第九話:『攻め』妙技を『受け』いれるか否か
鉄血の家臣団が私の信者と化して拝み倒してきた狂気のデモンストレーションから一晩。鉄血城の当主執務室では、まるで全てを吸い尽くされたかのように老け込んだガルドス辺境伯の姿があった。
「……我が娘も、我が誇り高き騎士団も、すべてあの怪しげな書物に魂を売ってしまった。もはや、我が領地にアレクシス殿下へ刃向かう気骨のある者は一人もおらん……」
辺境伯はガタガタと震える手で、宙に浮かぶ榊原の魔術契約書に魔力刻印を済ませた。これで、強硬派の牙城を食と本で切り崩すという、榊原からのミッションは完全達成である。
「アヤノ様ぁ! こちら、我が領地特産の最高級の羊皮紙と、鉱山から採掘された極上の顔料にございますわ! あ、それと昨日お約束した騎士団の『筋肉・体格・身長差・戦歴の詳細名簿』もここに!」
「シシィ様、本当にありがとうございます……っ!! ものすごく助かります!!」
馬車の荷台が沈むほどの貢ぎ物。すなわち、高級画材と詳細な作画資料をシシィ様から受け取り、私はがっちりと固い握手を交わした。辺境伯はそれを見て「我が領の財産が、謎の絵師の活動資金に……」と白目を剥いていたが、気づかないフりをしておく。
◇◇◇
すべての公務が終わり、私たちは、あの天蓋付きキングサイズベッドのある密室へと戻ってきた。
明日の早朝には王都へ向けて出発するため、この部屋で過ごす最後の夜だ。
「はぁぁ……、終わった! これで本当に終わり! ビジネス婚約者のフリも、これでお役御免ですね! つかれたー! 引きこもりに外を歩かせるなって」
私は部屋の隅に鞄を放り出し、どさりと床の絨毯の上に大の字になった。
精神的な疲労が凄まじかったが、今回はシシィ様という最強の太客を得たし、報酬も1.5倍、さらに榊原からの印税上乗せもある。漫画家としてのロケハンとしても、これ以上ない大収穫だ。
「お疲れ様でした、アレクシスさん。これで日本に帰ったら、また普通ののんびり生活に戻れますね。今夜は私がそこの長椅子で寝ますから、アレクシスさんはベッドを使ってください」
ホッとして目を閉じようとした、その時だった。
フワリ、と影が私を覆った。
気がつけば、アレクシスが私の真上に屈み込み、琥珀色の瞳でじっと私を見下ろしていた。
「……アレクシスさん?」
いつもの「味見して感想聞かせて?」と催促するような大型犬の顔ではない。先日の戦場で見せたような、あるいはそれ以上に低く、熱を帯びた圧力を孕んだ瞳。
「アヤノ。君は、これで終わり、だと言うのだな」
「え? あ、いや、ガルドス辺境伯も降伏したし、演技をする必要はもう……」
「私は、演技など一度もしていない」
低い声が、静かな室内に響く。
アレクシスは床に突いた両手で私を閉じ込めるようにして、さらに顔を近づけてきた。彼のシンプルなシャツの隙間から、昼間の朝練で鍛え上げられた逞しい胸筋が、嫌でも視界に入ってくる。その大勢は大変素晴らしいけれど、対象が私だと言うのはよろしくない。
「君は昼間、私が料理をしている間……私ではなく、あの髭面の男たちの体格を、熱心に見つめていただろう」
「へっ!? あ、あれは、作画資料というか、身長差の構図として優秀だなって……」
「胸の奥が、料理を強火で焦がしてしまった時のように、ひどく苦しくなった」
アレクシスは、私の言い訳を遮るように、切なげに眉をひそめた。
「君が描いているのは『アレス王子』のはずだ。君の筆の先にいるのは、私だけでいい。……他の男を、そんな目で見るな」
(こここここれ、もしかして……嫉妬!?)
私の胡乱な脳が弾き出した答えに、全身の血が沸騰しそうになる。
アレクシスはそっと手を伸ばし、私の眼鏡を外して、サイドテーブルに置いた。視界がわずかにぼやける中、彼の蒼い瞳だけが、驚くほど真っ直ぐに私を捉えている。
「君はいつだったか、私に言ったな。『焦げ付かないよう、火加減には気をつけて』と」
「あ……、うん、言いました、けど……」
「手遅れだ。私の心の火加減は、君のせいで、とうに制御不能なのだから」
アレクシスの大きな手が、私の頬を包み込む。彼の指先の体温が、私の肌に直接伝わってきて、心臓が肋骨を突き破りそうなほどの勢いで、どこどこと暴れ出した。
これまで二次元の原稿の上で、何百回、何千回と描いてきたイケメンたちの告白。
だけど、目の前にあるのは、私のために、私だけを見つめて熱を宿しているという、現実。
「アヤノ。私はもう、君のモデルでいたくない。……君の、本当の『攻め』になりたいのだ」
「…………っ、最後になんでBL用語混ぜちゃうんですか、台無しです!!」
あまりの恥ずかしさと、最後の最後でやっぱり語彙が汚染されているアレクシスへの愛おしさで、私は真っ赤になった顔を両手で覆い隠した。
アレクシスは私の反応を見て、ふふっと、驚くほど静かで優しい笑みを浮かべた。
「そうやって、私の『攻め』妙技で赤くなるのが一番可愛いな。……今夜は床などではなく、私にしっかりと抱かれて眠るが良い」
「いや、ちょっと待って、そこはまだ『受け』入れてませんから――っ!?」
天蓋付きのベッドへと軽々と抱き上げられながら、私は心の中で、今日だけは完全に沈黙を守って空気を演じ切るシリルに、静かに呪いの言葉を吐くのだった。




