第14話 俺は深谷 万三郎ってもんだ
浅草の北側に位置する裏路地街。
表通りの賑わいから外れ、ボロ家の長屋が続く陰鬱とした一角に妙に人の集まる店があった。
戸を開ければ、煙草の煙と酒の匂いが鼻を突く。
「丁!」
「半!」
「これでようござんすね!」
上半身は裸、腹に晒しを巻き、髪を後ろへ掻き上げた素性の知れない男たちが、威勢のいい声を飛ばしながら木札を張っていく。
その中で、ひときわ目立つ男がいた。
三雷紋の入った羽織を肩に引っ掛け、片膝を立てて酒を片手にした中年男。
深谷 万三郎である。
大勝負の真っ最中だった。
と言っても、江戸では禁止されている丁半賭博と呼ばれる奴である。
「よし、半!」
万三郎は手元に残っていた木札を、まとめて膝下に叩き込むと、隣にいる萬蔵が声を掛けてくる。
彼も賭場の常連客の1人で、必ずと言って良いほど賭場で出くわす、冴えない感じの中年男だった。
「おいおい、万さん。全部いくのかよ」
「へっ!勝負ってのはな、ここぞって時に張るもんよ!」
賭博師が手にした賽筒が、勢いよく振られる。
──カラカラカラッ
中で賽子が激しく転がる音が響き、やがて賽筒が賽子盆へと叩きつけられた。
──バンッ!
その瞬間、賭場にいる全員が息を呑む。
誰もが、賽筒の中に収まった賽子の目を見つめていると、賭博師がゆっくりと手を伸ばす。
そして、静かに、賽筒が開けられる。
「……丁と出ました!」
「かあ〜っ!すっちまった!」
万三郎が頭を抱える傍ら、萬蔵は丁に賭けていた為、勝負が決まると、掛札が倍以上になって戻ってくる。
「ついてねえな、万さん」
萬蔵は上機嫌に笑いながら、戻ってきた掛札を懐へと収める。
「うるせえ!バカヤロウ!今日は勘が鈍っちまってるんだ!」
負け勝負で掛札をすっかり持っていかれた万三郎は、見るからに虫の居所が悪い。
その時だった。
廊下の向こうから「ドタドタッ!」と、何やら慌ただしい足音が近づいてくる。
「ん?」
万三郎と萬蔵が同時に顔を上げる。
足音は、どんどん大きくなるとバタァンと障子が勢いよく開く。
そこからは、青ざめた顔をした見張りの賭博師が飛び込んできた。
「国侍が来たぞ!」
その一声で、賭場の空気が一瞬にして凍りついた。
「げっ!」
「逃げろ!」
「掛札を隠せ!」
男たちが一斉に慌て始める。
「意外に嗅ぎつけるのが早え連中だなあ。それじゃ、万さん。俺もお暇すらぁ。またな」
萬蔵は立ち上がり、万三郎の肩をポンと叩くと、足早に去っていった。
先ほどまで勝負に熱くなっていた賭博師たちが、我先にと掛札や賽子を懐へ突っ込み、立ち上がる。
「おい!勝負の途中だぞ!」
「そんなもん知るか!」
「俺の掛札返せ!」
「馬鹿野郎!今はそれどころじゃねえ!」
賭博場は、たちまち蜂の巣をつついたような騒ぎの中、万三郎だけは、のんびりと酒をすすり逃げる気配もない。
「慌てて逃げても、もう手遅れだっつうの」
周囲の慌てぶりに、苦笑するのだった。
「……ん?」
入口から、数名の国侍が突入してきた。
「全員、動くな!」
店内に、鋭い怒声が轟くと、入口から十数人の武装した国侍が一斉になだれ込んだ。
「浅草詰組だ!賭場を改める!神妙にしやがれ!」
「なっ……!」
「浅草詰組だと!?」
「やべぇ!逃げろ!」
客たちの顔は青ざめ、一斉に立ち上がるが、既に出入口を塞侍たちが塞ぎ、逃げ道はない。
その中央を、1人の男がゆっくりと歩いてくる。
黒髪を後ろで一つに束ねた、長身の侍だった。
腰には大太刀と小刀。
その堂々たる体躯と険しい顔つきは、そこにいるだけで場を静まり返らせるほどの威圧感を放っている。
端正な美男子ではあるが、鋭い表情が苛烈な印象を与え、長所を覆い隠しているようにも見える。
町方衆の国侍。
「浅草詰組一番隊」の一番頭である東雲 宗隆だった。
「騒ぐんじゃねえぞ、テメェら!」
低い声が落ちると、それだけで、賭博場から声が消えた。
「抵抗する必要はない。賭場を開いていた者はその場に残れ。客も全員、身元を改める」
「お、おい……俺たちはただ遊んでただけだぞ!」
「そうだ! 何も悪いことなんざ……」
「黙れ!」
宗隆が睨みつける。
「ここが無許可の賭場であることは、こちらも把握している。言い訳は詰所で聞く」
賭博師も客の男たちも顔を見合わせた。
誰も反論できない。
宗隆は卓の上に置かれた賽子と金を一瞥すると、部下へ目を向けた。
「帳面を探せ。胴元の出入りと金の流れを確認する」
「はっ!」
「それから、店の者、客の者に怪我をさせるな。証拠品を壊すのも許さん」
「承知つかまりました!」
部下たちが一斉に動き始めると、宗隆は騒然とする店内を見渡した。
すると、隅で胡座をかいている年配の男と目が合う。
「……おう、宗隆の坊主じゃねえか!相変わらず威勢だけはいいな」
年配の男は観念したかのように腕を組みながら、声を掛けると、宗隆の眉間の皺が、ほんの僅かに緩む。
「なんだ。政爺さんもいたんですかい」
「いやぁ、付き合いでな。俺は賭けちゃいねえぞ」
「なら、何でここにいるんだよ?」
「へへ……相変わらず怖ぇ顔だなぁ。しょんべんちびっちまいそうだぜ」
「生まれつきですよ。それに、元一等級冒険者の『鬼政』が、俺如きでビビるタマかよぉ」
宗隆は呆れたように鼻を鳴らした。
「まあ、すぐに出しますから、番所まで付き合っておくんなさいよ」
その口元には、かすかな笑みが浮かんでいる。
『鬼の一番頭』として知られる宗隆だが、町人相手には案外気さくで親身に接するなど、心優しい侍である。
頭ごなしに大声を上げるのは、彼の性格と、ある種の習慣とも言えた。
宗隆の背後から、聞き覚えのある声が飛んできた。
「おう、宗隆じゃねえか!政爺は俺の付き添いで来てもらってんだ。すぐ離してやってくんな!」
悪びれもせず、堂々と胡座をかいている万三郎を見て、宗隆は深々とため息を吐く。
「……またかよ、深谷のとっつぁん。本当に懲りないっすね」
「へへっ!オメェの手柄になんだからいいじゃねえか」
「あのよぉ、とっつあん。これで何度目ですかい?さすがの俺ですら10から先は覚えませんよ」
「そうかい。俺もよぉ、20から先は覚えちゃいねえや。真愛凛の奴もよ、流石にブチ切れて回数を数えちゃくれねえんだよ。薄情ったらありゃしねえ」
「真愛凛姐さん怒らすのは、さすがにヤバいんじゃ」
「へへ。いいじゃねえか。別に人殺ししてるわけじゃねえんだからよ」
「江戸では非合法の賭博は御法度ですよ。ってもう何度、言わせるんですかい?」
「この野郎、相変わらず堅ぇこと言いやがんな」
万三郎は悪びれもせず、宗隆の肩をぽんと叩く。
「お前もやってみろ!口うるせえ女房や娘から解放されて、嗚呼、俺は今この時を生きているんだなあって気持ちになるからよぉ」
「俺はまだ、妻も恋人もいねえから、その心境までには達しませんよ」
「つまらねえ野郎だな。だから武家に生まれても甲斐性なしなんだよ!お前は!」
「それ言ったら元も子もないですよ」
宗隆は呆れたように息を吐いた。
「まあ、とりあえず、番所だけは来てもらいますよ。連中も深谷のとっつあんを、首を長くして待ってますからね」
「おう!」
万三郎は胸を張る。
「俺の冴え渡る語りを聞きてぇってか!よし!行ってやあ!」
「捕られられたって自覚ねえのかよ!」
宗隆が処置なしと言わんばかりに、万三郎の肩を掴む。
「ほら、一緒に行きますよ」
「へいへい」
万三郎は抵抗するでもなく、素直に連行されていく。
その背中を見送りながら、賭博師の男がぽつりと呟いた。
「……あいつ、本当に最精鋭揃いと謳われる浅草雷ギルドのギルドマスターなんだよな?」
「一応な」
「一応ってなんだよ」
そんな声を背中に受けながら、万三郎は楽しそうに笑っていた。
「おう!"ぎるます"のお帰りだバカヤロウ!」
ギルドの伺い所の広間には、武三郎、清志郎、あんずが疲れた顔をして佇んでおり、その側には、レオと樹玄の姿もある。
万三郎が広間を見渡すと、ふと首を傾げた。
「ん?一等級の連中は?」
「もうとっくに解散させたよ!何人かは酒場にいるんじゃないのかい?」
真愛凛が呆れたように答える。
「あたしらが浅草に到着した直後、あんたが宗隆にしょっ引かれて、番所に連れ込まれたって言うから、迎えに行く羽目になっちまうなんて……とんだ大馬鹿野郎さ」
「おっとさん!迎えに行くこっちも超恥ずかしいんだから、しょっ引かれるとかやめてよ!」
巻き添えで、万三郎を迎えに行った向日葵は、真っ赤な顔で抗議する。
「宗兄や番所のお侍さん達にも『向日葵も、とんでもない父親を持って気の毒だよな』って同情されたんだよ!」
「何ぃ!あの野郎、そんなこと言ってやがったのか!」
万三郎の眉がぴくりと跳ね上がる。
「見てろよ……今度、番所に唐辛子をたっぷり入れた、あったか〜い蕎麦を差し入れして、地獄を見せてやる!」
「バカなこと言ってんじゃないよ」
真愛凛が呆れたように腕を組む。
「1ヶ月前に、宗隆のおにぎりへ大量の唐辛子を練り込んだ昆布の具を仕込んで、騒ぎになったのを忘れたのかい?」
「…………」
万三郎の動きが、ぴたりと止まった。
「……あれは、ちょっと辛かっただけだろ?」
「宗隆は三日三晩、腹を壊したんだよ!」
「3日も!?へぇ〜、そいつぁ気の毒だなあ」
「そこに驚くんじゃないよ!白々しい」
真愛凛の怒声が、夜更けの伺い所に響き渡った。
「大体、丁半博打でしょっ引かれるギルドマスターなんて聞いたことないよ!」
真愛凛が万三郎の頬を力一杯つねる。
「あんた……娘やタケ、あんずにキヨが命懸けで呪禁道の陰陽師を討伐して、私ら一等級総出で調査や回収をしていたというのに、あんたは呑気に博打三昧かい!おまけに番所で、国侍や下手人相手に漫談までしちゃってさあ」
真愛凛に核心を突かれた瞬間、万三郎の顔から不敵な笑みが消えた。
みるみるうちに、顔が青ざめていく。
「うるせえなあ……たまには俺だって羽伸ばしたいんだよ。文句あんのか、コノヤロウ……」
真愛凛の迫力に何とか対抗しようとする万三郎だったが、次第に萎縮していく。
「大ありだよ!さっきの威勢はどこへ行ったんだい?やましいことがあるから、雀みたいな可愛い声でピーピー言うようになったのかい?」
的を射た威圧に耐えられなくなった万三郎は、あんずへ助けを求めるように話を振った。
「なあ、モフ子」
「えっ?あっ、はい」
「俺、そんなに悪いことしたかい?」
「ええ!?おじ様、アタシに振るの?」
突然のご指名に、あんずは戸惑う。
「……真愛凛姐様と向日葵ちゃんが怒るのは、凄く分かるなあ。おじ様、コテンパンに負ける才能があるのに、賭け事大好きで、挙げ句の果てに、禁止されている丁半博打で宗兄様の番所に遊びに行くしで、怒らない方が不思議なくらいです」
「コテンパンに負ける才能って……言い方、酷くない?」
「あたしが真愛凛姐様だったら、おじ様の藁人形を作って、夜中に天姫様の本社の裏手にある杉林で……釘を打ちますね。こうやって、トーン、トーンとね」
あんずの釘を打つ仕草を見て、万三郎の顔から、さらに血の気が引いた。
「お、お前!……シャレになんねえよ!」
「え?」
「ほんわかした顔して、おっかねえこと言うんじゃねえよ!」
「冗談ですよ。おじ様♡」
「冗談に聞こえねえよ!バカヤロウ!」
その様子を見ていた武三郎と清志郎は、腹を抱えて爆笑していた。
「何こそこそ笑ってんだよ、タケ!キヨ!師匠の窮地を救わねえで何してんだよ!」
「ねえタケ、キヨ。師匠の弟子なら、『誰が悪いか』くらいは分かるよねえ?」
「はい!師匠が悪いです!極悪人です!凶悪犯です!」
「んだ。師匠ほどの外道はいねぇ。ありゃまるで、地獄から這い出てきた鬼だべ」
「あっ、テメェら!弟子のくせに裏切りやがったな!」
「あははっ!分かっているじゃないか。タケもキヨもいい子だよ」
真愛凛はそう言うと、両腕を武三郎と清志郎の首に回し、2人をを抱き寄せると、そのまま頬擦りをしたり、おでこに軽く口づけをしたりと、すっかり上機嫌だ。
「こら、真愛凛!俺の弟子を手籠めにすんじゃねえよ!」
「別に、タケもキヨもあんたの物じゃ、ないじゃないさあ」
真愛凛はけろりと答えると、扇子をぱたぱたと仰ぐ。
「さて、気分も良くなったから、今回の依頼完了の整理もしようかねえ」
「おっかさんも、おっとさんも、やめて……恥ずかしすぎる」
向日葵は頭を抱えた。
そんな騒ぎを、少し離れたところから唖然と見つめているレオと樹玄。
2人にとって、万三郎とは今日が初対面なのだが、会って早々の修羅場劇?に遭遇する羽目になった。
ギルドの中でも精鋭揃いの浅草雷ギルドを率いる男。
武三郎と清志郎の師匠。
一等級冒険者たちからも一目置かれる人物。
そんな話を聞いていた……のだか。
「……これが?噂に名高い深谷 万三郎」
レオが小声で呟く。
「これが、おびただしい戦果を上げる冒険者たちを率いるギルドマスターなのか?」
樹玄も困惑したように万三郎を見つめると、その声が聞こえたのか、万三郎が振り返った。
「おう?」
「!」
「兄ちゃんたち、見ねえ顔だな。どこのどいつだ?」
武三郎と向日葵が2人の間に入る。
「ああ、師匠。紹介しますね」
武三郎がレオと樹玄を見る。
「こっちの戦士がレオの兄ちゃん、こっちの僧侶は樹玄の兄ちゃん。海竜の祠の件で、俺たちが世話になった冒険者です」
「おう、そうか!」
万三郎は2人の前まで歩いていく。
「初めましてだな!俺は深谷 万三郎ってもんだ。浅草雷ギルドのギルドマスターなんて呼ばれてるけどよ、本業は芸人だから、そこんとこ勘違いしねぇでくれよな。向日葵の書簡も読んだけど、ウチの若えもんが世話になっちまったねえ。改めて礼を言うよ」
「こちらこそ、初めまして。レオ・ハワードと申します。武三郎たちには、こちらも助けてもらいました」
「拙僧は樹玄と申します。此度の件では、我らこそ助けられた身。どうかお気遣いなく」
2人が頭を下げると、万三郎は嬉しそうに笑い、2人の肩をぽんぽんと叩いた。
「そうかい、そうかい!まあ、堅苦しい挨拶はこれくらいでいいさ。浅草雷ギルドで一等級冒険者としてやっていくんだ。これから長え付き合いになるかもしれねえからな!」
「この人には、番所へ向かいに行った時に、お2人さんが浅草雷ギルドへ一等級冒険者に昇格することも伝えてあるからね」
真愛凛が扇子を軽く前に振りながら補足する。
「……あの、初対面の中、非礼を承知で伺いたいのですが……」
樹玄がおそるおそる口を開いた。
「おう?どうした、何でも言ってくれ」
「貴方は本当に浅草雷ギルドのギルドマスターなのですか?」
「おうよ!俺が浅草雷ギルドのマスターよ!略して『ぎるます』だ!どうだ、カッコいいだろう?」
万三郎は胸を張ってガハハハと高笑いを上げる、横で武三郎が頭を抱える。
「師匠……番所にしょっ引かれた後に、堂々と威張るとこじゃないですよ」
「うるせえ!師匠を救わねえ弟子のくせして!」
「何気に根に持ってるべなあ」
呆れた顔の清志郎。
「まあ、浅草雷ギルドに来てくれたことは歓迎するよ!お2人さん。まあ、立ち話も何だから、執務室兼楽屋にでも行こうか」
浅草雷ギルドの一階。
伺い所の受付カウンター、その脇の住居区画へと続く玄関をくぐり、履き物を脱いで上がれば、そこから先はかつて武家屋敷として使われていた頃の造りが、そのまま残されている。
磨かれた板張りの廊下。
幾つもの襖。
庭へと面した長い縁側。
廊下は枝分かれしながらも屋敷の奥へと伸びている。ただでさえ広い屋敷であるため、玄関から目的の部屋へ辿り着くだけでも数分は掛かる。
そんな屋敷の奥。
ひときわ大きな襖を開けると、そこには20畳ほどの広い畳敷きの部屋が現れる。
元武家屋敷の一室とは思えぬほど、どこか賑やかな空気を漂わせた部屋だった。
部屋の中央には、大きな円形の掘り炬燵が設けられている。
大人数が囲めるほどの大きさで、普段は万三郎が書類を広げたり、弟子たちと飯を食ったり、酒を飲みながら話をしたりする場所にもなっている。
左右の壁には、それぞれ大きな鏡が据え付けられていた。
鏡の前には衣装や小道具を置くための棚や籠が並び、壁際には着物や舞台衣装が掛けられている。
よく見ると押入れから、踊り子たちの衣装が隙間から覗かせている。
ここは万三郎の執務室であると同時に、浅草雷ギルドの芸人や踊り子たちが舞台へ上がる前に身支度を整える、いわば楽屋でもあった。
女性の踊り子たちが衣装を着替え、鏡の前で化粧を整えることもあれば、芸人たちが舞台衣装に着替えながら出番を待つこともある。
(もちろん踊り子たちが着替えるときは、万三郎は叩き出される)
そのため、部屋の中には常に人の気配があるのだが、今日は真愛凛も調査で不在だったため、舞台はお休みとなり無人だった。
鏡の壁際には化粧道具、様々な衣装、舞台で使う小道具。
そして誰が置いたのか分からない、多くの菓子や茶の包みや器まで並んでいる。
整然とした武家屋敷の趣を残しながらも、ここだけは浅草らしい雑多な活気に満ちていた。
部屋の隅には、年季の入った大きな帳場机が一脚とその脇には、これもまた年季の入った火鉢が据えられていた。
落語家が座る高座脇の机を思わせる雰囲気もあるが、表面には細かな傷がいくつも刻まれ、長年使い込まれて艶が出ており、その上には依頼書や帳面、筆、硯などが雑然と置かれていた。
もっとも、本人はこの机に向かって真面目に仕事をしている時間よりも、掘り炬燵に胡座をかいて酒を飲んでいる時間の方が長く、ギルドマスターの執務室としてではなく、芸人たちの楽屋として賑わいを見せていると言った方が良い。
しかし、今夜だけは違った。
今夜、この部屋は紛れもなくギルドマスターの執務室だった。
海竜の祠で何が起きたのか。
誰が傷つき、誰が命を落としたのか。
報告を受け取った万三郎は、それまで浮かべていたふざけた笑みを消していた。
芝浜村で真愛凛が作成した報告書へ目を落とし、しばらく黙って読み進める。
「……そうか」
静かな声だった。
いつもの豪快な口調とは、まるで違う。
やがて万三郎は報告書を閉じると、顔を上げた。
「よく帰ってきたな。お前ら。大変なことに巻き込んじまって。すまなかったな」
武三郎たちが顔を上げる。
万三郎は鼻を鳴らし、いつもの調子を取り戻すように口元を歪めた。
「今日はもう休め。細けぇ話は明日でいい」
「師匠……」
武三郎が小さく声を漏らす。
万三郎は椅子に深く腰を下ろした。
「命懸けで戦って帰ってきた奴に、説教なんざするほど野暮じゃねぇよ」
その言葉に、部屋が静まり返り、誰も口を挟まない。
万三郎は一度だけ、武三郎たちの顔を見渡した。
「生きて帰ってきた。それで十分だ」
豪快な男の顔から、一瞬だけ笑みが消えていた。
その眼差しには、若い冒険者たちには到底知ることのできない、長い年月を生きてきた男だけが持つ重みがあった。
それを見たレオと樹玄は、静かに悟った気がした。
この男が、なぜ多くの冒険者たちから「師匠」と呼ばれているその理由を。
武三郎、清志郎、向日葵、あんずが部屋を退出した後。
広い楽屋には、万三郎、真愛凛、レオ、樹玄の四人だけが掘り炬燵に腰を下ろして残っていた。
先ほどまでの騒がしさが嘘のように、部屋は静まり返っている。
万三郎は湯呑みに手を伸ばしながら、レオと樹玄へ目を向ける。
「レオと樹玄で……名前は良かったな?あんたらも仲間に裏切られたり、友を失ったりと、本当に災難だったねぇ。おまけにウチの若ぇガキ共を連れて、呪禁道の陰陽師とカチ合ったんだ。大変だったろう」
親身で寄り添う口調で、2人の労を労う万三郎に、レオは静かに首を横に振った。
「そんなことありませんよ」
穏やかな笑みを浮かべる。
「彼らは六等級以上の素晴らしい戦い振りでした。誰一人欠けても勝てなかったでしょう。それに、あんずさんの『神降し』には、本当に窮地を救われました」
樹玄も頷いた。
「御息女の向日葵殿も、見事なものでした」
「ほう?」
「戦況を見極める観察眼と判断力。あの若さで、よく身に付けておられる。それに、真愛凛殿が託した呪符を使い、仲間を守り切りました」
真愛凛が静かに微笑む。
「そうかい」
万三郎も満足そうに頷いた。
「まあ、いざって時に持たせてるんだけどね。皆の助けになったんなら、持たせた甲斐もあるってもんだよ」
「金とってるけどな」
万三郎が、何でもないことのように付け加える。
レオも樹玄も思わず苦笑した。
「当たり前さね」
真愛凛は悪びれもせず答える。
「愛娘と言えど、一端の冒険者なら、対価は貰うのが筋ってものじゃないさ」
真愛凛は呆れたように夫を見る。
「まったく、あんたは……」
そう言ってから、ふっと表情を和らげた。
「でもね、あの子からもらったお金は、ちゃんと貯めてあるんだよ」
「貯めてある?」
レオが尋ねると、真愛凛は小さく頷いた。
「将来、向日葵の花嫁資金にするためにね」
万三郎が横目で真愛凛を見る。
「……余計なこと言うんじゃねぇよ」
「あら、いいじゃないかい」
「向日葵にゃ言うなよ」
「承知しました。肝に銘じときます」
レオと樹玄は、思わず微笑んでいた。
厳しく育てているように見えて、その実、娘の将来を誰よりも案じている。
そんな万三郎と真愛凛の姿が、なんとも微笑ましかった。
しばらくして、レオが湯呑みに口をつける。
「師匠。俺たちの今後について、少しお話しておきたいことがあります」
「おう。言ってみな」
「俺と樹玄は、浅草雷ギルドへ鞍替えする意志は変わりませんが……」
万三郎は静かに頷いた。
「その前に、これまで所属していた小田瓦ギルドへ、直接挨拶に行きたいと思っています。ギルドマスターのシグルド・ヴァン・ホーレンにも、俺たちの口から話をしたい」
「えらいねぇ、筋を通すってわけか」
「はい」
レオは一度言葉を切り、樹玄へ目を向ける。
「それから、数馬の葬儀が終わったら、遺骨を遺族のもとへ届けに行きたいと思っています」
樹玄も静かに頷いた。
「数馬は、我々にとって大切な仲間でした。最後まで我々の手で弔ってやりたいのです」
万三郎は2人の言葉を黙って聞くと、やがて、ゆっくりと頷く。
「もちろんだ」
その声には、いつもの軽さがなかった。
「家族みてぇな大切な仲間だったんだ。丁重に弔ってやらねぇとな」
真愛凛も2人へ優しく微笑んだ。
「我儘を聞いて下さり、ありがとうございます。」
レオも樹玄も万三郎と真愛凛に深く頭を下げた。
真愛凛は2人の顔を見つめ、しばし考えるように、静かに口を開く。
「それでいいよ。あんたたちが見送ることが、数馬にとっても供養になるからね」
そして、少し遠慮がちに続けた。
「あたしから一つ聞いてもいいかい?」
「はい」
「数馬の葬儀に、あたしたちも参列していいかい?」
レオは一瞬、目を丸くしたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべる。
「もちろんです!」
樹玄も深く頷いた。
「むしろ、我々からお願いしたいくらいです」
「そうかい」
真愛凛の表情が和らぐ。
「あたしや師匠はもちろん、……タケや向日葵たちからも、葬儀に参列したいと言ってきてるんだけど、どうする?」
レオは迷うことなく答えた。
「ぜひ、お願いします」
樹玄も頷く。
「数馬も喜ぶでしょう」
その言葉を聞いた真愛凛は、ほっとしたように微笑んだ。
「そうかい。それなら、皆でちゃんと見送ってやろうじゃないか」
掘り炬燵を囲む4人の間に、静かな温かさが広がった。
「それから、お節介かもしれないけどね。数馬のご遺族には、あたしから式神で伝えておいたよ」
「えっ?」
レオが顔を上げる。
「返事も明日には来ると思う」
「そこまで……」
樹玄も驚いたように真愛凛を見る。
「それから、シグルドにも伝えておいたよ」
「シグルドにも?」
真愛凛は頷いた。
「あなたたちが浅草雷ギルドの一等級冒険者になることもね。その方が話も通しやすいだろ?」
レオと樹玄は、しばし言葉を失った。
万三郎が横で鼻を鳴らす。
「話が早ぇだろ?」
万三郎は湯呑みを手に取り、2人を見た。
「細けぇこと言うな。おめぇらがどうするかなんざ、もう決まってんだろ?浅草雷ギルドは、来る奴を拒みゃしねぇ。ましてや、おめぇらみてぇな奴をな」
レオはしばらく黙っていたが、やがて深く頭を下げた。
「……ありがとうございます、師匠」
樹玄も続く。
「ありがとうございます」
万三郎は照れ臭そうに顔を背けた。
「礼なんざいらねぇよ。これから一等級として、しっかり働いてもらうからよ」
「はい」
「承知しました」
真愛凛はそんな3人を眺めながら、静かに微笑んでいた。
旅の疲れを落とすため、武三郎と清志郎は屋敷に設けられた銭湯へ向かった。
浅草雷ギルドの屋敷には、冒険者や町人にも開放された銭湯が併設されている。
広々とした湯殿には大きな湯船があり、依頼から戻った冒険者たちが汗と疲れを流せるようになっているのだ。
万三郎は、冒険者も芸人も身体や衣服には気遣い、清潔さを保つよう、ギルド内の規定として徹底している。
清潔な身なりは、依頼主や顧客の信頼をも勝ち得ることに繋がるとの信条からである。
特に芸人でもある武三郎と清志郎には、口酸っぱく身なりについては厳しいので、1日たりとも気が抜けない。
依頼先で野宿でもしない限り、毎日、お風呂に入るのは日課となってしまっていた。
「はぁ……生き返るなぁ」
武三郎は湯船に肩まで浸かり、長く息を吐いた。
「タケ、年寄りみたいだべよ」
「うるせえ。お前も気持ちよさそうじゃねえか」
「そりゃあ、風呂は気持ちいいべ」
清志郎も湯に浸かりながら、ほっとしたように目を細める。
もっとも、清志郎は少女と見紛うほどの容姿をしているため、初めて見る者には男湯に間違えて入ってきたのではないかと勘違いされることも珍しくない。
だが、今の時間帯にいるのは顔馴染みの冒険者ばかり。
清志郎も気兼ねすることなく、ゆっくりと旅の疲れを癒やしていた。
やがて2人は湯から上がり、身体を拭き、寝具用の浴衣へ着替える。
「浜芝村の依頼さは、身体に堪えたべな。今日はもう寝るべ」
「そうだな。さすがに疲れちまって飲む気にもなれねえよ」
2人は疲れた身体を引きずり、住居区の2階へ続く階段を上っていく。
階段を上がりきった正面の先に、武三郎と清志郎の部屋の入口がある。
「ふぅ……今日はゆっくり休もうぜ」
武三郎がそう言って、襖を開けた、その瞬間だった。
「おかえり!待ってたよ!」
「わっ!」
突然の声に、清志郎が驚いて声を上げる。
「あっ、タケくん、キヨくん!さっぱりして、いい感じだね」
部屋の中には、向日葵とあんずが寝具用の浴衣姿で待っていた。
しかも、武三郎の布団に向日葵が、清志郎の布団の上にはあんずが、2人揃ってごろごろと転がっている。
「「…………」」
武三郎と清志郎は、しばし無言で立ち尽くした。
「お前ら……何してんだ?」
「何しにって……皆でお喋りしに来たんじゃん」
向日葵が当然のように答える。
「ふざけんなよ……俺たちゃ疲れてんだからよ。自分の部屋に帰れ、バカやろう」
武三郎が声には、疲れと苛立ちの両方が入り混じる。
すると、向日葵が布団の上から手招きをした。
「ねえタケぇ、こっちに来て」
「……あ?何だよ?」
渋々と向日葵の前まで歩いていき、武三郎は胡坐をかいた。
「もう少し、屈んで寄ってくれないかなあ」
「んだよ、面倒くせぇなあ」
寝そべる向日葵の前に頭ごと姿勢を屈んだ次の瞬間……。
「ぐえっ!」
向日葵の白く綺麗な脚が伸びると、万三郎の首に絡ませ、両手で頭を押さえ込んだ。
武三郎の顔は向日葵の身体に埋もれ、身動きも呼吸も取れない。
「むぐぅ!何しやがる!」
「タケぇ、選択肢を選ばせてあげるね」
向日葵は踠く武三郎を見下ろしながら、にっこりと笑ったが
目がまったく笑っていない。
「今夜は、私とあんずを大人しく、この部屋でお泊まりさせるか……」
そこで一拍置く。
「それとも、“男の必要経費”と、“あんずの友達に手を出したこと”と、“レナ姉との朝帰り”について、朝までじっくり語り合うか。どっちがいい?」
呼吸が苦しい中、武三郎の顔が引きつった。
「…………」
向日葵の笑顔が、さらに険しくなる。
「さあ、どっちかしら?」
「……向日葵さんとモフ子さんとお寝んねするのがいいです」
武三郎は一切の抵抗を見せず、即座に折れた。
「タケは師匠みたいに根性ねぇべな」
「うるせえ!バカヤロウ!テメェも絞められてみろ!一瞬だけお花畑が見えたんだぞ!」
横からぽつりと呟く清志郎に、向日葵の身体に顔を埋めながら武三郎が噛み付いた。
「あはははっ!私の脚に絡まれて、幸せそうだねタケも」
向日葵は楽しそうに笑い武三郎を解放すると、何事もなかったかのように、武三郎の布団へごろんと寝転がった。
「さあ、今夜はいっぱいお話しよう!」
「そうだね!タケくんとキヨくんは畳で寝ればいいもんね!」
「「ひでぇ……」」
向日葵もあんずも、うつ伏せで満足そうに両足をぱたぱたと動かす姿を、遠い目で見ていた武三郎と清志郎だった。
皆が寝静まった真夜中。
向日葵の寝ている布団の横で雑魚寝していた武三郎は、胸の上に何かがのしかかる重みを感じ、苦しそうに眉を寄せた。
「……ん?」
薄く目を開ける。
見ると、向日葵の足が布団からはみ出し、武三郎の胸の上に乗っている。
「まったく……」
呆れながらも、武三郎はその足をそっと持ち上げ、布団の中へ戻してやった。
起こさないよう静かに立ち上がると、部屋の窓を少し開け、欄干の前に腰を下ろした。
夜の浅草は、昼間の喧騒が嘘のように静まり、雲ひとつない夜空には、月がらんらんと輝いていた。
武三郎は欄干に頬杖をつき、ぼんやりとその月を眺める。
「……タケ?」
背後から、眠たげな声がした。
振り返ると、向日葵が目を擦りながら布団から起き上がっている。
「おお、起こしちまったか?」
「目が覚めただけ……タケ、何してるの?」
「月を見てる」
武三郎が夜空へ視線を戻す。
向日葵は少しの間、武三郎を見つめていたが、やがて立ち上がった。
「隣、いいかな?」
「好きにしな」
向日葵は小さく笑うと、武三郎の隣へ歩いていく。
そして武三郎と向かい合うように欄干へ手をかけ、腰を下ろした。
夜風が2人の髪を静かに揺らす。
「月……綺麗だね」
「ああ」
2人はしばらく何も言わず、静かな夜の浅草を眺めていた。
「ねえ、タケ」
「なんだよ」
向日葵は月を見上げたまま、ぽつりと呟いた。
「タケは……死なないでね」
武三郎が、わずかに眉を動かす。
「どういうことだよ」
「だって……」
向日葵は膝を抱えるようにして、少しだけ俯いた。
「タケも、数馬さんみたいに熱い性格でしょ」
「……」
「私たち仲間のためなら、自分の命を懸けすぎちゃいそうだから」
夜風が、2人の間を静かに吹き抜けていくと、向日葵は、そっと武三郎の手に自分の手を添えた。
武三郎が横目で見るが、向日葵は月を見上げていた。
その横顔には、いつもの勝ち気な表情はなかった。
「数馬さんとレオさん、樹玄さんとの日々は6年間。私たちの日々は2年間、それでもね……大切な仲間が、ある日突然、命を落としていなくなったらって思うと……私には耐えられそうにない」
向日葵の翡翠色の瞳には、悲しさと寂しさが滲んでいた。
武三郎はすぐには答えなかったが、やがて、向日葵のほうへ顔を向ける。
「おいらは、死ぬつもりなんかねえよ」
向日葵が顔を上げる。
武三郎は月を見上げながら、静かに続けた。
「仲間を守るために命を懸けることはある。だけどよぉ、死んじまったら、今度は何も守れねえだろ」
「……そうだね」
「それによぉ、浅草雷ギルドも冒険も芸人としてやっていくことも、楽しくてしょうがねぇんだよ……だから、お前らと生きて帰る」
武三郎はそう言って、向日葵を見る。
「お前らを置いて、おいらだけ死ぬなんて真似はしねえよ」
向日葵はしばらく黙っていたが、やがて、ほんの少しだけ笑う。
「……約束だからね」
「ああ」
「絶対だよ」
「しつけえな」
「大事なことなんだから」
向日葵はそう言って、武三郎の肩にそっと頭を預けた。
武三郎は驚いたように目を瞬かせたが、何も言わなかった。
ただ、逃げることもせず、仲間としてそのまま隣に座っていた。
2人の頭上では、月が静かに夜の浅草を照らしていた。
第14話をお読みいただき、ありがとうございました。
今回のお話から、いよいよ「祟り神編」に入ります。
そして今回、武三郎と清志郎の師匠であり、真愛凛の夫、そして向日葵の父でもある、深谷万三郎のお披露目がようやく叶いました。
これまでの「序章編」では、浜芝村を舞台とした探索や、魔物、陰陽師との戦いを中心に物語を進めてまいりました。
今後は浅草も舞台の一つとして、冒険や戦いだけではなく、冒険者たちの日常や仲間たちとの交流など、日常パートも交えながら物語を進めていきたいと思います。
もちろん、あんずの怖がりも相変わらずです。
海竜と縁を持ったとしても、変わりません。(汗)
「怖がりな性格なのに、大丈夫なのかなあ?」
そんな声も聞こえてきそうですが……。
怖がりだからこそ見えるものもある。
そして、怖いと思うからこそ、誰かの痛みや悲しみに気づけることもある。
そんな物語になればと思っています。
これから始まる「祟り神編」も、どうぞよろしくお願いいたします。




