表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『炯眼(けいがん)の馬医 ―異世界朝鮮・泥中に咲く龍の譜―』   作者: 水前寺鯉太郎
第1部

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

14/50

第14話

路地が暗かった。


足音が聞こえた時には、もう囲まれていた。


私兵だった。ミョンファンの顔は見えなかった。声だけがした。


「チニョンの心を乱すな」


それだけだった。命令というより、確認だった。既に決まっていることを告げる声だった。


棍棒が、右腕に落ちた。


音が先だった。バキッという音を聞いてから、痛みが来た。痛みというより、右腕が自分のものでなくなった感覚だった。地面に膝をついた。立ち上がろうとしたが、右腕に体重をかけた瞬間、視界が白くなった。


私兵たちが去った。


クァンは路地の壁に背をつけて座っていた。右腕を左手で押さえた。動かなかった。動かそうとすると、骨が鳴った。


試験は明日だった。


---


翌朝、チャン・クネが腕を診た。


「骨が割れている」


クネは泣いていた。声は静かだったが、目が赤かった。


「今日の実技試験は無理だ。辞退しろ。今すぐ辞退しなければ、この腕は二度と動かなくなる」


クァンは腕を見た。


腫れていた。紫になっていた。指に力が入らなかった。鍼を持てるかどうか、分からなかった。


「行きます」


クネが顔を上げた。


「ここで引けば」


言葉が出なかった。出なかったのではなく、言葉にならなかった。ここで引けば、誰の顔を、という文章の続きが、多すぎた。ソックの顔。コ・ジュマンの顔。チニョンの顔。夜ごと書庫で向かい合った顔。


「行きます」


もう一度だけ言った。


---


典医監の試験場。


銅製の像が、台の上に立っていた。


等身大だった。全身に経穴の穴が開いていた。内部に水が満たされ、表面に蜜蝋が塗られていた。正確な位置に、正確な深さで鍼を打てば水が出る。外れれば何も起きない。医官ですら十に一か二しか当てられない試験だった。


クァンが入ってきた時、会場が静まった。


右腕を布で吊っていた。顔が白かった。冷や汗が首筋を流れていた。


嘲笑が聞こえた。何か言っている者もいた。聞かなかった。


壇上にミョンファンがいた。見なかった。


鐘が鳴った。


クァンは右腕の布を解いた。


だらりと落ちた。観衆から声が上がった。


左手で像に近づいた。注ぎ口に体温で温めた白湯を入れた。内部の温度が変わる。外との温度差が生まれる。蜜蝋の表面に、見えないほどの湿りが出る。経穴が、呼吸している場所だけ。


老医師の声が耳の奥に鳴った。


*命の道は、目に見える形だけではない。熱があり、流れがあり、引き寄せる力がある。*


指を像の表面に当てた。


温度を読んだ。流れを読んだ。馬の首筋で脈を探した時と同じやり方だった。生きているものには、通り道がある。その道が、ここにもあった。


見えた。


銀鍼を口に咥えた。


右手を持ち上げた。左手で支えた。骨が鳴った。視界が揺れた。


飲み込んだ。


口から鍼を取り、指に挟んだ。感覚がなかった。だが指は覚えていた。何百回も繰り返してきた角度を、指が知っていた。


体重を肩に乗せた。肩から腕に流した。腕の先の、感覚のない指先に、全部預けた。


刺した。


金属の音がした。


水が出た。


胸元の経穴から、細い水の線が噴き出した。


誰かが息を呑んだ。


クァンは止まらなかった。


次の経穴を探した。温度を読んだ。刺した。水が出た。また次を探した。骨が軋んだ。右腕が震えた。左手で押さえた。それでも刺した。


一つ。また一つ。


痛みは、最初から限界を超えていた。だから、もう痛みで止まることはなかった。越えた後は、ただ動き続けるだけだった。


全部、打ち終わった。


銅人経が全身から水を噴いていた。


細い線が、何本も、像の表面を流れ落ちた。静かな水音が会場に響いた。


誰も喋らなかった。


試験官の声が聞こえた。


「全打中」


間があった。


「合格。ペク・クァン、合格」


誰かが叫んだ。次に何人かが叫んだ。それから会場全体が音になった。


クァンは像の前に立ったまま、動かなかった。


立っていられるうちに、見ておきたかった。銅人経から水が流れる光景を。自分の手が打った鍼から、水が出る光景を。


膝が折れた。


地面に膝をついた。右腕が体の脇に落ちた。視界が揺れた。


その揺れの中に、チニョンの顔があった。


泣いていた。声を上げずに泣いていた。口を押さえて、目だけが濡れていた。


クァンはその顔を見た。


ただ見た。


笑う力はなかった。頷く力もなかった。ただ、見つけたということだけを伝えた。目の動きだけで。


チニョンが頷いた。


---


壇上でミョンファンが立っていた。


手すりを掴んでいた。指が白くなっていた。


折ったはずの腕が、動いた。水が出た。合格した。その事実が、積み上げてきた何かを、一点だけ崩した。一点だけだった。だが、崩れた場所から、初めて見たものがあった。


恐怖だった。


この男が何者か、まだ分からなかった。だが、潰せる相手ではなかった。潰せなかったことが、分かった。


ミョンファンは立ち上がり、会場を出た。


足音が、いつもより速かった。


---


コ・ジュマンが群衆の端にいた。


何も言わなかった。クァンを見て、それから銅人経を見た。全身から水が流れる像を、しばらく見ていた。


それから、静かに背を向けた。


泣いているようには見えなかった。見えなかっただけかもしれなかった。


---


チャン・クネが駆け寄ってきた。


クァンの右腕を見た。腫れが、行く前より増していた。


「この腕を、今日中に治さないと」


「はい」


「痛いだろう」


「はい」


「……よくやった」


クァンは何も言わなかった。


クネの手が右腕に触れた。その瞬間だけ、目を閉じた。


痛みではなかった。この手を、どこかで知っていた。この指の使い方を、どこかで見ていた。見ていたはずがない。それでも、知っていた。


何かが、繋がっている。


言葉にはならなかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ