閑話 日常から外れていく少女
「パイル、朝よ」
「んー……起きてる」
「それ、さっきも聞いたわよ?」
「今度は本当に起きてるってば」
布団の中で目を開ける。
見慣れた天井。
見慣れた部屋。
窓から差し込む朝の光も、いつもと同じ。
今日も仕事だ。
ギルドの受付嬢。
依頼を受けつけて。
帰ってきた冒険者から報告を聞いて。
新人には必要なことを説明する。
危険な場所へ行く仕事ではない。
魔物と戦うわけでもない。
それでも、誰かの役に立っている。
嫌いではない。
むしろ、好きな方だと思う。
「……なのになぁ」
最近、何かが足りない。
何が、と聞かれても分からない。
仕事がある。
家族もいる。
毎日は平穏だ。
不満なんてない。
ただ。
今日も昨日と同じ一日になる。
そう思うと、胸の奥に小さな何かが引っかかった。
「パイル?」
「起きてる!」
「今度は信じていいの?」
「起きます!」
布団を跳ねのけた。
◇
「おはよう、パイル」
階段を下りると、お父さんが朝食を食べていた。
「おはよう、お父さん」
「今日は早いな」
「いつもこのくらいだよ」
「そうだったか?」
「そうです」
お母さんが笑う。
「さっきまで『起きてる』って、布団の中にいたけどね」
「お母さん!」
「本当のことでしょ?」
「もう……」
いつもの朝。
穏やかで、頼りになるお父さん。
優しくて、よく笑うお母さん。
二人とも、パイルの自慢だった。
朝食を食べる。
制服に着替える。
鏡の前で髪を整えて。
最後に笑顔を作る。
「よし」
受付嬢のパイルが出来上がった。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
「気をつけてね」
「はーい」
家を出る。
扉を閉めて数歩。
パイルは小さく息を吐いた。
「……今日も一日、か」
嫌ではない。
本当に。
ただ、昨日と同じ今日が始まる。
それだけだった。
◇
「おはようございます!」
ギルドへ入った瞬間、気持ちを切り替える。
書類を確認。
依頼票を整理。
掲示板へ回すものを分け、前日からの引き継ぎに目を通す。
やがて冒険者たちが集まり始めた。
「おはようございます。依頼ですか?」
「ああ。これを受けたい」
「では、ギルドカードをお願いします」
いつもの仕事。
「討伐対象は三体です。ただ、数が増えている可能性もありますので、十分に注意してくださいね」
「分かった」
「お気をつけて」
次。
「採取依頼を受けたいんだけど」
「でしたら、こちらとこちらがあります」
次。
「報酬、まだ?」
「ただいま確認します。少々お待ちください」
次。
次。
次。
忙しい。
でも、嫌いではない。
余計なことを考えなくて済むから。
「おい、姉ちゃん」
「はい?」
カウンターに肘をついた男から、少し酒の匂いがした。
「もっと割のいい依頼ねぇの?」
「現在掲示されているものがすべてです」
「俺、結構強いんだけど?」
「でしたら、こちらの討伐依頼はいかがでしょう」
「遠いじゃん」
「はい?」
「もっと近くてさぁ」
「はい」
「簡単で」
「はい」
「報酬が高いやつ」
「ございません」
笑顔。
受付嬢として、完璧な笑顔。
「探してよ」
「申し訳ないですが、ございません」
近くて。
簡単で。
安全で。
報酬が高い。
そんな依頼があったら、あなたが来る前に誰かが持っていっています。
……とは言わない。
受付嬢だから。
「条件を変えていただければ、ご案内できますよ」
男はしばらく文句を並べたあと、普通の採取依頼を持っていった。
「ありがとうございました」
姿が見えなくなってから、息を吐く。
「……はぁ」
「大丈夫?」
隣の同僚が声をかけてくる。
「大丈夫です」
いつものことだ。
笑って。
頭を下げて。
腹が立っても飲み込む。
「……ちょっとくらい、言ってもいいと思うんだけどな」
「何か言った?」
「何でもありません」
また、笑顔を作った。
◇
昼を過ぎた頃。
見覚えのある二人がギルドへ入ってきた。
最近、冒険者登録をしたばかりの青年と、その青年より背の高い女性。
キミとアイ。
二人を見た瞬間。
パイルは、ほんの少しだけ身構えた。
この二人が来ると。
なぜか、話が真っすぐ進まない。
「こんにちは」
アイが軽く手を上げる。
「こんにちは。今日はどうされました?」
「依頼の報告に来たよ」
「承ります。ギルドカードと依頼票をお願いします」
キミがポケットを探る。
右。
左。
上着。
もう一度、右。
「……キミさん?」
「ちょっと待って」
「君、さっき持っていたよね?」
「持ってた」
「どこで?」
「それが分かれば探してないよ」
「それもそうだね」
そうなのだろうか。
「落とされたんですか?」
「いや」
キミは真剣な顔で答えた。
「しまった場所が分からない」
「それを一般的には、失くしたと言うんじゃないでしょうか」
口から出た。
「あ」
受付嬢らしくなかった。
だが、アイが吹き出した。
「ふふっ。私もそう思う」
「愛さんまで」
「だって、君だし」
「あった」
キミがカードを取り出した。
「どこにありました?」
「ポケット」
「さっき探していましたよね?」
「うん」
「どこの?」
「最初に探したところ」
「…………」
パイルは笑顔を保った。
受付嬢だから。
「では、お預かりしますね」
依頼は薬草の採取。
種類も、数も、状態も問題ない。
依頼達成。
……のはずだった。
「……これは?」
採取袋の隅に、青い花が一本混じっていた。
小さく、透き通るような花弁。
光が当たると、青がわずかに揺れて見える。
「途中に咲いてた」
「依頼の薬草ではありませんよね?」
「うん」
「どうして採ったんですか?」
キミは少し考えた。
「綺麗だったから?」
なぜ疑問形なのだろう。
「目的地へ行く途中で、君が道を間違えたんだよ」
「間違えてないよ」
「では、どうして指定された採取場所と反対方向から帰ってきたの?」
「…………」
「君?」
「結果的には採れたから」
「答えになっていないね」
パイルは二人を見る。
報告書を見る。
もう一度、二人を見る。
「この花、どこで採ったんですか?」
キミが場所を答える。
地図を開き、指で追う。
止まった。
「ここ……道がありませんけど」
「うん。僕もそう思った」
「思った?」
「気づいたら、そこにいた」
「…………」
笑顔を保つ。
受付嬢だから。
たぶん。
◇
報告処理には、いつもの倍以上の時間がかかった。
依頼そのものには問題がない。
採取物も揃っている。
なのに、そこへ至るまでの話だけがおかしい。
「どうして、こうなるんですか……」
「ごめん」
キミが申し訳なさそうに笑う。
「いえ。怒っているわけでは」
「君が迷うからだよ」
「愛さん。それだと僕が悪いみたいじゃない?」
「君が悪いんだよ」
「やっぱり?」
パイルは堪えきれなかった。
「あはっ」
二人がこちらを見る。
「……あ」
仕事中だ。
少し、砕けすぎた。
「すみません」
「なんで謝るの?」
キミが不思議そうに首を傾げる。
「その……受付嬢ですから」
「受付嬢は笑っちゃ駄目なの?」
「いえ。笑顔も仕事のうちです」
「じゃあ、今の方がいいよ」
「え?」
「今の方が、楽しそうだった」
何を言っているのだろう、この人は。
受付嬢は笑う。
毎日、何度も。
仕事だから。
でも。
今の笑いは、仕事ではなかった。
「……キミさん」
「はい」
「次からは、なるべく道のあるところを歩いてくださいね」
「気をつけます」
アイがパイルを見る。
「無理だと思うよ」
「愛さん!?」
また、笑ってしまった。
◇
夕方。
受付業務を終え、机を片づける。
今日も忙しかった。
面倒な冒険者もいた。
書類も多かった。
いつもと同じ。
……ではなかった。
一枚の報告書を手に取る。
キミ、アイ。
依頼達成。
問題なし。
ただし、帰還経路は不明。
「……なんなの、この人たち」
ポケットに入れたカードを見失って。
道のない場所へ迷い込んで。
依頼とは関係のない花を持って帰ってきた。
それなのに、二人にとっては普通のことらしい。
「……ふふっ」
慌てて周囲を見る。
誰もこちらを見ていない。
報告書を綴じる。
「さて、帰ろ」
今朝は思っていた。
今日も昨日と同じ一日になる、と。
けれど今は。
明日は、あの二人が何を持ってくるのだろう。
そんなことを、少しだけ考えていた。
◇
「ただいま」
「おかえり、パイル」
「おかえりなさい。今日はどうだった?」
靴を脱ぎながら答える。
「普通だよ」
いつもの仕事。
いつもの一日。
そう言うつもりだった。
「……あ」
「どうしたの?」
少し考える。
「変な新人がいてね」
気づけば、その日の出来事を話していた。
カードを失くしたと思ったら、最初に探したポケットから出てきたこと。
道のない場所から帰ってきたこと。
綺麗だったからと、依頼とは関係のない花を持ち帰ったこと。
アイさんに迷子扱いされても、本人はあまり気にしていないこと。
お母さんは笑いながら聞いていた。
お父さんも楽しそうに頷いている。
「それでね……」
話は、なかなか終わらなかった。
パイルは、まだ気づいていない。
変わらないと思っていた毎日に、明日を待つ理由が、ひとつ増えたことに。
◇
翌日。
ギルドマスターの執務室。
机の上に、一輪の青い花が置かれていた。
「……で?」
椅子に座ったマイスが、露骨に嫌そうな顔をする。
向かいでは、ギルマスが資料を開いていた。
「確認いたしました」
「聞きたくねぇな」
「では、申し上げなくても?」
「……いや、言え」
「どちらです?」
「いいから言え」
ギルマスは青い花を手に取った。
「稀少種です」
マイスが天井を見る。
「やっぱり聞きたくなかった」
「この地方には自生しておりません」
「…………」
「本来の群生地は、徒歩で行ける距離ではございません」
「…………」
「なお、キミ君が申告した採取地点にも、自生記録はありません」
「もういい」
「まだございますが」
「聞きたくねぇ」
マイスは頭を掻いた。
ただの採取依頼だった。
新人が薬草を採って帰ってきた。
それだけのはずだった。
「……ちなみに、価値は?」
「薬の材料になります。入手が困難ですので、それなりに」
「ったく。また面倒になりそうだ」
マイスは花を指さした。
「これは見なかったことにするぞ」
「では、私が仕舞っておきましょう」
「頼む」
ギルマスは青い花を丁寧に包む。
そして、ごく自然に自分の懐へ収めた。
「……なんで、お前の懐なんだ?」
「何か問題でも?」
「いや……もういい」
正式な報告にも。
ギルドの保管記録にも残らず。
この土地に存在するはずのない花は、一人の男の懐へ消えた。
その花が、どこから来たのか。
なぜキミが、そこへ辿り着けたのか。
いつか、その花が誰のために使われるのか。
この時はまだ、誰も知らない。
ただ一つ。
パイルの変わらないはずだった日常には。
すでに一人の《迷い人》が迷い込んでいた。
そして彼女もまた。少しずつ。
自分が歩くはずだった日常から、外れ始めていた。




