ちゃんと笑うと素敵だなって。




