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異世界の君  作者: 戒
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2/12

02話 名前の道まで外れる男

「仕事するか……」


そう言って酒瓶を置いた男が、こちらへ歩いてきた。

大柄な男だった。


さっきまで食堂の隅で酒を飲んでいた人とは思えないほど、足取りはしっかりしている。


……いや。


近づいてくると、やっぱり酒臭い。


「…………」


僕は一歩だけ後ろへ下がった。


「君、失礼だよ」


「何も言ってないよ?」


「顔に出てる」


隣で愛さんが呆れたように言う。


男はそんな僕たちのやり取りなど気にする様子もなく、受付の中へ入った。


「で?」


新人らしい受付のお姉さんに声をかける。


相変わらず、この世界の言葉は細かいところまでは分からない。

それでも、何を話しているのかは、なんとなく伝わってくる。


受付のお姉さんが僕を指さしながら、男に何かを説明している。

時々、僕を助けてくれた三人の冒険者たちの方も見る。


「……多分、僕の話をしてるよね?」


「うん」


「悪いこと?」


「今のところは大丈夫だと思うよ」


「今のところって言った?」


「言ったね」


不安になるなぁ。


しばらく話を聞いていた男が、今度は僕を見る。


「坊主」


「……僕?」


意味というより、視線で分かった。


男がいくつか質問してくる。

どこから来た。

身分を証明するものはあるか。

この町に知り合いはいるか。

金は持っているか。

そんなことを聞かれている――気がする。


僕は分かる範囲で答えた。

どこから来たのかは、僕にも分からない。

身分証なんて持っていない。

知り合いもいない。

お金もない。

答えるたび、男の眉間の皺が深くなっていく。


「……僕、何かまずい?」


「かなり」


愛さんが即答した。


「そんなに?」


「身分を証明できない。お金もない。この世界のことも分からない。言葉もまだちゃんと理解できてない」


「並べられるとすごいね」


「感心するところじゃないよ」


男も、だいたい同じことを言っているらしい。


そして受付台の上に一枚の紙を置いた。

紙を指さし、自分たちを指さし、それから僕を指さす。


その説明を、愛さんが横で聞いている。


「どうやら、ギルドに登録したらどうかって」


「ギルド?」


「うん。登録証が身分証の代わりになるみたい。すぐに冒険者として活動しなくても、持っていれば色々と便利だって」


「なるほど」


正直、この世界のことは何も分からない。

でも、身分証がないと困るというくらいは僕にも分かる。


「愛さんは?」


「私も登録するよ」


「するの?」


「君だけ登録して、私が身元不明のままじゃ意味がないでしょ?」


「それもそうか」


愛さんは少し考えた。


「じゃあ、私が先に登録するね」


「先に?」


「一度やり方を見れば、君の時に手伝えるから」


「ああ、それなら安心だね」


「君の場合、途中で何が起こるか分からないからね」


「登録するだけだよ?」


「君だから言ってるんだよ」


ひどい。

さすがに、紙に名前を書くくらいなら迷わないと思う。


たぶん。



◇


――ところが。


なぜか僕たちは、隣り合った二つの受付に座っていた。


「……あれ?」


「どうしたの?」


「愛さんが先にやるんじゃなかった?」


「そのつもりだったんだけどね」


愛さんの前には、さっきの新人受付のお姉さん。


僕の前には――。



「ほら、さっさとやるぞ」


酒臭い大男。


「なんで?」


「私に聞かれても困るよ」


受付が二つ空いているのだから、同時にやった方が早い。


どうやら、そういうことらしい。


「まあ、隣にいるから大丈夫だよ」


「うん」


愛さんがいるなら何とかなるだろう。


男が紙を僕の前に置く。

いくつか空欄が並んでいる。

指で一つずつ示しながら質問してくる。

年齢。


「十八」


男が書き込む。


出身地。


「……分からない」


男が怪訝そうな顔をしたので、僕は森の方角を指さして首を振った。


何かを書き込む。


たぶん「不明」だ。


その次。


また何か聞かれた。


「えっと……」


分からない。


でも身振りから、なんとなく意味を推測して答える。


男は時々眉をひそめながらも、紙を埋めていった。


僕の言葉も完全には伝わっていないはずなのに、どうにか会話そのものは成立している。

不思議な感覚だった。


単語そのものは分からない。

でも、何を聞かれているのかは、なんとなく分かる。


そして。


空欄が最後の一つになった。


男がペンを持ったまま僕を見る。


「おい、坊主。お前なんて名前だ?」


「…………?」


分からない。


今までの質問より、明らかに分からない。

男が僕を指さした。


そして最後の空欄を指さす。


「…………」


僕。

最後の空欄。

この流れなら――。


「愛さん」


隣を見る。


愛さんもちょうど、新人受付のお姉さんと話しているところだった。


「今なんて言ってるの?」


「ん?」


「なんとなく名前なのかな?ってのは分かるんだけど、合ってる?」


愛さんがこちらを見る。


「うん、そうだね。名前を聞かれてるのは……君だよ」


「キミか? 変わった名前だな」


「え?」


男が最後の空欄へ文字を書き込んだ。

キミ。


その瞬間。

登録用紙が淡く光った。


「…………」


男が一度、紙を見る。


何事もなかったように光は消えた。

男は印を押す。

ぽん。


「…………」


「…………」


僕は愛さんを見る。

愛さんも僕を見る。


「愛さん」


「なに?」


「今、この人……僕の名前をキミって書かなかった?」


「……書いたね」


「え?」


慌てて男に声をかける。


「違う違う! キミじゃなくて!」


「あ?」


「僕の名前! 名前がキミじゃなくて!」


必死に紙を指さす。

男もようやく何かがおかしいと気づいたらしい。

僕と愛さんを交互に見る。

愛さんが事情を説明する。

男の顔が、だんだん渋くなっていく。

そして完成した書類を見る。

登録そのものは、問題なく成立しているらしい。


「……何て?」


「登録は正常に完了してるって」


「じゃあ直してもらおうよ」


「それが……」


愛さんが珍しく言いにくそうにする。


「変更できないみたい」


「…………え?」


僕は男を見る。

男が頷く。


「なんで!?」


この世界では、名前を変えること自体がほとんどないらしい。


名字を持っている人そのものが少ない。


だからギルドの登録制度には、登録後に名前を変更する仕組みがない。


名字を持つ人が結婚しても、ギルドカードだけは登録時の名前を使い続けるのだという。


「じゃあ……」


嫌な予感がする。


「僕、これからずっとキミ?」


「そうなるね」


「キミって僕のこと?」


「今までも君は君だったよ」


「そういう話じゃないよ!」


愛さんが笑っている。

絶対ちょっと面白がってる。


「君」


「はい」


「キミ」


「…………はい」


「ほら、問題ない」


「大問題だよ!」


その時だった。

男が何か言った。


「…………え?」


僕は思わず男を見る。


「今……」


聞こえた。

いや。

聞こえたというより――分かった。


「今、『名前』って言った?」


男が怪訝そうに僕を見る。


「名前」


もう一度。

今度は、はっきり分かった。


「名前……」


僕はその言葉を繰り返す。

さっきまで知らなかった。

あの三人の冒険者たちからも聞いたことがない。

だから男に聞かれた時には意味が分からなかった。

なのに。

今は分かる。


「愛さん」


「うん」


「なんか……さっきより言葉が分かる」


愛さんの表情が少し変わった。


「どのくらい?」


「全部じゃないよ。でも……さっきより言葉が言葉として聞こえるっていうか」


男が何か言う。

登録。

その単語も分かった。

変更。

それも。

文章全部ではない。

知らない言葉も、まだたくさん混じっている。

それでも、霧の向こうにあった言葉が、少しずつ輪郭を持ち始めている。


「なんでだろう?」


「…………」


愛さんは少し考えたあと


「今は分からないね」


そう答えた。


「私にも分からないことはあるよ」



◇


登録の最後に、カードのようなものを渡された。

金属なのか石なのか分からない、不思議な材質だ。

指先に小さな針を刺し、一滴だけ血を落とすよう指示される。


「痛っ」


カードが淡く光った。

表面に文字が浮かび上がる。

まだ全部は読めない。


でも、男が読み上げた言葉は理解できた。


「キミ」


「…………」


もう僕なんだ。

諦めよう。

そして男の目が、その下で止まった。


「……?」


眉間に皺が寄る。

何かをもう一度確認するようにカードを見る。


「迷い人……?」


「迷い人?」


今の言葉は分かった。

男が僕のカードをこちらへ向ける。

そこには――。


名前:キミ

スキル:《迷い人》

と記されているらしい。


「スキル?僕の?」


男は答えず、カードを睨んでいた。


「愛さんのは?」


隣を見る。


新人受付のお姉さんも、愛さんのカードを見て固まっていた。


「……メイド?」


「うん」


愛さんが答える。


「メイドだね」


「……それ、スキルなの?」


「そう書いてあるみたいだよ」


この世界にもメイドはいるらしい。

職業としてのメイドが珍しいわけではない。

問題は――。


スキルとして《メイド》と表示されていることらしい。


酒臭い男が僕の《迷い人》を見る。


パイルが愛さんの《メイド》を見る。


二人が顔を見合わせた。

そして、ほぼ同時に僕たちを見た。


「……愛さん」


「なに?」


「なんか嫌な予感する」


「奇遇だね。私もだよ」



◇


僕たちは、ギルドの奥へ連れていかれた。

案内したのは、酒臭い男と受付さんだった。


「これって……」


「連行かな?」


「やっぱり?」


「悪いことはしてないと思うんだけどね」


やがて一つの部屋の前で止まった。

扉が開く。

中にいたのは、一人の男性だった。


「おお……」


思わず声が出た。

背が高く、細身。

服装にも隙がない。

立ち姿だけで分かる。

この人、絶対偉い人だ。


さっきの酒臭いおじさんとは大違いだ。


男性が静かに立ち上がった。

その動きに無駄がない。

椅子を引く音すら、ほとんどしなかった。

僕たちの前まで来ると、軽く一礼する。


「初めまして。副ギルドマスターのギルマス・セバスティンと申します」


「…………」


僕は頷いた。

それから。



首を傾げた。


「……副?」


「はい」


「ギルマスなのに?」


「はい」


どういうこと?

すると後ろから、酒臭い男が入ってきた。


「んで、俺がギルドマスターのギルド・マイスだ」


「…………」


僕は右を見る。

ギルマス・セバスティン。

副ギルドマスター。


左を見る。

ギルド・マイス。

ギルドマスター。


もう一度右を見る。

もう一度左を見る。


「逆じゃないの?」


「ぶっ……!」


後ろから変な音がした。

振り返る。


受付さんが口元を押さえている。


「…………っ」


肩が震えている。


「パイル」


受付の女性はパイルさんというらしい。


マイスさんが低い声を出す。


「も、申し訳……ございま……っ」


耐えられなかったらしい。


「ふふっ……あはははっ!」


パイルさんが吹き出した。


「お前なぁ!」


「だ、だって……申し訳ありません! でも……!」


ギルマスさん――副ギルドマスターの方は、顔色一つ変えない。


「お気持ちは理解できます」


「お前まで納得すんな!」


僕は愛さんを見る。


「やっぱり逆だよね?」


「君、追い打ちかけるのやめなよ」


しばらくして、どうにか笑いを収めたパイルさんは姿勢を正した。


「それでは、私は受付へ戻ります」


「ああ。悪かったな」


「いえ」


パイルさんは僕たちにも軽く頭を下げる。


「何かございましたら、受付までお声がけください」



「ありがとうございます」


僕が答えると、パイルさんは少し笑って部屋を出ていった。



◇


話は、僕たちのスキルへ戻った。


マイスさんが僕のカードを机へ置く。

ギルマスさんがそれを見る。


「《迷い人》……」


そして愛さんのカード。


「《メイド》……ですか」


その表情は変わらない。

でも、さっきまでとは空気が違った。


「メイドなら、この世界にもいるんですよね?」


僕が聞くと、ギルマスさんは頷いた。


「ええ。珍しい職業ではございません」


「じゃあ、普通じゃないですか」


「職業であれば、ですが」


「……あ」


「少なくとも、スキルとして《メイド》と表示される例を、私は存じません」


愛さんを見る。


「何ができるスキルなのでしょう?」


「さあ?」


愛さんがあっさり答えた。


「……分からないのですか?」


「私にも分からないことはあるよ」


ギルマスさんが、ほんの少し目を細めた。

僕の《迷い人》についても同じだった。

名前だけなら、何となく意味は分かる。


迷う人。


「それ、ただの僕じゃない?」


「否定はしないよ」


「してよ」


けれど、スキルとして何ができるのかは分からない。


町まで一日かかる森から、遺跡へ迷い込んだ話もした。

当然、説明はできない。

話せば話すほど、疑問ばかりが増えていく。


しばらくして、マイスさんが椅子の背にもたれた。


「……ったく。考えても分からねぇもんは分からねぇな」


大きく息を吐く。


「一旦休憩するぞ」


ギルマスさんも反対しなかった。

立ち上がろうとした、その時だった。


「お茶なら私が淹れるよ」


愛さんが言った。


「愛さんが?」


「うん。せっかく《メイド》って出たんだし」


「使い方分からないんじゃなかった?」


「お茶くらいなら淹れられると思うよ」


そう言って、愛さんは部屋の端に置かれていた茶器へ向かった。


僕は、なんとなくその様子を眺めていた。


愛さんが茶器を確認する。

茶葉を見る。

湯を用意する。

カップを並べる。

それだけ。

少なくとも僕には、そう見えた。


「へぇ」


「なに?」


「いや。普通に淹れられるんだなって」


「失礼だね」


愛さんはいつもの口調で答える。


でも。ギルマスさんだけは、さっきから何も言わなかった。

愛さんの動きを見ている。

じっと。

茶器の置かれた場所を一度確認しただけで、次から迷わない。


必要なものへ手を伸ばす順番に無駄がない。

人の前を横切らない。

誰がどこへ手を伸ばすかまで分かっているように、カップを置く位置まで少しずつ違う。

僕の前に置かれたカップは、自然に僕が取りやすい側へ向けられていた。


「はい、君」


「ありがとう」


一口飲む。


「……美味しい」


「そう? 良かった」


「愛さん、お茶淹れられたんだ」


「だから失礼だって」


「だって今まで、お茶なんて淹れてくれたことないよね?」


「身体がなかったからね」


「そりゃそうか」


「…………」


ギルマスさんが、カップへ伸ばしかけた手を止めた。


「……身体が、なかった?」


「あ」


僕は愛さんを見る。

愛さんも僕を見る。


「君」


「はい」


「余計なこと言ったね」


「僕なの?」


「君だね」


「愛さんが答えたんじゃ……」


「きっかけは君でしょ?」


否定できない。


ギルマスさんは、それ以上追及しなかった。

代わりに愛さんが淹れたお茶を一口飲む。

それから静かに尋ねた。


「……失礼ですが、どちらで、その作法を?」


「どこって言われても……」


愛さんが首を傾げる。


「特に習った覚えはないよ」


「そうなのですか?」


「うん」


そして僕を見る。


「でも、君をサポートすることなら得意だよ」


「僕?」


「どれだけ君をサポートしてきたと思ってる?」


「ああ……」


それなら納得できる。

僕は何度、愛さんに助けてもらっただろう。

道に迷った時。

調べものをした時。

課題で困った時。

どうでもいい話をした時。

そして――最後に迷った時も。

愛さんは僕のそばにいてくれた。

僕は納得した。


愛さんも普通にお茶を飲んでいる。

マイスさんも飲んでいる。


ただ一人。

ギルマスさんだけが、何かを考えるように愛さんを見ていた。



◇


「そういや」


休憩が終わったところで、マイスさんが思い出したように僕を見る。


「お前ら、今夜の宿はあるのか?」


「宿?」


今夜?泊まる場所?


「…………ないです」


「金は?」


「ないです」


「…………」


マイスさんが額を押さえた。


「お前、本当に何もねぇな」


「死ん――」


隣から肘が飛んできた。


「痛っ!」


「君」


愛さんが笑顔で僕を見る。


「なに?」


「なんでもないよ」


「絶対なんでもなくないよね?」


なぜかギルマスさんの視線まで鋭くなった気がした。


マイスさんは気にせず続ける。


「ギルド直営の宿泊所がある。登録したばかりの奴でも使えるから、今日はそこに泊まれ」


「でも、お金ないですよ?」


「分かってる。最初の依頼報酬から宿代を引くようにしとく」


「借金から始まるんだ……」


「野宿よりマシだろ」


「それはそうですね」


異世界生活一日目。

身分証を手に入れた。

名前も手に入れた。

そして借金も手に入れた。


順調なのだろうか。


「詳しい話はパイルに聞けば分かるからな。受付に戻ったら聞け」


「あ、パイルさんですね」


「そうだ」


マイスさんが僕たちのカードを返す。


「今日はもう休め。明日から依頼を受けりゃいい」


「分かりました」


愛さんと一緒に頭を下げる。


「ありがとうございます、マイスさん」


「おう」


僕たちは執務室を出た。



◇


「パイルさん」


受付へ戻ると、先ほどの新人受付嬢がすぐにこちらへ気づいた。


「はい。どうされました?」


「マイスさんから、宿泊所の詳しい話はパイルさんに聞けって」


「ああ、宿泊所ですね」


パイルさんは慣れた手つきで別の用紙を取り出した。


「ギルド登録者用の宿泊所が、裏手の通りにあります。基本は有料ですが……」


僕の書類を見る。


「あ、こちらですね。初回依頼の報酬から精算、と」


「もう書いてあるんですか?」


「はい。ギルドマスターから回ってきています」


仕事が早い。


飲んだくれなのに。


「何か?」


「いえ、何も」


危ない。


マイスさんに言ったら怒られそうだ。


パイルさんから宿泊所の場所と利用方法を教えてもらう。

食事について。

門限について。

荷物の管理について。

僕は半分くらいしか理解できなかったが、愛さんが横で補足してくれた。


「明日の朝、依頼を受けるのでしたら、またこちらへいらしてください」


「パイルさんに聞けばいいですか?」


「はい。私がいれば対応します」


「じゃあ、よろしくお願いします」


「こちらこそ」


パイルさんは受付嬢らしい笑顔で頭を下げた。


「お二人とも、今日はお疲れでしょうから。ゆっくり休んでくださいね」


この世界に来て初めて。

今夜眠る場所が決まった。



◇


ギルドを出る。

教えてもらった宿泊所へ向かって、僕と愛さんは並んで歩いていた。

今度は、ちゃんと隣だ。


「君」


「なに?」


「一つ決めておこうか」


「なにを?」


「さっきみたいな話」


「さっき?」


「私に身体がなかったとか」


「ああ」


「君がいた世界のことも、ここへ来る前のことも。人がいるところでは、迂闊に話さないようにしよう」


「確かに」


「この世界では、私たちの普通が普通じゃないみたいだからね」


「分かった。気をつけるよ」


「うん」


愛さんが頷く。

数歩歩く。


「…………」


「なに?」


「いや」


愛さんが僕を見る。


「……まあ、君だからなぁ」


「なんでそこで信用なくすの?」


「信用はしてるよ」


「じゃあ何?」


「心配してるだけ」


「同じじゃない?」


「違うよ」


「そうかなぁ」


「そうだよ」


納得できない。


でも。

愛さんがそう言うなら、気をつけよう。

僕だって、この世界で余計な騒ぎを起こしたいわけじゃない。


「ところで愛さん」


「なに?」


「宿ってどっち?」


愛さんが立ち止まった。


「…………」


「…………」


「君」


「はい」


「さっきパイルさんから聞いたよね?」


「聞いた」


「じゃあ、なんで反対に歩いてるの?」


「…………」


振り返る。


「ここどこ?」


「もう始まったよ……」


愛さんのため息が聞こえた。



◇


二人がギルドを出てしばらくして。

執務室には、二人の男だけが残っていた。

ギルドマスター、ギルド・マイス。

そして。

副ギルドマスター、ギルマス・セバスティン。

机の上には、二枚の登録書類が置かれている。


「……ギルド」


「あ?」


「あの二人を、どう思われますか?」


「変な奴らだな」


「そういう話をしているのではありません」


「分かってるよ」


マイスは椅子へ深く座り直した。

ギルマスは、キミの登録書類へ視線を落とす。


「《迷い人》」


次に、アイの書類。


「《メイド》」


静かな声だった。


「少なくとも、私はどちらのスキルにも覚えがございません」


「俺もねぇな」


「それだけではありません」


ギルマスの脳裏に、先ほどの光景が蘇る。

アイが茶器の前へ立った瞬間。

迷いが消えた。

一度見ただけで道具の配置を把握し、誰にも尋ねず扱った。

無駄のない動線。

相手の動きを先読みした配膳。

何より。

あれほど自然に行われる所作を、ギルマスはよく知っていた。


「彼女の作法は、素人のものではございません」


「お前が言うなら、そうなんだろうな」


「それでいて、本人には習ったという認識がない」


「《メイド》のせいか?」


「分かりません」


ギルマスが答える。


「そして、『身体がなかった』」


「…………」


「さらに、彼女はキミに対して『どれだけ君をサポートしてきたと思っている』と」


「長い付き合いってことだろ」


「少なくとも、今日出会った関係ではありません」


「ああ」


「にもかかわらず、素性はほぼ不明」


ギルマスが二枚の書類を見る。


「危険と断定はできません。しかし、警戒する理由は十分にございます」


マイスは黙って聞いていた。


やがて。

頭を掻く。


「まあ、お前の言うことは分かる」


「でしたら――」


「それにもう登録してしまったしな」


ギルマスが口を閉じる。

マイスは二枚の書類を見た。


「あいつらは俺の管轄だよ」


「…………」


しばらく沈黙が続いた。


やがてギルマスが小さく息を吐く。


「貴方なら、そう仰ると思いましたよ」


「だったら聞くな」


「確認は必要です」


「ったく……」


マイスは立ち上がった。

そして食堂の方を見る。


「酒でも飲むか」


「まだ仕事が残っております」


「休憩だよ、休憩」


「先ほども休憩なさったばかりでしょう」


「細けぇなぁ」


「仕事ですので」


いつものやり取り。


ただ。

机の上には、これまでこのギルドになかった二つの名前が並んでいた。

キミ。

アイ。

そして二つの、妙なスキル。

《迷い人》。

《メイド》。


この時はまだ。

誰も知らなかった。

その二つがどれほど珍しいものなのかを。

それが分かるのは――。


キミとアイが、この世界で初めての依頼を終えた後のことだった。


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