15-1
「グラファイト、」
僕は檻の向こうの黒竜に小声で呼びかけた。
何故か、足が震えていた。
まだ黒竜は背を向けていた。
「……」
僕は黙って檻を開けて中に入った。
それでも反応がない。
グラファイトの規則正しい息遣いだけが聞こえる。
「寝てるのかな……」
その顔を見ようとしたその時、僕の体は固まってしまった。
「泣いてるの……?」
グラファイトはすっかり眠っていた。
でも、その眼から涙が、鱗を伝って流れていたのだ。
僕は吸い込まれるように、グラファイトの涙に触れた。
プライド、
触れた瞬間、僕の頭の中に、そのフレーズが自然と入ってきた。
グラファイトが自らの心の中を、僕に教えてくれたのかも知れない、と思えた。
―――――――
「グラファイトー!」
我が名を呼ぶ、朗らかな声。
我が振り向くと、アルドが手を振って、笑顔で駆け寄ってくる。
我は眼を逸らした。
「ねぇ、何してるの?」
アルドが我の腹に凭れ掛かった。
空気のように軽い、アルドの小さな体。
夢だと直ぐに気付いた。
「何でも良いだろう。」
有耶無耶に答えた。
実際に我は、何もしていない。
我はただ……昔の事柄を忘れようとしていた。
「寂しいな。僕の事、忘れちゃうの?」
アルドは寂しげに、此方をじっと見据えてくる。
我の胸が圧搾される感覚がして、顔を歪めてしまった。
「お前は、我を騙したのだ。」
アルドは俯いた。本当は違うのだ、分かっている。
アルドがどれだけ苦慮を強いられてきたか、檻の中で出会った時に、我は全てを悟っていた。
元気が取り柄だったアルドの疲れ切った様を見たのは、彼れが初めてだったのだ。
「グラファイトがそう言うのなら、僕は悪魔だね。だって、グラファイトのことを幸せに出来なかったから。」
周りを見回した。誰も居ない。何もない空間だった。
我とアルドの、二人のみ。
「否、我がアルドを悪魔にしてしまったのだ。アルドよ、もし我が、妙な意地を張らねば、生きて、共に、暮らせて、いたのだろう……?」
目の前に、靄がかかった。声がまっすぐ出なかった。
我は恐ろしくなったのだ、我の大事な物を、自分の手で壊してしまったのだという事実に。
「グラファイトは、僕のこと、許せなかったんでしょ?」
アルドは静かに尋ねた。
内蔵が口から出てきそうな気分だった。
「許せぬ、許せぬのだ。だが、我は、アルドのことが……。」
アルドを優しく抱き上げようとすると、アルドはぴょんと我の腹から立ち上がり、遠くへ歩き始めた。
「それ以上無理して言わなくて良いよ。それに、」
我は立ち上がった。アルドが遠くへ、離れていく。
こちらを向いて、笑顔で。
「待て、我はまだ……。」
アルド、待ってくれ、アルド、
「グラファイトには、ちゃんと理解してくれる、新しいバディが居るじゃないか。」
我はその言葉を聞いて、躯が動かなくなった。
あいつは、と反駁しようとしたが、出来ぬ。
我がアルドの元へ行くのは、まだ早い、そのような気がするのだ。
だが、それでも、我はアルドの事が、
「アルド……アルド……」
行くな、行かせぬ、
―――――
「アル!……ド……」
グラファイトは、確かにアルドと言った。
アルドの夢を見ていたのだろうか。
「グラファイト……」
グラファイトはただ、口を開けたまま固まっていた。
僕もどうしても動けなかった。
僕の顔を冷たい水が伝っているのは、拭わなくても分かる。
グラファイトは前脚で涙を拭った。
「見るな、見るな、帰れ……」
グラファイトは吼えた。低く、深く、そして、哀しげに。
グラファイトも、苦しんでいるんだ。
「……ヒィグッ……」
僕はとうとう、我慢していた嗚咽を漏らした。
それがきっかけで、グラファイトの顔にすがりついた。
ごつごつして少し痛かった。
「グラファイトのこと、放っておけるわけが無いよ。邪竜なんて言ってしまって、僕って本当に情けないよ。」
「我に構うな、」
グラファイトは奥歯をぐっと噛みしめた、ように見えた。
「我はアルドを殺してしまったのだ。許せなかったのだ。我の事を滅茶苦茶にした、憎い奴め、……」
グラファイトの悲痛な声は、僕の胸の底を深く、深く抉り取った。
グラファイトはアルドの事を許したくても、ドラゴンとしてのプライドが許さなかったんだ。
自分の人生、いや、竜生を狂わされたのだと。
「アルドの代わりにはならないかもしれないけど、僕はずっと傍に居たい。だって、」
僕は言葉を止めて、グラファイトの頬を撫でた。
一呼吸置きたかったからだ。
「僕は、グラファイトのことが、好きなんだ。パートナーとして。アルドが出来なかった分まで、一生傍に居たいんだ。」
とても硬くゴツゴツした、それでいて一つ一つが滑らかな漆黒の鱗。
大粒の涙が、鱗の上を流れ落ちた。
やっと、僕の本当の気持ちが見えた気がした。
これは、嘘じゃない。
心の底からの真の告白、僕は胸を張れる。
それに、グラファイトの気持ちにも、少しばかり触れることが出来た気がしたのだ。
グラファイトは何も言わず、僕の背中に前脚を添えてきた。
僕も、グラファイトの顔を撫で回した。
僕が出来るのは、こんな事でしかない。
何度も何度も、嗚咽を漏らしながら、心の向くままに撫で回した。




