第五話:密室における偽装婚約者たち
魔物の襲撃という異世界ならではの洗礼を乗り越え、私たちの馬車はついに、強硬派の筆頭であるガルドス辺境伯が治める領都へと滑り込んだ。
車窓から見える景色は、これまでの瀟洒な王都とは異なり、重厚な黒色岩で築かれた高い城壁や、武骨な意匠の建物が目立つ。行き交う人々もどこか険しい顔つきで、街全体が「鉄と武力」の空気を色濃く纏っていた。
「ここがガルドス卿の領地か。以前に観兵式で訪れて以来だが、相変わらず無駄な装飾を排した、堅牢な街並みだな」
アレクシスは、軍服を端正に着こなして窓外を眺めている。先日の、あの圧倒的な剣技を目の当たりにして以来、私は彼のこの「リアル王子様モード」の横顔を見るたびに、胸の奥が妙にむず痒くなるようになっていた。作画資料としてではなく、一人の男として、どうしても意識してしまうのだ。
「アレクシス様、アヤノ様。間もなく辺境伯直営の迎賓館に到着しますが……」
馬車と並走するシリルが、小窓から神妙な顔でこちらを見る。
「あの……大賢者様からの伝達です。『本日より敵陣での演技が始まる。アヤノ様をただの絵師として扱えば、ガルドスは即座に自分の娘をアレクシス様に押し付け、婚姻による包囲網を完成させるだろう。絶対に恋人――否、入籍秒読みの婚約者として振る舞い、鉄の絆を見せつけなさい』とのことです」
「に、入籍秒読み……っ!?」
私は思わず持っていたスケッチ用の裏紙を握りつぶした。あの悪徳コンサル、日本にいる時から設定の盛り方がどんどんエスカレートしていないだろうか。
「ふむ、コウの言う通りだな。ガルドス卿の政治的攻勢を躱すには、それなりに私たちの仲を示さねばならぬ。案ずるなアヤノ、私が君を完璧に『受け』止めてみせる」
「アレクシスさん、そのBL用語の使い方は色々と語弊しかないので、向こうの人たちの前では絶対に口にしないでくださいね、死人が出ますから」
私の必死の釘刺しも虚しく、馬車は重々しい鉄格子の門をくぐり、石造りの立派な迎賓館の前へと停止した。
◇◇◇
「――これはこれは、アレクシス殿下。よくぞ我が領地へおいでくだされた!」
馬車の扉が開いた瞬間、地鳴りのような豪傑な声が響いた。
出迎えたのは、全身から歴戦の猛者としての威圧感を放つ、大柄な初老の男。彼こそが、強硬派の筆頭ガルドス辺境伯だった。その鋭い眼光は、アレクシスの後ろに隠れるようにしている、一応異世界風のまともな服は着せられている私を、値踏みするように射抜いてくる。
「遠路はるばる、このような辺境まで……。おやおや、そちらの妙なる女人は? 殿下の『お世話係』ですかな?」
ガルドス辺境伯の言葉の裏には、明確な政治的意図が見え隠れしている。
(さあ、言うんだ、アヤノ……! 1.5倍の報酬のために、ここで完璧なビジネス婚約者を演じ切るのよ……!)
私が意を決して口を開こうとした、その刹那。
「――否。ガルドス卿、紹介しよう。彼女はアヤノ。私の魂の片割れ……いや、この命に代えても守るべき、私の最愛の婚約者だ」
アレクシスが、私の肩をガシッと力強く抱き寄せ、堂々と言い放った。
あまりの至近距離に、彼の体温と、男らしい香りが一気に鼻腔を抜ける。
「な……ッ!?」
ガルドス辺境伯が驚愕に目を丸くする。私も心の中で同じくらい大絶叫していた。アレクシスさん、アドリブの熱量が「秒読み」を越えて「今すぐ教会行きます」レベルに重いんですけど!?
「ほぅ……。殿下が、これほどのご執心を。我が娘、シシィも殿下のお越しを心待ちにしておるのですが……左様ですか」
辺境伯は忌々しそうに眉をひそめたが、すぐに老獪な笑みを浮かべて、館の執事に顎をしゃくった。
「ならば、お二人は同じ部屋でお休みいただくのが筋というもの。丁重に、最上級の『一室』へご案内しろ」
「え……」
私の思考がフリーズした。
一室?
一部屋?
「ガルドス卿、配慮に感謝する。アヤノ、行こうか」
アレクシスは私の腰を抱いたまま、無垢な笑顔で、ずんずんと館の中へと歩を進めていく。
「ちょ、ちょっと待って、アレクシスさん……!」
私の小声の抗議は、案内された部屋の扉が重々しく閉まる音によって遮断された。
◇◇◇
案内された「最上級の一室」は、部屋の中央に、どう見ても成人男性二人が余裕で転がれるサイズの、馬鹿みたいに巨大な天蓋付きキングサイズベッドが、これ見よがしに一台だけ鎮座していた。
「……うそでしょ」
私は部屋の隅に鞄を放り出し、頭を抱えてしゃがみ込んだ。
完全なる密室。そして、実質ベッドは一つ。
漫画では何百回と描いてきた定番中の定番、王道の「部屋が一つしか空いていませんでした」シチュエーション。
「どうした、アヤノ。疲れたのか? このベッドは我が王城のものほどではないが、なかなか『受け』入れる度量が広そうな素晴らしいクッション性だぞ」
アレクシスは無邪気にベッドに腰掛け、ポンポンとシーツを叩いている。
(この人、本当に何にも考えてない……!!)
日本での居候生活でも、私の部屋のリビングに彼が居座ることは日常茶飯事だった。しかし、ここは異世界の、それも敵陣のど真ん中。そして私たちは「婚約者」という建前になっている。
先日の魔物襲撃で見せた、あの格好良すぎる彼の姿が脳裏をよぎり、私の心臓が、締め切り前の修羅場とは全く違うベクトルの早鐘を打ち始めた。
「アレクシスさん……あの、今日、私、どこで寝ればいいですかね」
「何を言っているんだ。当然、このベッドで共に眠るのだろう? 婚約者なのだから、別々に寝てはガルドス卿に疑われてしまう。それに……」
アレクシスはベッドから立ち上がると、ゆっくりと私の方へ歩み寄ってきた。
月明かりが窓から差し込み、彼の蜂蜜色の髪と蒼い瞳を、妖しいほどに美しく照らし出す。私の目の前で立ち止まった彼は、そっと手を伸ばし、私のすっぴん眼鏡のフレームを指先で軽く押し上げた。
「――昨年のあの夜、バルコニーで言ったはずだ。君の存在が、私の探求を深くしている、と。私は……この旅の道中、君を他の男たちの視線に触れさせたくなかった。これは、コウの命令だからではない。私の……意志だ、アヤノ」
彼の低い、熱を帯びた声が、密室の静寂に溶けていく。
顔が、近い。彼の吐息が、私の前髪を微かに揺らす。
(やばい、やばい、やばい……このままでは、リアルにおいしくいただかれてしまう! )
私の脳が飽和し、心臓が爆発寸前の限界を迎えた、その時だった。
――コンコン。
絶妙すぎるタイミングで、部屋のドアがノックされた。
「アレクシス様、アヤノ様。ガルドス辺境伯より、今宵の晩餐会の準備が整ったとのことでございます」
ドアの向こうから聞こえてきたのは、シリルの、そして日本側の魂の片割れである鈴村君と全く同じ、完全に現実に引き戻される苦労人の声だった。
「……今行く!」
私は弾かれたようにアレクシスから距離を取り、大急ぎで荷物から悪徳コンサルが準備しておいてくれたであろうドレスを引っ掴む。
迫り来る、強硬派の鉄血晩餐会。
そして、その後に待ち受ける、王子との密室の夜。
食卓改革どころか、自分の心臓の耐久レースへと突入しようとしていた。




