5 引きこもり竜襲来
これでやっと役者が揃います
バネッサたちの目撃情報を辿って、ダリウスは王宮の中庭に走り出た。
庭師が病に罹患するまでは、王宮関係者の憩いの場となっていた庭園である。樹木はそのまま残っているが、季節を問わず常に人々の心をなごませていた花々は、今はだいぶ数を減らしていた。聖水で快復した庭師たちの手によって、じきにここもかつての華やかさを取り戻すことだろう。
だけど今はそのお粗末な植栽がありがたかった。おかげでバネッサと神官長たちの姿をすぐに見つけることができた。
彼女たちは遊歩道の中ほどに立っていた。ガチャガチャと金属音を鳴らしながら走り込んでくる騎士たちを尻目に、頭上を見上げている。
ダリウスは彼女らの元へ走り寄り、少し手前で足を止めて同じように空に目をやった。
雲もまばらな澄んだ青空の遥か。上空に黒いものが浮いている。
ダリウスの拳よりも小さく見えたそれは、急速に大きくなり姿形を顕にしていく。歪んだ紡錘型の両端にあるのは長い首とそれよりも長く太い尻尾。あっという間に二枚の小さな羽根と手足も見て取れる距離まで近付いて――降下してくるそれは。
「あれが、霊山の竜か……」
いつの間にかダリウスの傍らに父が立って、軽く息を切らしていた。父の隣には兄もいる。世継ぎの君までこんな所に来てはダメだろう、とダリウスは自分を棚に上げてチラリと思ったけど、それを言葉にする余裕はなかった。
カチャカチャと甲冑が細く鳴り続けているのは、騎士の誰かが震えているからだ。それを情けないと叱責する者も嘲笑う者もここにはいなかった。なぜなら、騎士も将軍も王族も、同じく震えていたのだから。
神官も神官長もプルプルと微振動しているその隣で、聖女バネッサだけが平然と立っていた。
最早鱗の一枚一枚を数えられるほど間近に降りてきた竜の影は庭全体を覆うほど。その本体は王宮の中庭に入り切るのか怪しい大きさだった。
舞い降りてくる竜の巨大な腹に向けて、バネッサがたおやかに腕を振った。
「おーい、セイブルくん! その大きさじゃあここに入れないし、みんな怖がるから! うんと小さくなって降りてよ!」
バネッサの呼びかけに竜は首を巡らせて上空から庭を眺め渡し、納得したように大きく頷いた。途端に氷がお湯に溶けるように姿が縮んでいく。
聖女の目の前に降り立つ頃には、庭木の高さに届かないくらいの大きさにまで縮んでいた。それでも人の二倍はありそうな背丈だった。
ダリウスは呆気にとられながら「これくらいでいいか?」「まだちょっと大きいかな」などと呑気に会話する竜と聖女バネッサを眺めていた。
陽光振り注ぐ王宮の中庭はシンと静まり返っていて、一人と一頭の声だけが響いている。虫も鳥も息を潜めているような静けさだ。実際、そうなのかもしれない。竜からは他の生命を圧倒する威圧感が放たれていた。
大の男の一抱えもある大きな逆三角形の頭には鋭い二本の角とギラギラ光る二つの目玉。パカリと半開きの口には鋭く尖った白い歯が並んでいる。人間の手足なんて簡単に噛みちぎられてしまうだろう顎。
蛇の腹板のような鱗で覆われた腹部は艶やかな水色で、呼吸によってゆったりと大きくなったり小さくなったりを繰り返している。その動きが竜が生き物であることを感じさせて畏怖を覚えさせる。僅かな動きですら光を跳ね返す背中の瑠璃色の鱗など、どんな刃物を持ってしても貫くことはできないだろう。
姿だけでも地上の生き物には、到底かなわない存在だと、竜は見せつけていた。
なにより全身から放たれている、伸し掛かってくるような重い気配は、膨大な魔力量のせいなのだろうか。それが殺気でないことを願うしかない。
ダリウスの背中を冷や汗が滑り落ちた。竜の圧倒的強者感に、彼は仔羊のように震えるしかなかった。
「もう! セイブルくんってば、なんでそんな怖い顔してんのさ! みんな怖がってるでしょうが!」
「怒っているのだから当たり前だ」
バネッサの問いに竜が低い声で答えた。
中庭に再び緊張が走った。
怒っている、と言った。竜が。
恐怖に震えて当然だった。
「バネッサよ。精霊たちから聞いたぞ。そなたはこの国の第二王子と結婚するのだとな。結婚とは番になるということだろう? 我は絶対に許さぬぞ! そなたは我のものだ!」
「やだ、精霊ってば余計なお喋りを! セイブルくんも何を言ってんのよ! 噂は噂よ! 私はまだなんにも言われてないんだからね!」
花の顔を桃色に染めて可愛らしく頬を膨らませるバネッサは、見る者の視線を釘付けにするほどに可憐で愛らしかった。
が、残念ながらダリウスの目には映っていない。彼は瞑目して天を仰いでいた。
(終わった! 私、人生終わった!)
最近になってようやく納得したとはいえ、そもそもダリウスにとって不本意な縁談である。そのせいで竜の怒りを買ってしまったなんて理不尽極まりない思いでいっぱいだ。
彼の脳内を横恋慕だとか間男だとかの不穏な単語が駆け巡る。竜にとってのダリウスは、まさしくそれだ。自分の思い人を横から掠め取ろうとしている忌々しい邪魔者なのだ。
(誰だ、人騒がせな噂を流したのは! あ、父上が発案者か! 策略なんてはた迷惑なものを巡らせて息子を窮地に追いやるなんてどんな親だ!)
今となっては恨んでも恨みきれない。こんなことなら王国全土を回って噂を否定して歩けばよかったと、彼は心から後悔した。
だけどいまさら足掻いてももう遅いのだ。噂は充分に駆けめぐり、竜の知るところとなってしまった。
竜はバネッサを無視してギラリと光る金色の目で周囲の人々を見回した。
「で、誰が第二王子だ?」
ドスの効いた地鳴りのような声で問われて、ダリウスの肩がビクリと揺れた。
ゴクリと生唾を飲み込んで彼は逡巡する。名乗り出ないで済むわけがない。でも怖い。今でもこんなに恐怖を感じるのだから、竜の怒気を一身に受けでもしたら……どうなってしまうのか。
(それでも、名乗り出ないでいるのは、王子としての威厳に関わるのではないか?)
ダリウスは目を開いて恐る恐る竜の方を見た。
直視する勇気はまだちょっとなかったのでバネッサに焦点を合わせたら、彼女はこちらを見ていた。目が合った。慌てて視線を反らしたら神官長と目が合った。さらに反らした。神官とも合った。
あれ? と思って周囲に目をやると、隣に立っていたはずの父と兄がいつの間にか斜め後方に移動していた。不穏な空気を察知して逃げたのだろう。周囲を力量のある騎士たちが固めている。彼らのその行動は正しい。二人は現国王と王太子なのだから、身を守るのも守られるのも当然だ。しかし肉親としてはどうなのだろう、とダリウスが軽く恨みたくなるのは仕方がないことだ。そんな所から心配げな顔でこちらを見られても、と文句を言いたくなる。
ともあれ、聖女も神官も騎士も貴族も王族も、誰も彼もの視線がダリウス一点に集結していた。
皆の目が、口ほどに物を言っている光景である。とてもわかりやすかった。
(そうだよなぁ。見てしまうよなぁ。私もきっと見てしまうよ。どうするのか動向が気になるし)
ダリウスは諦念を覚えて小さく笑った。「この人です!」と指さされなかっただけマシだろう。
笑ったら、少し気が楽になった。腹を決めたダリウスは、青ざめた顔に毅然とした表情を貼り付けてまっすぐ竜に告げた。
「私がカイル王国第二王子、ダリウスだ」
声は震えなかった。かろうじて。脚はプルプルだけど背筋は伸ばしている。完全に虚勢だ。
ともすれば崩折れそうになる心と体。そんなギリギリの所に立っているダリウスを、竜はギロリと睨んだ。
「そなたが第二王子か? ずいぶんと生っ白い優男だな。我の鼻息で吹き飛ぶのではないか?」
そう言いながら竜が身を屈めて巨大な顔をダリウスに近付けてくる。
逃げ出したくなるのを堪えてダリウスは足を前後にして踏ん張った。
(鼻息なんぞで飛ばされたら、明日から私の渾名は『竜の鼻息で吹き飛ばされた王子』略して『鼻息王子』になる! そんな生き恥を晒すのはご免だ! 無様に倒れてなるものか!)
決死の覚悟で眉間にシワを寄せ、ダリウスは全身で竜の鼻息に備えた。目を見開いてしっかりと竜の鼻の穴を見据えた彼のその時の勇姿を、神官長は後に語った。気迫に満ちたその姿は、まるで伝説の勇者のようであったと。
内心はともあれ、毅然として睨み返すダリウスの姿に、竜はフッと小さく息を漏らした。わずかな鼻息が彼の髪をそよがせる。意外と風圧が少なかったのでダリウスは目を細めただけだった。
「ほぅ……。日陰のペンペングサのような体の割には、なかなかイイ顔をするではないか。相手に取って不足はなし、とまではいかないだろうが」
なんだかわからないが、ダリウスはちょっとだけ竜に気に入られたようである。竜と対等に渡り合うバネッサの件といい、この竜は気概のある者が好きなのかもしれない。
ならば強気で対峙するのみ。ダリウスはこの機会を見逃さなかった。弁明するなら今しかない。時を逃すまいと彼は拳を握って弁を振るった。
「竜殿! たしかに私と聖女バネッサ殿との結婚の話は出ている。国中で噂されているとおりだ。だがそれは決定されたことではないのだ。そもそもこの縁組は、バネッサ殿の今回の功績に見合う地位を授けるには王族として迎え入れるのが一番相応しいのではないか、という考えから持ち上がったものだ。だが、これはこちらからの一方的な押し付けの地位だ。竜殿もよくご理解いただきたいのだが、この話は決定事項ではないのだ! 第一に、結婚には双方の同意が必要であると私は考えている。本人の意思を確認していないうちに噂ばかりが流れてしまい、バネッサ殿には不快な思いをさせてしまって申し訳ないのだが、貴女には拒否権が当然ある。だからこそ、今ここで貴女に問いたい。私と結婚したいかどうかと!」
彼の熱弁はバネッサへの丸投げを着地点として終わった。
己が竜の恋敵になるか否かの命運を勝手に聖女に託したダリウスは、息を詰めてバネッサを見つめた。
彼女は困惑していた。細く優美な眉が困惑の形を表して下がっている。
竜はその顔を覗き込むように首を傾げた。
「どうした、バネッサ? そなたらしくもない。ハッキリと断ってやれ」
「はぁ。まぁ、ね? 噂を聞いて私もびっくり……驚いてたんですけど……ね?」
彼女の口調が、先ほど謁見の間で「騎士が竜に勝てるわけがない」と遠回しに言っていたときのものにそっくりだと、ダリウスは気付いた。
咄嗟に彼は微笑んだ。それは勝利を確信した笑みだった。
「バネッサ殿、本当に遠慮はいらないよ。貴女の心のままの言葉で答えてくれて構わない。今の私は貴女の素直な気持ちを聞きたいだけの、ただの男だ。約束しよう。どのような返事でも不敬に問うことはないと」
「え? いいの? 怒られないなら遠慮なく言うけど。なんかさ、噂流して外堀埋めて結婚しなきゃならない空気になっちゃってるでしょ? 国中が。それってさ……なんか腹立つんだよね。狡っ辛いやり方で気に入らないっていうの? どうだ、断れないだろう? じゃあなし崩しで結婚しちゃえ!ってのが見え見えでさ。そんなの、普通にお断りだよね」
遠慮なく不満をぶち撒けるバネッサに、ダリウスは内心ガッツポーズを決めた。
(よかった! 私、だいぶ心象が悪かった!)
普通ならば喜んでいる場合ではないけれど、ここで彼女に「はい喜んで!」などと答えられたらダリウスの命運は詰むのだから、今は快哉を叫ぶべきだ。
ダリウスと聖女バネッサの婚姻のために動いていた人々、特に母からは不満が噴き出す可能性はある。けれども自国の王子が竜の恨みを買うリスクを説けばきっと納得してくれることだろう。
彼はともすれば満面の笑みを浮かべそうになるのを堪えて、申し訳なさそうな微笑みを作った。
「バネッサ殿の意思、しかと受け止めた。この縁談は先ほども言ったようにまだ正式なものではない。貴女が嫌ならば無かったこととしよう。それで構わないのだから。……国中に噂が流れてしまったことに関しては、本当に申し訳なかったね。私もあれはどうかと思うが、先走った者たちが表した聖女バネッサ殿に対する感謝の意であると理解してほしい。やり過ぎではあったのだが、悪意はなかったのだよ」
「あ、うん。それはわかるよ。噂話を教えてくれた人も、すっごく嬉しそうだったからさ。みんな喜んでてちょっとお断りしづらいかなって思ったんだけど、でもやっぱり、イヤなものはイヤだよねぇ」
困り顔のまま笑ったバネッサは、ハッとして両手の平を体の前で振って慌てたように言い添えた。
「でもでも! 王子様のことはいい人だと思ってるよ! 王子様が病のことを調べてくれたから、霊山に原因があるってわかったわけだし。おかげでみんなを治せて、セイブルくんも助けることができたしね!」
「ほほう。では第二王子のおかげで我とバネッサは出会うことができたということか。我の番に手を出そうとしたことは少々癪に障るが、その点に関しては感謝せねばならんようだな」
「いやいや、私は調査しただけだ。すべての問題が解決に至ったのはバネッサ殿の英断によるものなのだから、私のしたことなんて微々たる功でしかない」
「えぇ? それでもさ、調べ回るのって大変だったでしょ? それを丁寧にあちこち行って調べてさ。凄いよ! 国外にも行ったって聞いたよ? 体調悪いのに凄い! 責任感が強いっていうの? さすが王子様だよね!」
ニコニコと花が綻ぶような笑顔とともにバネッサがダリウスを褒めるので、竜の気配がまたもや重苦しくなってきている。ダリウスは焦った。おそらく竜はバネッサが彼をベタ褒めしているから気に入らないのだろう。嫉妬だ。せっかく『竜の恋敵』という剣呑な立場から逃れられたのに、また振り出しに戻されては堪らない。
内心で冷や汗を垂らしつつ、ダリウスは何気ない振りをして竜に話の水を向ける。
「ところで竜殿。私が見事に振られてバネッサ殿との結婚話はなくなったのだから、今度は竜殿とバネッサ殿が結ばれるかどうかという話になると思うのだが?」
「へっ?」と声を上げながら大きく瞬きをするバネッサに顔を並べて、竜は我が意を得たりとばかりに瞳を煌めかせた。
竜はいそいそと移動して聖女の正面に向かい合うと、鋭い鉤爪のある手で自分の水色の胸の辺りをポンポンと叩いた。そうしてどうやら手の汚れを拭ったらしい彼は、その大きな手――というか指でバネッサの華奢な右手をそっと持ち上げた。
「バネッサよ。邪魔する者はいなくなったぞ。我と番え」
「え、やだ」
間髪を入れぬ拒否だった。
中庭のあちこちから「えぇぇっ?」という声が上がった。後の世にも『竜の伝説的プロポーズ』として語り草になる竜の求婚を最前列で見守っていたダリウスも、もちろん声を上げた。
「ここで断るのか! バネッサ殿!」
「だって! イヤだよ?! こんなプロポーズ!」
「何が嫌なのだバネッサ!!!!」
竜は天を仰いで叫んだ。同時に両腕をワサワサと動かし尻尾をブンブンと振り回す。竜の長く強靭な尻尾は中庭に残っていたささやかな茂みを刈り取り、樹木を薙ぎ倒し、後方にいた何人かの不運な騎士を弾き飛ばした。大嵐が訪れたよりも酷い被害だ。にわかに悲鳴と怒号が飛び交う中庭。阿鼻叫喚だ。
竜の間近、バネッサの傍らにいた神官は咄嗟に神官長を姫抱っこして素早く国王の近くまで退避した。神官にしておくのが惜しいくらいの見事な判断力と運動神経だけど、絵的にはどこに需要があるのかわからないものだったので、誰もがチラリと流し見ただけだった。それどころではないのだ。
いや、バネッサはちゃんと見ていた。
彼女は神官長が無事に退避したのを確認すると、おもむろに頑強鉄人武装魔法を使った。
眩い光を全身から放ち、一瞬ののちには可憐な乙女の肢体は消え失せていた。
現れたのは武神も斯くやの巌のガタイ。竜と互角に渡り合う筋肉聖女の肉叢である。
「セイブルくん! 自分の思いどおりにならないからって人ん家のお庭で暴れるなんて、なんてお行儀の悪い! 自分の図体を考えなさい!!!」
彼女はジタバタ暴れる竜に跳び付き、その首を両腕で脇に抱えると己の体重を利用して引き下ろし。着地と同時に地面に片膝を立ててしゃがみ込むと、裂帛の気合とともに竜の顎下を立てた己の膝頭に叩き付けた。
目にも留まらぬ速さだった。中庭にいる騎士の中でも、何が起こったのか理解できなかった者もいたかもしれない。
たしかなのは、多くの生き物にとってそうであるように、竜にとっても顎の下は急所だということだ。
硬く痛そうな音が響く。竜は短く「グギョッ!」と鳴いて動きを止めた。金の両目が白く裏返り、猛威を振るっていた尻尾がパタリと地に落ちる。
「おぉぅっ! あれは伝説の聖女の必殺技『神聖なる鉄槌』! 使いこなせるとは、やりおるのう! バネッサよ!」
神官長が神官の腕の中で興奮した声を上げている。そんな名前がある技なのだな、と深く考えたくなかったダリウスはあっさり流した。
バネッサは脇に抱えた首を放り出して尻尾を手に取ると、それを器用に竜の胴体へと巻き付けている。ギッチギチに二周半だ。尻尾の端は巻いた尻尾の下にギュッと押し込んだ。そうそう簡単には外れない。
楽しんでいただけたら嬉しいです




