11-1
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……
我の腹に重みが伝わった。
我は直ぐ振り返った。奴は厚顔無恥で図々しくも、我の腹に凭れ掛かったのだ。
非常に不愉快だ。
……。
「離れろ。」
反応がない。
我は奴の顔を覗き込んだ。その顔は、どこか苦しそうであった。
何らかの病にかかったのかも知れぬ。ならば、誰かに知らせねば。
しかし。
我は唾液を飲み込んだ。
奴の存在が消滅すれば――奴を喰らうのならば――自由の身になれるのではないのか。苦悩する事柄が無くなるのではないのか。
総ての根源は、奴なのだ。
邪竜として幾度も人間を喰らってきた我ならば、軟弱者を喰うなど、容易き事ではないか。
ジュルリ……
我は舌を嘗めずった。
だが、そこから、微動だに出来ぬのだ。
何故だ、何故此の躯は動かぬのだ。
我を縛る物が無くなるというのに……
我は既に気付いていた。奴は、嘘など吐いていない。アルドとは違うのだと。
奴が此処に現れた時から、確信していた。
だが、それを認めるならば、我が矜持を切り崩せねばならぬ。
――――高が人間の為に自己犠牲を払うなど、愚かにも程がある。
愚かな筈だ、だが、我は其れを為そうとしておる。
一体我は、どうしてしまったのだ。
「グラファイト、どうした。」
檻の向こうから、ブレイズが話し掛けてきた。我はさっと奴を前脚で隠した。
「何でも無い。」
「ラグルはどこに行った。どこにも居ないんだが……」
「な……、何も知らぬ。」
我は思わず体勢を変えようと前脚を上げてしまった。ブレイズはすぐに感付いた。
「貴方、ラグルに何をした。」
「……勝手に倒れたから、処理に困っていただけだ。」
ブレイズは素早く人間を呼びに行った。
それから、我はずっと背を向けていた。
数人の人間が、奴を運んでいった。何も考えぬようにした。
ブレイズも共に去ることを望んだが、希望通りにはならぬらしい。
「ラグルがどれだけ貴方の事を心配しているか、知ってるのか。」
ブレイズは静かに口を開いた。
「我への心配など、必要ない。」
「貴方は、自分を責め過ぎだ。」
我はびくりとした。ブレイズは更に捲し立てる。
「どうしてそんな卑屈になったんだい。昔の貴方だったら、そんなこと言わなかっただろうな。」
「昔の我が愚か者なのだ。昔の我に戻りたくなど無い。何故我は、戻らねばならぬのだ。」
「今は楽しいのか。私にはそう見えない。」
「帰れ。……帰れ!」
我は思わず吼えた。
それからすぐ、虚しく、そして息苦しくなった。
胸を剣で貫かれた、安直だが、そんな心地がした。
それから、何故かひどく落ち込んだ。
「貴方はラグルのことを、どう思ってるのかい。」
「何故そんな質問をする。お前が首を突っ込むような事では無い筈だ。」
「ラグルは……何だかアルドと似ている気がしてな。」
「その名を出すな。」
内心では、はっとしていた。
「ラグルなら、貴方を何とか出来ると思っている。ラグルにしかできない、貴方だって、一度は信用したのだろう。」
我は何も言葉を返せなかった。返したかったが、息苦しくなった。
我の矜持は、弱音を吐くことを禁じているのだ。
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2度目のベッドの上だった。腕には点滴の針が刺さっている。
何だか視界がぼやけているような、覚束ないような。
それから暫くすると医者が来て、聴診器を僕の胸に当てた。
何か話しかけるまでもなく「もう大丈夫です。まだ安静にしておいて下さい。」と言って去っていってしまった。
後で何の病気だったか、やって来たギルベルトに聞いてみると「ただの過労だ」と、大儀そうに言った。大丈夫そうだな、と呟いたギルベルトは、僕が呼び止めるまでもなく既に踵を返していた。
何だか虚しく思えた。僕の居場所は、ここにはあるのか……。
「大丈夫かね。」
はっと声のした方を見ると、ノルデン隊長が立っていた。
「あ、はい、……過労で倒れるなんて、情けないです。」
「気にしなくて良い。仕方のないことだからね。」
ノルデン隊長はベッドのそばの椅子に腰かけた。
「一つ、ラスヴァル国軍の兵士として、覚えておかないことがあってね。」
「……何でしょうか?」
「私どもは、例えば戦争で遠征したときに、『カーバイト符号』という符号を使う。それは、短い光と長い光を組み合わせて、文字を表すものでね、それを使って遠くの者との通信を行う仕組みになっている。全文字数は28だから、28種類の符号を覚えるだけで十分だ。それに、今すぐに必要な訳じゃないから、暇があるときに覚えておいてね。」
「あ、はい、分かりました。」
ノルデン隊長は懐から紙を取り出した。
受け取って見てみると、点と線で記されていた。
「何度も見ていれば覚えられる。他にも知っておいて欲しいことがあるが、まだ急がない。追々話していくことにしよう。」
「はい。覚えておきます。」
「では、私はこれで。お大事に。」
ノルデン隊長は立ち上がり、そのまま部屋を後にした。
隊長が去ってから、少しぐらいは覚えようと、軽くその紙に、目を通しておいた。
目を通しただけである。




