第6話 恐怖とは対峙するものじゃない。我が物にするものだ
──遠くで、誰かが呼んでいる。
走馬灯のように巡っていた記憶は、やがて黒い靄となって渦を巻き、ゆっくりと溶けるように消えていく。
その靄がふっと途切れた瞬間、現実の音が一気に押し寄せた。
「あんちゃん!しっかりしろ!」
荒々しい声が耳に響く。
ぼやけた視界の向こうで、自分よりも若い荒武者が、必死な形相でこちらへ呼び掛けていた。
「息はしてるべ!だげんども、かなり危ねぇ状況だべ!」
もう一人の声が聞こえる。
樹玄へ懸命に呼び掛けているのは、忍装束を纏った人物だった。
くノ一の少女?いや、顔立ちや声には幼さが残るものの、その声は少年にも聞こえる。
耳に届く大和語には地方特有の訛りが混じり、その響きはどこか素朴で温かかった。
「タケもキヨも、持ってる薬丸を早く!急ぐと喉に詰まらせるから、少し砕いて、ゆっくり飲ませて!」
黒と赤の陰陽装束を纏った少女が、懸命に指示を飛ばしている。
その背後では、プードル顔の犬人の巫女が茫然と立ち尽くし、今にも泣き出しそうな表情でこちらを見つめていた。
……無理もない。
自分でも、血まみれの酷い有様なのは分かっている。
年端もいかない少女からすれば、この光景はあまりにも衝撃的だっただろう。
怯えてしまうのも、当然だった。
現実へと意識が引き戻される。
レオの瞼がかすかに震えた。
荒武者――武三郎は、その様子に気付くと、レオの顔を覗き込み、砕いた薬丸を口へ入れ、竹筒の水を少しずつ含ませる。
「あんちゃん、ゆっくり飲めよ。喉に詰まらせるんじゃねえぞ!」
一方、くノ一と勘違いされた清志郎も、樹玄の口へ薬丸と水を慎重に含ませながら、絶えず呼び掛け続けていた。
向日葵は静かに印を結ぶ。
淡い霊光が両手から溢れ、呪術による治療術式がレオと樹玄を優しく包み込む。
焼け爛れた傷口は完全には癒えないものの、裂けた皮膚がゆっくりと塞がり始めていく。
「傷が少しずつ塞がってる……よかった!まだ、2人とも助かる望みはあるよ!」
向日葵は安堵の息を漏らした。
レオは砕いた薬丸をどうにか飲み込むと、苦しげだった表情がわずかに和らいでいく。
(……誰だ? 随分と若い冒険者たちみたいだが、見覚えのない顔ばかりだ)
目の前にいるのは、10代と思しき4人の若い冒険者たちだった。
明らかに年端もいかない者ばかりのようだ。
今、この場にいるということは、朱音が門番代わりに放った数十匹の地鬼たちは、彼らが討ち倒したと見るべきだろう。
だとすれば、彼らは中級以上の冒険者。
その若さで、これほどの実力を備えているとは──。
(……数馬……俺はまだ……終われないみたいだ……)
その想いだけが、意識の底でかろうじて彼を現実へと繋ぎ止めていた。
「ふう……私の呪術では、重傷の2人を完治させることはできない……あんず、お願い。神術で2人の傷を治してあげて」
向日葵は額の汗を拭いながら、あんずへ視線を向ける。
陰陽術は回復術式を得意とする術体系ではない。
傷を癒やせるとはいえ、浅い裂傷を塞ぎ、消耗した体力をわずかに回復させるのが限界だ。
向日葵をはるかに上回る霊力を持つ陰陽師であれば、より重い傷にも対処できるかもしれない。だが、それでも神術士や僧侶、治療士といった治癒を専門とする者たちには及ばない。
だからこそ、この場で頼れるのは、回復神術を得意とするあんずだけだった。
とはいえ、目の前で瀕死の状態で横たわるレオと樹玄の姿を目にした瞬間、自分でも抑えきれないほどの動揺が胸を駆け巡り、呼吸が浅く激しくなる。
つい先ほどには、彼らの仲間と思われる侍の亡骸も目にしていた。
怖がりなあんずにとって、この光景はあまりにも過酷なのだが、瀕死の重傷を負った冒険者を、このまま見捨てることなどできない。
「モフ子!ビビってる場合じゃねぇ!早く2人に回復術式をかけてやってくれ!」
「怖ぇのはわがる!だげんども、おめぇの回復術式が必要なんだべさ!」
急を要する状況に、武三郎も清志郎も思わず声を張り上げる。
だが、その声は、あんずの耳には届いていなかった。
──いや、正確には聞こえている。
けれど、水の中から誰かの声を聞いているように、遠く、現実感のない響きとなっていた。
あんずの頭の中では、恐怖と混乱が渦を巻いていた。
(分かってる……分かってるんだ……!)
今すぐ、この2人に回復術式を施さなければならない。
そんなことは、巫女である自分が一番よく分かっている。
だけど、身体は恐怖で硬直し、息を吸っても吐いても苦しい。
視界は明滅し、全身から血の気が引いていくような感覚に襲われる。
(巫女……?冒険者……?回復術式……?海竜さん……?村のみんなの笑顔……?)
(そんなこと……どうでもいい……!)
(お願いだから……ここから逃げたい……!)
(浅草へ帰りたい……!みんなと、いつもの日常に帰りたい……!)
震える足を必死に動かし、出口へ向かおうとした、その時だった。
向日葵が、あんずの手をそっと両手で包み込む。
「……向日葵ちゃん?」
虚を突かれたような表情で、あんずは目の前の向日葵を見つめる。
「らしくないじゃない、あんず。いつものあんたなら、ビビっても……それでも、すぐに治療するのに」
「……ごめん、向日葵ちゃん。アタシ……耐えられなくて……何もかも投げ出して、今すぐ逃げたい……」
その言葉を口にした瞬間、あんずはハッとした。
自分の両手を包み込んでいる向日葵の手。
その手が、小刻みに震えていることに気付いたのだ。
「向日葵ちゃん……?」
あんずは恐る恐る尋ねる。
「もしかして……怖いの?」
上目遣いで見つめるあんずに、向日葵は柔らかく微笑んだ。
「怖いに決まってるじゃない……」
そう言って、向日葵は小さく息を吐く。
「めちゃくちゃ怖いよ。こう見えて、腰が抜けそうなくらい震えてるし……本当なら今すぐ外に出たいくらい」
向日葵の声は穏やかだった。
けれど、その手の震えだけは隠しきれていなかった。
向日葵は、あんずの背中を優しくさする。
背中から伝わる幼馴染の温かな手のぬくもりが、不思議と心を落ち着かせてくれる。
固く強張っていた身体から、少しずつ力が抜けていく。呼吸も、ようやく楽になってきた。
「アタシ……本当にダメな子だなあ。巫女なのに、いつも怖がってばかりで……向日葵ちゃんとは大違い」
幼馴染の向日葵とは対照的に、自分はなんて情けないのだろう。そんな思いに沈むあんずへ、向日葵は静かに首を横に振った。
「怖くていいの。それが当たり前でしょう?」
「……え?」
「あんずはダメな子なんかじゃないよ。ただ、人より少しだけ優しいだけ」
向日葵は柔らかく微笑む。
「私は……そんなあんずだからこそ、大好きなんだよ」
「向日葵ちゃん……」
胸の奥に張りつめていたものが、少しだけほどけていく。
「おいらやキヨさんみたいな前衛なんて、毎回が恐怖との戦戦いよ」
武三郎は腕を組みながら、少し照れくさそうに続ける。
「刀を握っててもよ……『あっ、これ死ぬかもしれねぇ』って思うことなんて何度もある。怖くて一歩も踏み出せねぇ時だってあった」
いつもの軽口とは違う、真剣な声だった。
「誰でも怖えもんなんだからよ……自分のことをダメな子なんて言うんじゃねえよ」
武三郎は、あんずを真っ直ぐ見つめる。
「怖いって思えるのは、それだけ大事なもんがあるってことだろ」
武三郎はぶっきらぼうな口調だが、照れ隠し見え見えの態度で、あんずを元気付ける。
「んだな。忍は人としての感情を殺して、非情にならねぇと務まらねぇなんて言われることもある」
清志郎は苦笑を浮かべる。
「一理あるのかもしれねぇけども……そったらの、無理に決まってるべ。怖ぇものは怖ぇし、足がすくむことだって一度や二度じゃねぇ」
そう言って、清志郎はあんずへ親指を立て、優しく笑った。
「モフ子は怖がりだけど……間違っちゃいねぇべさ」
「……君は、あんずちゃん……で良かったかな?」
薬丸を何度か服用し、ようやく言葉を発せるまで回復したレオが、仰向けのまま、あんずへ顔を向ける。
まだ苦しそうな息遣いだったが、その声には確かな力があった。
「俺が戦士として冒険に出たのは、16歳の時だった……」
レオは自嘲するように、小さく笑う。
「身体が大きいだけで、立派な装備を身につけていただけの……ただのお飾り戦士さ」
レオは、遠い過去を見るように目を細める。
「初めて戦った相手は、地鬼だった。無我夢中で剣を振り回して……なんとか1匹を倒した」
だが、とレオは続ける。
「その直後、恐怖で身体の震えが止まらなくなったんだ。剣を握ったまま、その場に立ち尽くしたんだ……」
レオは苦笑する。
「戦士としては、情けない話だろう?」
レオは、遠くを見つめるような眼差しで、巫女の少女へ語り続ける。
「幸い、君のように理解ある仲間に恵まれてね。そんな俺を『仕方ないさ』と励ましてくれた」
だが、とレオは静かに続ける。
「それでも、自分自身……恐怖したことが許せなかった」
「ましてや俺は前衛の戦士だ。仲間を守るべき存在が、恐怖で動けなくなるなんて……」
レオの言葉を、あんずは静かに受け止めていた。
向日葵も耳を傾けながら、彼女の背中をそっと撫で続ける。
その仕草は、幼い頃から何も変わらない。
あんずを落ち着かせる、向日葵だけが知る“魔法”のようなものだった。
震えていた身体から、少しずつ力が抜けていく。
「そんな俺を見かねたのか……顔馴染みで、名の知れた一等級冒険者の戦士が、ある言葉をくれたんだ」
レオは一度、ゆっくりと息を吐く。
「恐怖とは対峙するものじゃない。我が物にするものだ、と。飲まれるのではなく、飲み飲んで前に出ることだ……とね」
その言葉に、武三郎と清志郎は感銘を受けたように、深く頷いた。
「その言葉で、俺は吹っ切れたんだ」
レオは静かに続ける。
「恐怖する自分を受け入れると、不思議なことに身体が動くようになった。そして、危険な戦場や冒険……いくつもの死線に身を置けるまでになったんだ」
そこでレオは、自嘲するように小さく笑う。
「……まあ、偉そうなことを言っている俺自身が、今はこんな有様だけどね」
あんずへ向けるレオの笑顔には、柄にもなく説教じみたことを語ってしまったという、少し照れくさそうな色が浮かんでいた。
「……あんずちゃん」
レオは優しく呼びかける。
「恐怖は“恥”じゃない。むしろ、持っていなくちゃいけないものなんだ」
「最初は、ほんの少しでいい」
レオは、あんずを真っ直ぐ見つめた。
「君の巫女としての勇気を……慈悲深さを、俺と森人の僧侶に分けてくれるとありがたい」
その笑顔は強くて、そして優しい。
「……出来るかい?」
重傷を負い、今もなお危険な状態にあるにもかかわらず。怯えて動けなくなっていた自分へ、優しく語りかけてくれる異国の戦士。
その言葉は、あんずの心へゆっくりと、温かな光のように染み込んでいった。
先ほどまで全身を襲っていた震えも、嘘のように消えていく。
怖さは、まだ残っている。
それでも……。
あんずは、もう逃げたいとは思わなかった。
レオの言葉が、あんずの胸の奥に小さな火を灯した。
その小さな肩が、ふわりと上下する。
乱れていた呼吸が、少しずつ整っていく。
向日葵の手の温もり。
武三郎と清志郎の優しい眼差し。
そして、自分を信じてくれる仲間たちの存在が、震えていた心をゆっくりと支えてくれる。
あんずは一度だけ深く息を吸うと、しっかりとした足取りでレオへ歩み寄った。
彼の前に屈み込み、胸元へそっと手をかざす。
小さな拳を軽く握り、縦に向けたその手に、静かに祈りを込める。
「──和慈天姫命。和癒の雫、輝きて、傷癒し給え。心安らけく、和ぎ給え」
その瞬間、周囲の空気がふわりと和らいだ。
張り詰めていた玄室の中に、春の日差しのような穏やかな気配が満ちていく。
「──天姫・月雫」
あんずの拳の周囲に、淡い蒼い光が広がる。
それは花弁のようにゆっくりと舞い、まるで天姫の息吹が触れたかのように、優しくレオの身体を包み込んでいく。
やがて、拳の下に一滴の雫が生まれた。
水晶のように澄んだ蒼い雫。
その内部では淡い光の粒子と三日月のような輝きが揺らめき、小さな星々が閉じ込められているようだった。
ぽたり──。
その一滴が、レオの胸元へ落ちた。
雫がレオの胸へ落ちた瞬間――。
彼の全身が、まるで“月光の世界”へ包み込まれたかのように、淡い蒼白の光に覆われた。
レオは、かつて感じたことのないほどの安らぎを覚えていた。
巫女の少女が紡ぎ出した光の雫。
皮膚の下へ。
筋肉の奥へ。
さらに臓腑へ。
血の流れへ、そして骨の髄へ。
まるで見えざる優しい指先が、身体の内側に触れているかのように、温かな力が全身へ染み渡っていく。
苦痛に支配されていた身体から、少しずつ痛みが抜けていく。
やがて蒼い光が静かに消え去った時――。
レオの焼け爛れた火傷も、裂けた傷口も、まるで“最初から存在していなかった”かのように跡形もなく消えていた。
「森人の僧侶さんにも、すぐに!」
あんずは息を整える間もなく立ち上がると、樹玄の元へ駆け寄る。
そして、先ほどと同じように両手をかざした。
「──天姫・月雫」
再び淡い蒼光が広がる。
樹玄の身体を包み込んだ光は、焼け爛れた傷を優しく癒やしていく。
重度の火傷は消え、裂けた皮膚は塞がり、青白かった顔にも少しずつ生気が戻っていく。
やがて、その呼吸も安定し始めた。
しかし――。
術式の余韻が静かに途切れた瞬間。
あんずの小さな身体から、ふっと力が抜けた。
「っ……!」
まるで糸の切れた人形のように、その場へ膝から崩れ落ちる。
向日葵が手を伸ばすより早く、レオはゆっくりと身を起こすと、倒れかけたあんずの身体をしっかりと受け止めた。
「大丈夫かい、あんずちゃん……!」
先ほどまで焼け爛れ、命の危機に瀕していたとは思えないほど、その腕には確かな力が戻っていた。
あんずはその胸に身体を預け、震える呼吸を必死に整えようとする。
「……ご、ごめんなさい。ずっと緊張しすぎて……」
そんなあんずに、レオは静かに首を横へ振った。
「謝る必要なんてないさ」
優しく微笑む。
「君は……あれほど恐怖に震えながら、それでも立ち向かってくれた。あの術式を最後まで紡いだことを、誇りに思っていいんだ」
あんずの瞳が揺れる。
レオの言葉を、一つひとつ胸へ刻むように聞き入っていた。
レオはあんずの肩へそっと手を添える。
「恐怖を感じない者が勇敢なんじゃない。恐怖を抱えたまま、それでも誰かのために踏み出せる者こそ……本当の勇気を持つ者だ」
穏やかな声が、静かな玄室に響く。
「君は立派な巫女だ。そして……1人の冒険者として、胸を張っていい」
あんずは胸元で祓串を強く握りしめる。
込み上げてくる感情を抑えきれず、瞳に涙が浮かんだ。
「アタシ……あなたに……大切なことを教えてもらいました……」
「大切なこと?」
レオが優しく問い返す。
あんずは少しだけ俯き、胸の奥に残った温かな感覚を確かめるように言葉を紡いだ。
「……怖いことは、ダメなことじゃないって……。怖くても……それを受け入れて、それでも前に進むことこそが“勇気”なんだって……」
レオは静かに頷いた。
「その通りだよ」
そして、あんずの頭へそっと手を伸ばし、優しく撫でる。
「今まさに、それを君自身が証明してくれたんだ」
その言葉に、あんずは小さく息を呑む。
自分でも気付かなかった一歩を、確かに踏み出せたのだと。
その時だった。
横たわっていた樹玄の指が、わずかに動く。
「……む」
ゆっくりと瞼が開き、意識が戻っていく。
「……痛みも……傷も引いている……」
向日葵がすぐに駆け寄った。
「僧侶さん!気がついたんですね!」
向日葵に支えられながら、樹玄はゆっくりと上体を起こす。
そして自身の胸元へ手を当てた。
そこには、先ほどまで身体を焼いていた激痛も、重く圧し掛かっていた傷の感覚もない。
それどころか、黒炎によって刻まれた穢れの残滓すら、跡形もなく消えていた。
「……これは、巫女殿の術式か……」
朦朧とした意識の中でも、確かに感じていた。
身体を包み込んだ、あの穏やかで温かな神力。
「まさか……ここまで深く癒されるとは……」
樹玄は驚きの表情を浮かべながら、自身の身体を確かめる。
あんずは慌てて頭を下げた。
「ご、ごめんなさい……!勝手に術式を使ってしまて……」
そんなあんずに、樹玄は静かに首を横へ振る。
「謝る必要などござらぬ」
そして、深く頭を下げた。
「むしろ、拙者らが礼を申し上げねばならぬ立場」
樹玄はあんず、そして武三郎たちへ視線を向ける。
「巫女殿……そして若き冒険者殿達よ。あなた方に救われたこの命……心より感謝を申し上げる」
その真摯な礼に、武三郎と清志郎は少し照れたように笑った。
向日葵も、安堵したような表情で頷く。
「どういたしまして」
「良かったな、モフ子!2人を助けたのは、お前さんの力だぞ」
武三郎が笑いながら言う。
「んだんだ。モフ子のおかげで、2人とも命を拾ったべさ」
清志郎も大きく頷いた。
「あ、アタシは……」
あんずが戸惑うように呟く。
まだ、自分が本当に誰かを救えたという実感が追いついていない。
しかし、樹玄はそんなあんずへ、改めて向き直り、両手を合わせ深く頭を下げた。
「あなた方がここへ至るまで、恐らく数多の地鬼と死闘を繰り広げたのであろう」
樹玄の瞳は感謝の色が滲む。
「その戦いがあったからこそ、拙者らは今こうして命を繋ぐことができた。改めて……感謝を申し上げる」
あんずは胸元へ手を当て、溢れそうになる涙を拭いながら、柔らかく微笑んだ。
「……みんながいたから……アタシ、頑張れました」
向日葵は、そんなあんずを後ろから優しく抱きしめる。
そして、幼い頃から変わらない仕草で、杏色の髪を丁寧に撫でながら、幼馴染らしい笑みを浮かべた。
「うん! あんずは本当に、よく頑張ったよ」
祠の中には、潮の香りがかすかに漂っていた。
つい先ほどまで死の気配に包まれていた場所に、今は確かな生命の温もりと、無事を喜ぶ穏やかな空気が満ちている。
人の営みから見れば、ほんの一瞬の出来事なのかもしれない。
──けれど。
この場にいる者たちにとって、それは何にも代えがたい、かけがえのない幸福な時間だった。
「……生き残った者が、無事に戻ってこれたべな」
清志郎が静かに呟く。
その言葉に、誰もが小さく頷いた。
レオはあんずの頭へそっと手を置き、静かに微笑む。
かつて恐怖に震えていた自分と同じように、彼女もまた一歩を踏み出したのだと感じながら。
「本当にありがとう。君たちが来てくれなかったら、俺も樹玄も終わっていただろう……感謝に絶えない」
樹玄も身体を起こし、深く頭を下げる。
「左様、其方達との邂逅は仏の導き」
武三郎は照れ隠しのように鼻を鳴らす。
「お、おう……まあ、困ってる奴を放っとけねえ性分でよ。あっ……それからおいらの名前は武三郎ってんだ。"タケ"とでも呼んでくれや」
武三郎は腕を組み、豪快に笑う。
そんな武三郎を向日葵は柔らかく微笑む。
「助けられてよかったです。そう言えば……まだお互いにちゃんと自己紹介出来ていませんでしたね。私は浅草雷ギルド所属の陰陽師の向日葵と申します」
向日葵は丁寧に一礼する。
あんずもレオの胸から離れ、少し恥ずかしそうに姿勢を正す。
「そ、そうだよね……アタシたち、自己紹介してなかった……初めまして、アタシはあんず。天姫様を信奉する巫女で、向日葵ちゃんと同じ浅草雷ギルド所属です。凄く怖がりの巫女だけど……でも、みんなの力になれるよう頑張ります……!」
「んだ。モフ子と同じ、俺も浅草雷ギルドに所属している清志郎で忍をしてるべ。"タケ"とは相棒なんだべよ。"キヨ"と呼んでくんろ。一応、いっとぐけど、俺は"男"だべさ」
清志郎も得意げな表情で親指を立てる。
最後の"俺は男だ"の一言に、レオは吹き出しそうになり、軽く咳払いすると、仲間たちへ向き直る。
「俺はレオ・ハワード。小田瓦ギルド所属の冒険者で、ララリカ出身の戦士だ。仲間内やギルドでは“レオ”と呼ばれている。……まあ、見ての通り戦士としては粗削りだがね。よろしく頼む」
樹玄も両手を当て、丁寧にお辞儀をする。
「拙僧は森人の僧侶、樹玄。治癒と浄化を生業とし旅をしている放浪僧。其方達との出会いも仏の導き。以後、よろしくお願い申し上げる」
4人と改めて握手を交わしながら、レオは関心の声を上げる。
「君たちは、浅草雷ギルド所属の冒険者だったんだね」
「浅草雷ギルドは拙僧も存じている。江戸有数の精鋭揃いと聞くが、まさか其方らが、かのギルドの者達とは……」
「まあ、浅草雷ギルドはギルドマスターの『深谷 万三郎とその悪党』の巣窟として名高いからなあ。師匠も凶悪犯とか人攫いみたいな顔してるし、悪名も華々しく轟いちまうんじゃねえか?」
「んだな。見た目、ちとおっかなそうな感じだしなあ。そいえは、この前なんて吾妻橋で、コケたガキんちょを師匠が助け起こしたら、突然、泣き出してな『坊や、転んで痛かったのかい?』って師匠が頭撫でたら『悪人のおじちゃんが怖い』って言われて、めっちゃ凹みながらギルドに帰ってきたべな」
向日葵もあんずも、一斉にぶっと吹き出し笑いを堪える。
本人がその場にいない事を良いことに、ギルドマスター弄りをする武三郎と清志郎。
「タケもキヨも内輪ネタは、そこまでにしとく!レオさんと樹玄さんを置いてきぼりじゃない。ごめんなさいね。ウチのお馬鹿が」
レオは微笑みながら手を振り返した。
「いやいや、構わないさ。ギルドマスターの深谷 万三郎の名は、俺達もよく知っている。武術も冴え、人情味と漢気を備えた人物と評判だよ。それにしても、タケとキヨで……良かったかな?君達が万三郎を『師匠』と仰ぐということは……」
レオの問いに武三郎も清志郎も得意気な顔を向ける。
「おうよ!おいらとキヨさんは、芸人・深谷 万三郎の『弟子』ってもんよ!」
「普段は冒険者で日々の糧を稼ぎながら、師匠の下でギルドの舞台に上がって芸人してるべさ」
「そうだったのか。万三郎はギルド内の舞台で即興をしているとな噂を耳にはしたが、本当だったのか」
レオは感心したように腕を組む。
「人々を心から笑わせて無常の世を生き抜く糧を与える。万三郎殿は徳の高い人物と見える」
「……いやあ、そんな風に誇張されるような立派な人では、ないんですけどねえ」
向日葵は、気まずい苦笑いを浮かべながら呟いた。
「しかしよ、レオのあんちゃんも、樹玄のあんちゃんも三等級なんだろ?すげぇ強ぇのは、一目見りゃ伝わってくる。そんなあんちゃんらが、どうしてこんな目にあったんだ?」
「んだべよ。レオさんも樹玄さんも、めっちゃ強えぇのはようわがる。俺とタケが2人でかかっても、一太刀も入れらんねぇべさ」
前衛の2人は、初対面であるレオと樹玄を素直に評価していた。
三等級ともなれば、依頼は過酷さを増すため実力と実績は折り紙付き。
六等級の4人から見たら、羨望と尊敬の対象の存在なのだ。
その2人が命を落とす手前まで追い詰めた事情を、同じ依頼を受けている者として、尋ねなくてはならなかった。
「すまねえな……あんちゃん達。立ち入ったこと聞くようでよ」
申し訳なさそうな表情を湛える武三郎に、レオを胸に軽く片手を上げて制す。
「気にすることないさ。話すのは当然のこと。君達には是非、情報を共有しておかないといけないと思っていたところだ」
今思えば......。
海竜の祠へ足を踏み入れた時点で……。
いや……ずっと以前から、朱音は穢れに心身を浸していたのかもしれない。
最悪の事態は想定していたにも関わらず、人として、仲間として、信じたい。
誰もが一縷の望みを信じて、手に掛かることを躊躇った。
だが、結果はどうだろう。
突然の裏切り。数馬は死亡し、樹玄は法力を封じられ重症。黒炎の抱擁、数馬の捨て身。風刃に切り裂かれる肉体。
一瞬にして押し寄せる忌まわしき記憶。
レオは、喉を震わせながらゆっくりと口を開いた。
「……俺たちは、仲間だった陰陽師の朱音に、呪術で背後を撃たれ壊滅したんだ」
「!」
仲間からの呪術を背後から撃たれるという一言は、4人に衝撃を与えた。
「パーティ仲間の裏切行為という事ですか?」
あんずが驚愕した表情で問うと、レオは黙って頷く。
「俺達、樹玄、数馬、朱音の4人で、昨日の昼に浜芝村を出て、冒険者が行方不明とされる海竜の祠に到着した」
「だが、拙僧達が足を踏み入れても、地鬼とは一度も出くわさなかったのだ」
「あっ……そう言えば私達が来る途中、地鬼の死体はなかった……レオさん、樹玄さん達が先に入ったならば、地鬼達は片付けられているはず」
向日葵は、はっとした表情となり薄寒そうな顔をする。
「向日葵。君の察する通り、地鬼は流れて棲みついたのではない。朱音の呪術で召喚された輩だ」
レオの言葉に、向日葵は息を呑んだまま固まっていた。
武三郎と清志郎も、信じられないという顔で互いを見合う。
「召喚……だべか?」
清志郎が震える声で問う。
「そうだ。朱音が呪術で召喚して"支配"していた地鬼だ」
武三郎が眉をひそめる。
「待てよ……なあ、向日葵。地鬼を“従える”芸当は、陰陽師に可能なのか?」
武三郎の疑問に、向日葵はツインテールを左右に揺らしながら頭を振り、即座に否定した。
「出来るわけないじゃない。一時的に魅了するか、数匹を意志に反して操るのが精一杯。意志ごと支配するなんて、今の陰陽術では夢物語よ」
「やはり、陰陽術をもってしても無理か……尚の事、朱音に対する甘さを捨てるべきだった!」
「レオ……拙僧も悔いでやまぬ。次こそ仕留めようぞ」
自責の念に駆られるレオと樹玄。当の本人は悔恨を噛みしめるように目を伏せた。
樹玄は4人の若き冒険者達に向けて話を続けた。
「ここに来る前、拙僧達は、小田瓦ギルドのギルドマスターから、ある密命を受けていた」
樹玄の口からは、数馬、レオの3人で5年間組んで冒険者稼業をしていた頃から朱音と組むまでの経緯が語られた。
半年以上前に、数馬を通じて黒炎を使う陰陽師の朱音が加わったこと。
当初から、冷徹で感情を表に出さない性格と、情け容赦のない残忍な攻撃性を持っていること。
自分達パーティを何度も抜け出し行方知れずとなったこと。
離脱中、江戸で初級や中級の若手の冒険者とパーティを組んではいたが、目的や意図が不明なこと。
不審な行動が多いことから、ギルドからも目をつけられていたこと。
他のパーティでは、非道さが顕著に現れ、既に情や人間性が崩壊していると報告が上がっていたこと。
そして……黒炎が"呪禁"の類と噂されていること
「拙僧達は、ギルドマスターのシグルドに呼ばれ、朱音の動向に目を配るよう密命とも言える依頼を受けたのだ。もし、不穏の動きあらば……」
「お命頂戴ってことかい……」
静かに呟く武三郎。
「うむ。言葉にするのは憚られるが、疑いありき場合、救うか、仕留めるか、それが拙僧らに課せられた役目であった」
樹玄は静かに言い切った。武三郎たちは息を呑み、向日葵は胸元で手を握りしめる。
「あんちゃん達……そんな重てぇ密命、背負ってたのか……」 武三郎の声は、いつもの軽さを失っていた。
「んだべよ……。あんちゃんらが、かつての仲間を仕留めるなんて……そんな辛れぇ役目を……」
やり切れない表情を浮かべる清志郎。
樹玄は2人に向き直り、穏やかに首を振った。
「覚悟の上でのことだ。だが、拙僧らは朱音殿をまだ“仲間”と見ていた。だからこそ、最後の最後まで手出しを躊躇った」
「祠に着いた時……朱音は、もう俺たちが知っている朱音じゃなかった」
レオの声は低く、重かった。
「俺たちは見えていないだけで……最初からそういう本質を持った人間だったかもしれない」
向日葵たちは息を呑む。
レオは拳を強く握り締めた。
樹玄は静かに目を伏せる。
武三郎達が到着する一昨日前。
祠の中央玄室に数馬、レオ、樹玄、朱音は立っていた。
各所を見渡すも、異常は見当たらない。
「さっきから地鬼共と一度も出くわさないのは、妙に気になるけど、ここも異常がないから、先の通路に進もうぜ」
そう判断した数馬が、前方へ続く通路へ歩き出そうとした、その瞬間だった。
──ドッ。
鈍い音が玄室に響く。
数馬の胸から、黒い炎が噴き出した。
「……え?」
誰も理解できなかった。
数馬はゆっくりと視線を落とす。
自らの胸を貫く、漆黒の炎。
そのまま力なく前のめりに倒れ伏した。
「数馬ッ!」
樹玄が振り返る、その刹那。
黒い五芒星が空中に展開された。
禍々しい紋様は一瞬で樹玄の身体を包み込み、そのまま胸へ吸い込まれていく。
「……っ!?」
樹玄の顔色が変わった。
「封印術式……!?」
法力の源である魂力は感じる。
だが、法力が発動しない。
全ての法力が封じられていた。
「朱音!何をしている!」
俺は反射的に叫んだ。
信じたくなかった。
だが、振り返った朱音の口元には、これまで一度も見たことのない、残忍な笑みが浮かんでいた。
「ようやく……ここまで辿り着けたわ」
静かな声。
それは仲間へ向ける声ではなく、汚物を見る者の声音だった。
朱音はゆっくりと印を結ぶ。
足元に黒い術式陣が広がり、禍々しい炎が渦を巻く。
「レオ……あなたが、ずっと危険視してきた……黒炎よ」
次の瞬間。
漆黒の業火が、レオと樹玄へ向かって放たれた。
レオは立っていた。
全身の鎧は黒く煤け、露出した皮膚のあちこちが焼け爛れている。それでもバスタードソードを床へ突き立て、その柄に体重を預けながら、辛うじて立ち続けていた。
その傍らでは、焼け焦げた法衣を纏った樹玄が仰向けに倒れ、意識を失っている。
「あら。本当に戦士というのは頑丈なのね」
朱音は愉快そうに口元を歪めた。
「……どういうことだ、朱音!」
怒りを押し殺したレオの問いに、朱音は妖しく微笑む。
「あなたたちは……次の贄」
その笑みは、仲間へ向けるものではない。
「海竜を祟り神へ堕とすための、尊い贄よ」
「……!」
レオの瞳が見開かれる。
「3ヶ月前。最初は若い冒険者たちを生贄にしていたの」
朱音は喉の奥で愉快そうに笑った。
「苦労したわ。私が直接ギルドへ依頼を出せば、当然足がつくもの。だから呪禁道で地鬼を呼び寄せ、村を襲わせたのよ」
まるで他愛もない昔話でもするように、淡々と語る。
「案の定、村人たちは地鬼討伐をギルドへ依頼する。当然、冒険者も派遣されるわ。私が貴方達から離れている間、江戸でパーティを組んで、脈のある手懐けそうな若いコを物色する。」
朱音は舌なめずりした。
「脈あるコは男の子でも女の子でも関係なく、骨抜きになるまで慰め合う。そして枕元で囁くの。『海竜の祠の地鬼討伐は良い案件よ。英雄になりなさいな』とね。あとは祠の前で偶然出会ったかのように装い、彼らを中へ案内するだけよ」
「朱音……まさか」
「そう。あの初級3パーティのことよ。その後、彼らがどうなるかは、もう分かるでしょう?」
レオは歯を食いしばる。
「貴様……!」
「でも、非力な冒険者では手に掛けても得られる霊力は微々たるもの。祟り神を降臨させるための礎としては、とても足りなかった」
朱音の瞳に狂気が宿る。
「だから考えたの。もっと効率よく、もっと膨大な霊力を得る方法を」
レオの脳裏に、一つの答えがよぎる。
「お前……まさか、それで数馬に近づいたのか!?」
「そうよ」
朱音は迷いなく頷いた。
「数馬やあなたたちのパーティへ加わったのも、私の呪禁道を研鑽するため。利用価値があったからよ」
黒い炎が朱音の掌でゆらりと揺れる。
「あなたの大嫌いな、この黒炎。呪禁道と呼ばれる禁呪ははね、術式で傷を与えれば与えるほど、命を奪えば奪うほど、術者は霊力を増すことができるの。相手が強者の冒険者なら尚のことね」
朱音は恍惚とした表情で両腕を広げる。
「霊力が増すほど、祟り神の降臨は近づく。そして、実力ある強者の冒険者を手に掛けた時のに得られる霊力は……今凄く実感できて本当に素晴らしかったわ」
朱音は、ぞくりとするほど恍惚とした笑みを浮かべる。
「祟り神の降臨は、もう目前よ」
そして、くすりと喉を鳴らすように笑った。
「数馬と慰め合う関係になって、本当に良かったわ。あなた達みたいな血の通ったお人好しと出会えたし、最後まで私を手にかけることを躊躇ってくれたもの。人の情ほと利用しやすいものはないわ」
「……外道が」
レオは血が滲むほど歯を食いしばり、朱音を憎悪の眼差しで睨みつけた。
その瞳に宿るのは、怒りだけではない。
仲間を失った悲しみ。
信じていた仲間に裏切られた絶望。
そして、その異変に気付きながら何もできなかった自分への、激しい後悔。
そのすべてが、胸の奥で黒い炎のように燃え続けていた。
後書き ──新小岩 茶太郎
皆様、第6話をお読みいただき、本当にありがとうございました。
そして更新まで大変お待たせしてしまい、申し訳ありませんでした。
今回は、これまで積み重ねてきた展開を一つの区切りとして収束させる回だったため、場面や心情の流れを何度も見直しながら執筆していました。
あんずが恐怖を乗り越えるまでの葛藤。
向日葵、武三郎、清志郎、そしてレオの言葉。
さらにレオたちの過去と、朱音の裏切りへと繋がる回想。
それぞれを一本の流れとして自然に繋げたかったので、予想以上に時間が掛かってしまいました。
個人的には、レオがあんずへ語った「恐怖は飲み込まれるものではなく、飲み込むもの」という言葉は、この第6話の大きなテーマになっています。
怖いから駄目なのではなく、怖さを抱えたまま誰かのために一歩踏み出すことこそ勇気。
そんな想いが少しでも皆様へ伝わっていたなら、とても嬉しく思います。
そして次回からは、いよいよ物語が大きく動きます。
今回語られたレオたちの壊滅劇、その続きから物語は再び始まります。
仲間を失った絶望を悲しみを描かながら
一度は全滅へ追い込まれたレオと樹玄が、武三郎パーティとタッグを組み挑む、死闘までを描く予定です。
ここからは序章の山場になりますので、ぜひ最後まで見届けていただけると嬉しいです。
それでは、第7話でまたお会いしましょう。
今後とも『怖がり巫女のモフ子』をよろしくお願いいたします。




