076 TENET 信条,基本的な理念
一瞬、視界が白く弾けた。
その後に訪れたのは、静寂と、湿った冷気。
ユウは目を開ける。
崩れた石の街並み。雪とも灰ともつかぬ粒が、風に流れていた。
先ほど居た場所と然程変わらない光景。
「……ここ、同じところじゃない!?」
膝をついたユウの掌の上で表紙が音を立てて焦げていく。
だが完全に崩れはしなかった。ページの間から、ひとひらの花弁のような光がこぼれる。
「貴女は、神出鬼没だな」
通りの向かいからルクスが、地にぺたりと座り込んだユウの元に、ゆったりとした足取りで寄った。そして彼女が手に抱え込んでいる一冊の本を覗き込み、眉を潜める。
「転移痕が……香っている。魔術的媒介が残留してるなんて珍しい」
「香ってる?」
上からかけられた声に、ユウは弾かれた様に顔を上げた。
「うん」
周囲の崩れた建物の輪郭が淡く揺れて見えた。
それはまるで空気の中に糸が走るような光景で、少し遅れて、魔力の流れが視えているのだと気づく。
「これは……結界?」
「いや」
ルクスの声は低く、どこか怯えた響きを含んでいた。
「この地の結界はもう死んでるから。でも、このような残り香が場の魔力に干渉した状態っていうのは、歪界の領域に近い、のかな」
「歪界……って前にも聞いたことがあるんですけど、どんなところでしょうか?」
ユウの単純な疑問にルクスは訝し気に問い返す。
「貴女は魔術師じゃないの? そのような魔力を得ながら」
「魔力は……後天的な感じです。だからまだ色々勉強中で」
そしてルクスはそのまま黙り込み目の前の女を観察した。
僅かな距離での転移。
転移前の詠唱も無かった。
肩にいた黒龍の子供の姿は既に無い。
もしかしたら、あの高位の魔物を逃すために一芝居うったのだろうか。
斯様な魔力を有する存在が、なぜレインフォードを訪れたのだろう。
頭を過るいくつもの疑問は、沈黙の街に吸い込まれていった。
◇◇◇
ロシュディは王城の会議室につめかけた面子に、再度ため息を吐きたくなる気持ちを押さえていた。
こうしている間も、王都結界の外には時限的に魔物の襲撃を受けている。
幾分か魔物の数は減らしたようだが、相変わらず一般人による大街道の往来は不可能だ。
「これを断れば、和平交渉そのものが破綻しますぞ」
「いや、魔術国家の血を我らの王家に入れるなど――!」
意見が割れ、ざわめきが広がる。
だが、どちらの側も真の意図を隠しているようにみえる。
場を紛糾させている者にとって重要なのは和平ではなく、自らの派閥と権勢。
例えば、この婚姻を機に、どの系統が後継ぎを掌握するか――そこが肝だった。
ロシュディは椅子の背にもたれ、静かに指を組む。
玉座に興味などない。
だが、結界を維持するには安定がいる。
その考えが顔に出ないように沈黙を守ると、傍らで素知らぬ顔で戻ってきていた小姓姿のアルジェントが軽く咳払いをした。
「……人の口とは面倒なものじゃの」
「黙っていろ」
「無論。ただ――あの書状をちらと見たが、封蝋が少々古い形式……ほんの少し、時間のずれを感じたのは、気のせいじゃったかのう」
ロシュディの眉がわずかに動く。
アルジェントはそれ以上何も言わず、控えの間へと消えた。
時間のずれとは。
つまり、あの書状は現在のものではない可能性があるという事だろうか。
確かに、この数日、大街道を通行するのは非常に困難だ。
カーネリアと違い、フェルギスには転移陣などの施設はほぼ消失している。
まして国外から入国し、この王都フェリアまで辿り着くのは、危険すぎる。
会議のざわめきの中、ロシュディの胸中に冷たい予感が灯った。
空気は、静謐というよりも濁っていた。
一通り意見を述べた貴族たちは誰ひとり笑わず、ただ互いの顔色を探るように沈黙している。
「……これは明確な内政干渉。この条件を飲めば、王家の決定権はカーネリアに握られる」
沈黙を破った王が低く呟くと、部屋の空気がざわめいた。
「しかし、陛下――結界の修復も長くは続かぬと聞きました。我らにはこれ以上軍を動かす余力がないのですぞ。無論、この国を正しき血統で継ぐことは我らの誇りですが」
「……ならば、国を売るか」
ロシュディが静かに言葉を落とした。
彼の瞳には怒りよりも、冷え切った理性が宿る。
「婚姻が和平の象徴であるなら、なぜ魔術研究所の監督権を条件に含めている?」
その一言で、ざわつきは凍りついた。
カーネリアはフェルギスの忌避の文化をよく知っている。
にもかかわらず――使節の文には、王都の魔術研究所の管理権を共同運営とする旨が明記されていた。
「……つまり」
老宰相が静かにまとめた。
「彼らの狙いは婚姻ではなく、我が国が有する魔女の研究ではないでしょうか」
魔女の力を軛とし、王国の至る所にある旧時代の遺構は、今もなお稼働している。
だが、暗黒領域の結界破損の件以降――フェルギス国内における魔力異常が世界に知られてしまったのだ。
政庁裏の会談室で、マクレイン候公とラング公が額を突き合わすように話していた。
「王家の血が穢れたと、国外に示すのはいかがであろう」
薄笑いを浮かべるのは、前王派のマクレイン候公。
「あの庶子には魔女の血が流れておるのよ」
その傍らで、若い貴族が小声で応じた。
「……カーネリアに庇護を求める口実の一つになるでしょうか?」
「たとえば、王家は魔女の呪いに取り憑かれている――。そんな風聞を広めれば、王位継承の正当性など容易く崩せる。始祖の末裔を名乗っておるが、随獣も使役しておらんではないか。オレリアスは、何を血迷って、あんな得体のしれぬ男を養子にしたのだ。それに件のカーネリアの王女は無能だと伝え聞いておる」
彼らの狙いは単純だ。
王家を外から縛り、実権を取り戻すこと。
そして、再び魔術をただの道具として扱う時代へ戻すこと。
「リーグベルが目障りですな」
「研究所ごと、あれを手放せば良い」
外の喧噪は遠く、蝋燭の炎が紙の山を淡く照らす。
古びた羊皮紙が散乱する机の前で、ロシュディはひとつの封書を開いた。
婚姻の影に、王家を断つ刃あり。
その文字を反芻しながら、彼は眉ひとつ動かさない。
だが、紙を握る指先はわずかに白くなる。
「……やはり、前王派か」
彼は小さく呟くと、机の端に置かれた印章を指で転がした。
前王である父の事はあまりよく覚えていない。
気が付いたら母と引き離され王城にあがったかと思えば、その次には軍人として僻地に飛ばされていた。
気の強い正妃、半分だけ血のつながった兄弟達。
オレリアスはただ、王家の血統を正しきものにするためだけに、彼らを処断したのだ。急激な変化は反発を誘う。
だがしかし、既にロシュディはオレリアスと共に歩き出してしまっていた。
表向きは和平。
だが実態は、カーネリアを旗印にした政変。
現王派も前王派も、平和と安寧を求めていた筈だ。
いったいどこから皆、道を違えたのだろう。
「人は恐れを理由に、理を歪める」
低く吐き出した声は、炎の揺らめきにかき消される。
そのとき、窓辺の闇がわずかに動いた。
影がひとつ、風のように現れる。
「……珍しく凹んでおるのう」
アルジェントだった。
人の姿をしてもなお、黒竜の威を隠しきれぬ気配を纏い、まるで城仕えの古臣のように立つ。
「見張りに来たのか」
「守りに……と言うたら怒るかの」
ロシュディはわずかに口元を緩めた。
「お前が誰かを守るなど、聞いたこともない。だいたい俺の首に牙を突き立てたのは後にも先にもお前だけだ」
机の上の文書をまとめ、思案するように静かに呟く。
「――議会の裏を洗う。リーグベルには研究所経由で通信網を必ず再構築させる。潜む者は、必ず外部と繋がっているはずだ」
アルジェントが目を細めた。
「あまり急くでないぞ。己の身を捨ててまで守るものを、間違えるな」
「……知っている」
ロシュディは窓の外を見やった。
結界の光が、まだ夜空にかすかに瞬いている。
「守るべきは――民だ。たとえ王の首が挿げ替わろうと、この国は立たねばならない」
その声音には、静かな決意と炎のような芯があった。
アルジェントは鼻で笑った。
「ふん……まるでいっぱしの王様みたいな口ぶりじゃ」
ロシュディは一瞬だけ笑い「陛下が聞いていたら、笑われるだろうな」と軽く肩をすくめた。
そして次の瞬間、ロシュディは片手で封書を握りしめ、炎の中へと投げ入れた。
紙が燃え、赤い灰が舞う。
「――そういえば、彼女と、どこかに消えたと聞いたが」
「ほう……耳が早いの。書架の門の発動失敗で、今、辺境に飛びよった。行動を共にしているのは、カーネリアより逃れてきた魔術師の男」
「それはまた……厄介ごとか……」
「さあ、少なくとも、ユウは厄災ではない。なんせこのワシと話が出来るのじゃから。だが――色んな物が寄ってくるほどの力を有して、持て余してるみたいじゃのう」
「……ならば、その力ごと、守る価値があるという、理由にはなるか」
炎の反射が彼の瞳に宿る。
鋭く、穏やかで、どこまでも冷静な光。
アルジェントは肩をすくめ、「まったく……どうしてこう手間のかかるやつばかりなんじゃ」とぼやきながらも、その顔にはわずかに笑みが浮かんでいた。




