第四話:鉄錆の風と、国一番の太刀筋
旅の二日目。
宿場町を出てしばらく進むと、馬車の窓の外は、切り立った岩肌が続く荒涼とした山道へと景色を変えていた。
昨日の「爆発芋事件」の余波で、一時生死の境を彷徨っていたシリルも、驚異的な騎士の回復力でなんとか復活し、今は再び馬車と並走して警戒に当たっている。
車内は、ガタゴトという車輪の音だけが響く静けさに包まれていた。
私は、向かいに座るアレクシスを盗み見る。
彼は、お気に入りのフライパンを膝の上に大切そうに抱え、じっと窓の外を眺めていた。
その横顔は、彫刻のように端正で美しい。
(……黙っていれば、本当に非の打ち所がない王子様なんだけどな。黙っていれば)
私がそんなことを考えていた、その瞬間だった。
――ヒヒィィィンッ!!
突如、御者台の馬たちが狂ったような悲鳴を上げ、馬車が激しく急制動をかけた。
「ひゃあッ!?」
激しい衝撃で座席から投げ出されそうになった私の身体を、アレクシスの長い腕が瞬時に、力強く抱き留めた。
「アヤノ、動くな!」
その声の低さに、心臓が跳ねる。いつもの甘えたような大型犬の声ではない。
外からは、キィキィと耳を劈くような金属的な鳴き声と、シリルの「魔物の群れだ! アレクシス様、下がっていてください!」という緊迫した叫び声が聞こえてきた。
窓から外を覗くと、岩陰から次々と現れたのは、体長二メートルはあろうかという巨大な蜘蛛のような魔物――『鉄錆蜘蛛』の群れだった。その名の通り、鋼鉄のような外殻を持ち、獲物を食い殺す凶暴な魔物だ。
「……数が多い! 御者台がやられた、退路を塞がれている!」
シリルの剣が蜘蛛の足を弾くが、硬い外殻に阻まれて決定打にならない。
ガシィィンッ!
馬車の天井に、巨大な蜘蛛の足が突き刺さった。
メリメリと音を立てて木製の天井が割れ、凶悪な複眼が私を見下ろす。
「いやあああっっ!?」
恐怖で身体が竦み、目をつぶった私の前で、風が爆発した。
凄まじい衝撃音とともに、天井の魔物が一瞬で吹き飛ぶ。
目を開けると、そこには、私を背中に庇うようにして立つアレクシスの背中があった。
彼の膝の上にあったはずのフライパンは、見事にひしゃげ、ひっくり返った魔物とともに地面に転がっている。……まさか、あれで殴り飛ばしたのだろうか。
「シリル! アヤノを守れ!」
「はっ!」
シリルが馬から飛び降り、割れた天井から車内へと滑り込んで私を庇う。
アレクシスは、腰に佩いていた装飾の美しい長剣を、静かに引き抜いた。
シャリィン、と冷たい金属音が響く。
その瞬間、彼の全身から、周囲の空気が物理的に歪むほどの、圧倒的なプレッシャーが放たれた。
「我が料理修行の道を阻む不届き者め。……まとめて細切れにしてくれる」
彼は馬車のドアを蹴り開け、猛然と襲いかかる魔物の群れの中へと、躊躇なく飛び込んでいった。
そこから先は、私の知る「ポンコツ居候」の姿はどこにもなかった。
アレクシスの身体が、まるで一筋の蜂蜜色の閃光のように戦場を翔ける。
一歩の踏み込みで地を割り、流れるような剣の軌跡が、鋼鉄のはずの魔物の外殻を、まるで熟しきったプラムのように容易く両断していく。私、暫くプラムは食べられない気がする……。
「――ははっ、遅いぞ!」
飛びかかる三匹の魔物を、彼は空中で身を翻しながら一閃。
その動きには一切の無駄がなく、恐ろしいほどに洗練されていた。風を切り裂く鉄錆の匂いと、彼の纏う圧倒的な「強者」のオーラ。
私は、シリルの背後から、その光景をただ呆然と見つめていた。
手元にスタイラスペンがあっても、今の彼の動きをスケッチすることなんて絶対にできない。
あの動きは人間の動体視力を超えている。
(あ……そっか。この人、本当に、国一番の剣士なんだ……)
普段、卵を割れば黄身をぶちまけ、大根を切ればまな板ごと床に落とす男。
なのに、命のやり取りをする戦場において、彼の放つ一太刀は、完璧なまでの技術で構成されていた。
最後の一匹の脳天を正確に貫き、アレクシスは静かに剣を引き抜いた。
パシャリと血を払う仕草すら、息を呑むほどに美しい。
夕日に照らされた彼の蒼い瞳が、すっと私の方を振り返る。
「アヤノ、怪我はないか?」
剣を鞘に収めながら、私のもとへと歩み寄ってくるアレクシス。
その瞬間、彼の纏っていた鋭い空気は霧散し、いつもの「しゅんとした大型犬」のような、心配そうな瞳に戻っていた。
「あ……え、ええ。大丈夫、です」
私は、自分の声が微かに震えていることに気づいた。恐怖からではない。
間近に近づいてきた彼の顔を見上げた瞬間、ドクン、と胸の奥が騒がしく跳ね上がった。
(やば。……今の、めちゃくちゃ格好よかった……ぞ……)
二次元のキャラクターに対しては何千回も抱いてきた感情。
しかし、目の前にいる、三次元の、それも実在する異世界の王子に対して、私は生まれて初めて、本気の「ときめき」というやつを自覚してしまったのだ。
「よかった。アヤノに傷一つでもつけたら、私はコウにどんなペナルティを科されるか分からんからな。本当に無事でよかった」
「……え、そこ?」
「む? 当然だろう。私の私的財産がこれ以上差し押さえられたら、次の『伝説の炒飯』の材料が買えなくなる」
ドヤ顔で言い放つアレクシス。
私の胸のときめきは、一瞬にして乾いたツッコミへと昇華された。
前言撤回。
やっぱりこの男は、ただの重度の料理オタクだ。




