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【完結済】BL漫画家の私の隣人が、どう見ても異世界から転移してきた王子サマな件について  作者: 水月


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第九話:『攻めの肉じゃが』か『受けのプリン』

 アレクシスが私の生活圏に現れて以来、私の引きこもりという堅固な平穏は、根底から瓦解の一途を辿っていた。そして、その破壊の波は、ついに近隣住民との予期せぬ交流にまで波及することになったのだ。


 それは、アレクシスが初めて『伝説の味噌汁』なるものに意気込み、その調理に着手した日の出来事である。彼は包丁の扱いに未だ習熟しておらず、大根の裁断中に、唐突かつけたたましい音を立て、まな板ごと床に落としてしまったのだ。


「ダイコーンが、床に、散らばってしまった!」


 ええい、大根を落としたくらいでそんなでかい声を出すな。 

 彼の悲鳴にも近い、やや甲高い声が響き渡った、まさにその刹那。玄関のチャイムが鳴り響く。私は反射的にギョッとした。こんな時間に、一体誰が訪れるというのか。


 インターホン越しに覗くと、そこに立っていたのは、日頃から非常階段など共用箇所の清掃を率先して行ってくれる、穏やかな面持ちの老婦人であった。一応、面識はある。


「何かあったのかしら? すごい音がしたから、心配で」

「あ、いえ、なんでもないですよ! ちょっと大掃除をしていて! うるさくてすいません!」


 私は慌てて取り繕う。しかし、アレクシスはそんな私の焦燥など意に介する様子もなく、玄関のドアを開けようと無造作に手を伸ばす。


「助けの手は幾つあっても良い」

「ちょ、ちょっと待ってください!」


 私の切迫した制止も虚しく、アレクシスは躊躇なくドアを開け放ってしまった。そこに現出したのは、床に無残に散らばった大根の破片、白いシャツに卵の染みをつけたままの類稀なる美貌の男、そして、その光景を前に呆然と立ち尽くす老婦人の姿であった。


「あら、ご主人は外国人の方だったのねぇ。まぁ、背が高くて素敵だこと」


 老婦人は、アレクシスを一瞥するや否や、その眼差しを輝かせた。アレクシスは、その言葉の真意を完全に理解しきれていないようだったが、持ち前の愛想の良さで微笑み返す。


「私がアヤノの夫? なるほど、そうか…… 私はこの家で、アヤノの食料庫と厨房を守る者だからな」


 そう言いながら誇らしげに胸を張り、礼儀正しく老婦人の手を握ろうと歩み寄った。私は慌てて彼の腕を掴み、寸前で引き戻す。


「違います! 夫じゃないです!  彼はただの隣人で、今、ちょっと……」


 私は必死で状況を説明しようと試みるが、老婦人の耳にはもう私の言葉など届いていないようだった。彼女の視線は、完全にアレクシスに釘付けになっている。


「あらあら、そうなの。でも、仲良しさんなのねぇ。また何かあったら言ってちょうだいね」


 そう言って、老婦人はニコニコと朗らかな表情で立ち去っていった。しかし、その顔には、どこか「面白いものを見つけた」というような、底知れぬ好奇心が満ち溢れていた。


◇◇◇


 それ以降の事である。アレクシスがスーパーマーケットに出向くたびに、彼に気安く声をかける人間が顕著に増加した。老若男女を問わず、彼の彫刻のような美形ぶりと、この世界の常識に疎い世間知らずな言動は、やはり否応なく人々の注目を集めていたのだ。


「アレクシスさん、お野菜はあっちだよ!」

「お兄さん、このお菓子、美味しいよ!」


 都心のスーパーマーケット店内だというのに、駅前商店街のような気軽さで声が掛かる。解せない。

 アレクシスは、彼らに囲まれるたびに、まるで新しい知識を吸収するかのように目を輝かせ、彼らの言葉に真剣な面持ちで耳を傾ける。そして、私は、彼の傍らで「違います、違います」と否定し続ける、という困惑の羽目に陥っていた。



 そして、新連載「異世界王子(仮)のアレス様はご執心!」は、私の不安を他所に、SNSで話題沸騰となり、ありがたいことにWebコミックサイトのランキングでも不動の1位を独走しはじめた。


 特に主人公のアレス王子は、その完璧な容姿と世間知らずな言動、そして料理への真摯な(しかし奇妙な)情熱が読者の心を掴み、熱狂的なファンを続々と生み出しているようだった。


「アヤノ先生! 今月もとんでもない反響です! グッズ化の話もまた来ていますよ! 特にアレス王子のアクスタは問い合わせが殺到していて……」


 担当編集者である鈴村くんからの興奮した連絡に、私は内心で深い溜息をついた。

 グッズ化。それはすなわち、アレクシスに酷似したキャラクターが、アクリルスタンドやストラップなどの形で現実世界に流通することを意味する。


「あの……その、アレス王子って、あくまでフィクションですからね?」


 焦燥感を滲ませながら釘を刺しても、電話口の鈴村君は「フィクション? いやいや、こんなに魅力的なキャラクター、先生の頭の中からだけ出てきたなんて、信じられませんよ!」と、悪気なく笑い飛ばすばかりだった。


 一方、アレクシス本人は、自分が漫画のモデルになっていることにも、世間が自身の容姿に騒然としていることに関しても、大した関心を示さず、彼は今日も、私の部屋に上がり込み「食糧庫兼厨房」の中央で、真剣なまなざしで『伝説のオムライス』なるものに挑戦していた。


「この『薄紅色の絹』と『黄金の絨毯』を、どのようにして『愛の包み』にすれば良いのだろうか……」


 アレクシスが卵液を張ったフライパンを傾け、米飯の上にそっと被せようとする。その一挙手一投足は、まさしく漫画のアレス王子そのものだ。彼の行動の細部の一つ一つが、次のネームへと繋がるインスピレーションの源泉となる。私は私で相も変わらず、その姿を記録することを辞められない。


 しかし、状況は確実に、変化の兆しを見せていた。


 ある日のスーパーでの出来事だ。

 アレクシスが熱心に日本の調味料コーナーを物色していると、通りがかりの女子高生たちが、ヒソヒソと話し始めた。


「あのお兄さん、アレス王子にそっくりじゃない?」

「え、マジで? 横顔とか完璧じゃん! リアルアレスじゃん!」


 最初は単なる気のせいかと思っていたそんな会話だったのだが、日を追うごとに増える『リアルアレス』の呼び声に、私の胃はキリキリと痛みを訴え始めた。時には、勇気を振り絞ったファンが、恐る恐るスマートフォンを向け、彼の姿を撮影しようとすることまであった。その度に、私は素早く壁に隠れ、彼らの行動を制止する羽目になる。


「あれは、一体どういう意味だ? 『リアルアレス』とは、私のことか?」

「あ、いや、それは……その、あなたの髪の色が、漫画のキャラクターに似てるって意味ですよ!たぶん!」


 咄嗟にごまかすも、アレクシスの探究心は、そんな曖昧な説明では到底収まらない。


「……やはりこの『アレス』という人物は、私を模して描かれたものなのだな?」


 私の答えを待つことなく、彼は一人で得意げに頷き続ける。


「『絵師アヤノ』は、この『アレス』に、どのような『伝説の料理』を作らせるつもりなのだ? やはり『攻めの肉じゃが』か? それとも『受けのプリン』だろうか」


 彼の突飛な質問に、私は思わず頭を抱えた。

 漫画のヒットは素直に嬉しい。しかし、そのヒットが、アレクシスの存在を現実世界に露呈させ、彼をさらに「リアルアレス王子」として確固たるものにしていくことに、私は途方もない不安を覚え始めていた。


 このままでは、いつか異世界転移してきたイケメン王子サマ(仮)としての正体が、公になってしまうのではないか。そんな不安は、早々に現実のものとなる予感を孕んでいた。





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