王都からの逃亡。
転がり出た場所は倉庫の中だ。
川に飛び込んだせいでお団子にしていた髪が解け、髪や服から垂れた滴が床を濡らす。
気分が悪そうに呻いていた殿下が、私を見た途端に「うわあああっ!」と悲鳴を上げた。
「なんだ、いつものお前じゃねーか……ビビらせんじゃねぇ!」
「はぁ……なんとか逃げ出せましたね」
ワカメのように顔に張り付いている長い髪をかき分けて、倉庫の中を見回す。
木の台に置かれていたランプを見つけて火を点けると、ぼんやりと明るくなった。
「とにかく、手枷を何とかしないと……」
この倉庫は、私が殿下と初めて会った場所だ。
上の階に上がってみたけれど、人の気配はない。
枷を外せるものを探している私を、殿下は木の椅子に座ったまま目で追っていた。
「魔導具だから無駄だ……簡単に壊せねーよ」
「あっ、これなんかどうです!?」
私は棚の中にしまわれていた斧を取り出して、振り返る。
「お前……俺の腕ごと斬り落とすつもりかよ」
殿下の頬がピクピクと震える。
手枷で拘束されていなかったら、ゲンコかチョップが頭の上に落ちてきていただろう。
せっかく、使えそうなものが見つかったのに……。
斧は前いたホラーゲームの世界でも愛用の武器だったから、ちょっと扱いには慣れている。
とは言え、殿下の手を傷付けないように手枷を壊すのは難しそうだわ。
やっぱり、やめておこう……。
私は斧をそっと元の棚の中に戻しておいた。
「でも……このままじゃ、不便じゃないです?」
「だから、俺の事は放っとけって言ったんだ」
私は椅子の後ろに回り、殿下の手首につけられている重い手枷を確かめようとした。
鍵穴なんて見つからない。
魔法で解除するしかないみたいだ。
「お前には無理だ。こんなの外せるのはルシアンくらいだろ」
「ノース先輩? それなら、すぐに連れて……」
「無駄だ。あいつは俺らに協力なんかしねーよ」
「そんな事は……」
時計塔でのルシアンさんの会話を思い出して、私は言いかけた言葉を飲み込んだ。
その時、殿下が手の平を隠すように拳を作っている事に気付いてハッとする。
手を伸ばそうとすると、「触るな!」と強い口調で止められた。
私はその声を無視して手をつかむ。
「……っ!」
痛みを堪えるように、殿下が硬く目を瞑った。
手の平を無理に開かせると、真っ赤になって火傷の跡ができている。
「これ……どうしたんです? もしかして、あのエヴァリー騎士団長に!」
「違う。何でもねーよ……」
苛立った声で言われて、「何でもなくないです!」とつい声を大きくした。
ずっと、この状態で我慢していたのだろうか。
痛くないはずがない。手の平が焼けただれている。
治療した痕跡もないから、塔に入れられた後は放置されていたのだろう。
「な、なんで、こんな事……黙ってたんです!?」
「言ってもどうしようもないだろ……お前に治癒魔法が使えんのか?」
溜息まじりに言われて、私は口を噤んだ。
そんなもの、使えないわ……。
私が使えるのは、役立たずの闇魔法くらいだ。
ジュード殿下は私を一瞥して、面倒くさそうに溜息を吐く。
「……あいつに自白薬を飲まされたんだよ」
「もしかして……それで、自分でやったんです?」
私は驚いてジュード殿下の顔を見た。
殿下は火魔法が使える。
拷問されたのでなければ、他に考えられない。
手の平を焼く痛みで、薬に耐えていたのだろうか。
それもきっと、私やルシアンさんの事を話さないためだ。
話せば、私たちまで捕まってしまうから。
殿下の両手を包むように触れた手が震えて、ポタッと顎から滴が垂れる。
その滴が手の上に溢れた。
「殿下は……バカなんですか!」
私は思わず項垂れて言った。
きっと、ものすごく熱くて、痛かったはずなのに
自分一人で耐えて……。
あんまりだ。
「お前にバカとか言われたくねーよ。だいたい、この程度の火傷ならそのうち治るだろ。大した事ねーのに、ビスビス泣くなよ。面倒くせーな」
「な、泣いてません! これは、か……川の水が垂れてくるだけですよ!」
私は頬を袖で拭って言い張った。
「あーそうかよ。勘違いして悪かったな」
嫌みたっぷりに言って、殿下はフイッと顔を背けた。
怒っているのか、唇がへの字になっている。
私はジュード殿下の手をもう一度確かめようとした。
でも、殿下は見せたくないのか、拳の中に隠してしまう。
「……冷やさないと……み、水を持ってきますから!」
部屋を出て行こうとした時、ドアが開いた。
殿下が反射的に振り返り、一瞬身構える。
すぐに警戒を解いたのは、現れたのが知っている相手だったからだ。
「ノース先輩!」
マントを羽織って入ってきたルシアンさんを見て、私は思わず安堵する。
やっぱり、ルシアンさんはジュード殿下が心配だったんだわ。
冷たい事を言っても、それは本心じゃなかったのだろう。
ルシアンさんは私と殿下に視線を移し、フードを脱いで息を吐く。
「本当に連れ出すとは……」
「何の用だよ?」
ジュード殿下はルシアンさんの顔を見ず、捻くれた態度で訊く。
ルシアンさんは殿下に歩み寄り、椅子の側に膝をついた。
手枷に手をかざすと、金色の魔法陣が浮かび上がる。
「ノース先輩、外せるんです?」
「ええ、この程度なら問題ありません」
魔法陣が一瞬で変化し、外れた手枷が重たい音を立てて落ちた。
す、すごいわ! ルシアンさん、万能!
ジュード殿下がようやく自由になった手を痛そうに振る。
「こいつは解析魔法の特性を持ってるからな……」
解析魔法! よく分からないけど、賢そうだわ。
「手を見せてください」
ルシアンさんに言われて、殿下は顔を顰める。
手の平の火傷にもすぐに気付いたのだろう。
上着のポケットから、魔法薬と軟膏の瓶を取り出して床に並べる。
殿下も意地を張るのは諦めたのか、渋々のように両手を出していた。
ルシアンさんの火傷を手早く治療すると、殿下の両手に包帯を巻く。
ものすごく痛かったのか、ジュード殿下は治療の間、しかめっ面なっていた。
「………大人しくしていてくださいと言ったでしょう」
「お前に迷惑かけてねーだろ。呼んでもいないのに、来たのはお前だ」
「手枷には追跡魔法がかけられています。騎士団がすぐに来ますよ」
「だったら、お前はそいつを連れて……」
「い、嫌ですよ!」
両膝をついた姿勢のまま、私はジュード殿下の言葉を遮る。
「だって、私は……殿下の下僕なんですから!」
「……じゃあ、下僕は今日限り解任だ。ルシアンと行け」
殿下は素っ気なく言って、追い払うように手を振る。
「勝手に決めないでください! 殿下は一人でどうするんです!」
「お前がいてもあんまり役に立たないだろ。むしろ、足手まとい」
「そうかもしれませんけど……私がいれば、逃亡するのに便利です!」
私は胸を叩いて言い張った。
殿下が嫌そうに渋面を作る。
「……お前な。分かってんのか。俺と一緒に来るって事は、もう二度と学園には戻れないかもしれねーんだぞ。親だって……」
「お、親はいませんよ。それに勉強はあんまり好きじゃないので、学園に行けなくても平気です。むしろ行きたくないです!」
それに、叔父様も叔母様も、私がいなくなったところであまり心配しないだろう。
邸にいる方が迷惑をかけてしまいそうだわ。
「いや、行けよ。それ以上、バカになってどうすんだ?」
「殿下が勉強を教えてくれればいいんですよ!」
「嫌に決まってんだろ。お前……一応、貴族の令嬢だろ? 一生お尋ね者になるかもしれなんだぞ」
「いいですよ……別に。色んなところに行けるから、いいじゃないですか」
愛の逃避行なんて言ったら、絶対に今度こそゲンコツだ。
それは黙っていよう……。
ジュード殿下は頭を抱えて、深く溜息を吐く。
「状況、全然分かってねーだろ」
「だって……私が一緒にいないと、ジュード殿下は一人ぼっちで逃げる事になるじゃないですか……」
私は俯いて、小さな声で答えた。
ゲームの世界でも、ジュード殿下は濡れ衣を着せられて、処刑されそうになって、それで自暴自棄になって闇落ちしてしまったのかもしれない。
このままでは、世界破滅ルートまっしぐらだ。
私ももしかしたら、同じ道を歩んでいるのかもしれないけど。
それでも、一人より二人でいれば、間違えずにすむかもしれない。
もし、私にも一緒にいる誰かがいてくれたなら、前の世界で亡霊になってしまう事はなかったかもしれない。
もちろん、そう組まれたプログラムで、何一つ本当の事ではないとしても。
私にとっては、前の世界も、この世界も、リアルなのだ。
孤独は人を救いのない暗闇へと突き落とす。
ジュード殿下も、このままだとそうなるかもしれない。
それは嫌だ。
私が、嫌だ。
私は涙ぐみそうになり、目頭を両手で強くこする。
「私も行くんです。で、殿下はけっこう怖がりですからね……誰かが、一緒にいないと」
潤んだ声を誤魔化そうと、冗談めかすように言った。
頭をギュッと押さえられて、「わっ」と焦った声を漏らす。
「誰が怖がりだよ……」
殿下の声がちょっと笑っているように聞こえた。
それにゲンコツではなく、クシャッと髪を撫でるような優しい手つきだ。
そのせいか、心臓がギュッとなる。
「荷物は倉庫に置いています。王都からはすぐに離れてください」
「ノース先輩は……一緒に来ないんです?」
私は立ち上がったルシアンさんに、不安まじりの目を向ける。
「私は私のやるべき事があるんですよ。逃亡生活はお二人でどうぞ。分かったら、早く行ってください。ここは燃やします」
ジュード殿下は意を決したように立ち上がると、「行くぞ」と私の手を取る。
部屋を出る時振り返ると、瓶を逆さにして油を撒き散らしているルシアンさんの姿が見えた。
本当に、ここを燃やすつもりなのだろう。
私たちが逃げた後、ルシアンさんが捕まってしまったら?
そんな不安に襲われて、足が止まりそうになる。
「あいつなら、心配ねーよ」
「で、でも……」
「今は無事に逃げる事を考えろ」
階段を下りて倉庫に戻ると、荷物袋が置かれていた。
私達が鏡を使って逃げる事を見越しての事だろう。
本当に優秀で、頼りになる人だ。
ジュード殿下が荷物袋をつかむ。
「殿下。これから、どこに行けばいいんです?」
「とりあえず、王都の外だ。行けるよな?」
「は、はい。それじゃあ、出発します!」
私はジュード殿下にくっついて、せーので鏡の中に飛び込んだ。
◇◇◇
二人の足音が消えるのを待って、ルシアンは暖炉の薪に火を点ける。
それを、床に撒いた油の上に落とすと一瞬で炎が広がる。
煙が充満する部屋の中を見回してから、部屋を出てドアを閉めた。
『ルシアン……いつまでも聞き分けのない子供ではないのだ。くだらぬ反抗心など捨てろ。お前がそのために、あの殿下を利用していたのは知っている。だが、いい加減にお遊びの時間は終わりだ。お前も公爵家の子息として、果たすべき役割を果たせ。これ以上、家の恥になる行動は許さぬ』
父親の声を思い出して、冷笑を浮かべる。
くだらぬ反抗心……。
確かにその通りだ。
父は他の貴族と同様に、ユーイン殿下を王太子にと望んでいる。
父だけではなく、二人の兄も王家に忠実だ。
公爵家の子息として恥じない行いを。
そう言われて厳しく育てられてきた。
優秀である事は当たり前で、そうでなければ無価値と切り捨てられる。
母が亡くなってからは、父はますます規律を重んじる偏屈な人間になっていった。
貴族として誇り高くあれ。王家に忠実であれ。
そんな古くさく厳格な家風に嫌気が差していたのも事実だ。
父に反発したかった気持ちもあっただろう。
兄や父がユーイン殿下を推すなら、自分くらいはジュード殿下に味方しても別にいいのではないか。
その程度の捻くれた感情から、ジュード殿下と共にいた。
煙が廊下に流れ出し、ドアが火に包まれる。
階段を下りていくと、外の方で馬の嘶きと人の声が聞こえた。
騎士団が思いのほか早く到着したらしい。
地下に通じる扉を開いて階段を駆け下り、狭い通路を抜ける。
さらに階段を上がると、隣の酒場の酒蔵に出た。
店内では客が酒を飲みながら盛り上がっている。
フードを深く被って、混み合っている店の中を通り抜けた。
路地裏に通じるドアを開くと、表の通りが騒がしい。
騎士と兵士が集まり、扉を叩き壊そうとしているのだろう。
今頃、やってきても蛻の殻だ。間抜けだなと、冷笑が漏れる。
路地裏を抜けたところで、黒いマントを羽織った男が待っていた。
自警団の団長である、フランツ=バウワーだ。
「……あの方はご無事ですか?」
「今頃、王都の外ですよ。それより、信頼できる者を数名集めてください。連絡を取れる場所も必要です」
「石の捜索は続けるので?」
「我々は〝果たすべき役割を果たす〟だけですよ」
「承知いたしました。手配します……くれぐれも、お気を付けて」
「……ええ。ご心配なく」
人気のない路地の端に馬車が止まっている。
それに乗り込んでドアを閉めると、馬車は夜の街を静かに走り出した。




