傲慢な欲
ルベルの瞳に映ったのは、傷だらけのルミエルだった。
全身に刻まれた無数の傷跡。痛みに耐えるように、小さな歯を固く食いしばっている。
その痛々しい光景を網膜に焼き付けたまま、ルベルはゆっくりと視線を上げた。
その鋭い眼光が、目の前に佇むエリックを真っ直ぐに射抜く。
「やっと来たのか。お前のおもちゃで、少々遊ばせてもらったぞ」
地面に転がるルミエルを見下ろし、エリックは蔑むように口元を歪めた。
その言葉が終わるより早く、ルベルは掴んでいたエリックの足に、容赦なく力を込める。
ミシ……、ミシミシ……ッ。
骨が軋む鈍い音が周囲に響く。だが、エリックの表情は微動だにしない。
「……誰が、おもちゃだ」
低く、地を這うような押し殺した声。
エリックはせせら笑った。
「そこに転がっている、人形のこと以外にあるか?」
次の瞬間、エリックの足元から爆発的な炎が噴き上がった。
握られた箇所から凄まじい熱量が膨れ上がり、周囲の空気を一瞬で焦がしていく。ルベルは熱を感知した刹那、迷わず手を離した。
そして、崩れ落ちそうになっていたルミエルを、壊れ物を扱うように優しく抱き上げる。
腕の中に収まったルミエルは、まるで親鳥に命を委ねる雛のように羽を畳み、必死にルベルの胸へと縋りついた。震える指先が、彼の服をぎゅっと掴む。
その健気で痛々しい姿を見つめ、ルベルは小さく息を吐いた。
「よくやった。成長したな、ルミエル」
異形の羽を見ても、ルベルの瞳に嫌悪や躊躇の色は一切ない。ただ静かに、愛おしそうに彼女を抱き寄せた。
その光景を目にしたエリックの顔が、不愉快そうに歪む。
ギリッ、と不快な音を立てて歯を鳴らした。
「おい。何も出来ていない人形を、そう簡単に褒めるな」
ルベルは一瞥もくれない。
身に纏っていた上着を滑らかに脱ぐと、そっとルミエルの身体を包み込んだ。
「……さっきから聞いていれば、お前の汚い言葉遣いは、娘に聞かせるものではないな」
ルベルは上着越しに、ルミエルの耳をそっと掌で塞いだ。
遮られた世界の中で、エリックの顔が怒りで引き攣る。
「娘に気を遣ってどうする! だから、あの娘達があんなに貧弱に育つんだ!」
「カリナとオニキスは、貧弱などではない」
静かだが確固たる反論。
それを聞いた瞬間、エリックの腹の奥からどす黒い熱が込み上げた。
「貧弱で脆弱だ!」
吐き捨てるような怒声。
「あの娘達は失敗作だ。俺の攻撃を防ぐこともできず、魔法も、我が一族の証たる『穢魔』すら覚醒しなかった!」
能力の有無だけで我が子を切り捨てる言葉。そこには、親が子を想う情など微塵も存在しなかった。
エリックはさらに口角を吊り上げる。
「だが、お前が拾ってきたその人形は違う」
エリックのぎらついた視線が、ルベルの腕の中にいるルミエルへと注がれる。
「悪魔と天使の混血。しかも、穢魔と聖炎を併せ持つ化け物だ」
愉悦に満ちた笑い声が響く。
「大きくなったら……俺の子供を産ませよう」
その下劣な評価を耳にした瞬間、ルベルの五臓六腑が怒りで煮えくり返った。だが、声だけは冷徹なまでに静かだった。
「お前は、この娘の価値を何も分かっていない」
「分かっていないのは、お前の方だ」
エリックの瞳が細く光る。視線はルミエルの羽の先端へと釘付けになっていた。
橙色に染まった羽先。それはあまりにも異質であり、通常の天使とは明らかに一線を画していた。
「普通の天使の羽じゃない」
エリックは確信に満ちた笑みを浮かべ、静かに呟いた。
「──太陽の象徴」
ルベルの呼吸が、わずかに止まる。
「──天使族の、真の姿だ」
その言葉が引き金となり、ルベルの脳裏に、かつて耳にした忘れかけの伝承が鮮明によぎった。
しかし、ルベルの心が揺らぐことはない。
「もし、そうだったとしても──俺がルミエルを手放す道理はない」
静かで、しかし地中深くにとおった杭のように揺るぎない拒絶。
エリックは冷酷に笑う。
「敵である種族を庇うと? どれだけ世界に受け入れられると思っている?」
悪魔と天使。両種族の間に流れる血の因縁は、一朝一夕で覆せるものではない。長い対立の歴史が、この世界の構造そのものに深く染み付いている。
その狂気の中で、ルベルはルミエルに関する“もう一つの決定的な事実”をあえて心の奥底に隠したまま、毅然と言葉を返した。
「信じるさ。それに──」
ルベルは、冷徹な嘘を紡ぐ。
「半分は、お前の大好きな“悪魔の血”も流れている」
真っ赤な嘘だ。ルミエルは悪魔と天使の子などではない。天使と、人間の子どもだ。
だが、強欲に目を眩ませたエリックは、その言葉を疑いなく飲み込んだ。
「あぁ、そうだったな」
エリックは薄く、残忍に笑う。
「ではここからは、その“人形”を賭けて命のやり取りといこうか? 数年前の決着も、ここでつけてやる」
ルベルは一瞬だけ沈黙した。
そして──その口元を、獰猛にニヤリと釣り上げた。
「そうだな。俺もそろそろ、お前の相手をするのには飽きていたところだ」
瞬間、二人の間の空気が爆発的に変貌した。
ルベルとエリック。二つの圧倒的な殺気が同時に膨れ上がり、激突する。
生じた風圧が、爆鳴と共にあたり一帯を激しく吹き飛ばした。
先に動いたのはエリックだ。
その手に、大気を裂くようにして黒い炎の鎌が現れる。
触れたものを焼き切る、禍々しい刃。
それを迷いなく振り上げ、ルベルへ叩きつけた。
だがルベルは動かない。
右手に穢魔を纏い、そのまま鎌を受け止める。
金属音は鳴らない。
代わりに、黒炎が圧力に押し潰されるように歪み、形を失っていく。
そしてルベルは静かに言った。
「やっぱり俺の方が、強いみたいだな」
その言葉と同時に、ルベルの右手の穢魔が、鎌の炎を逆流するように飲み込み始めた。
エリックの鎌が形を変える。
黒い穢魔が液体のようにうねり、ルベルの右手を覆う穢魔へと覆い被さった。
ジジジッ――。
互いを拒絶するような音が響く。
異なる性質を持つ二つの穢魔。
その境界に、小さな白い光が生まれた。
光は不安定に明滅しながら急速に膨れ上がっていく。
ルベルは眉をひそめた。
危険を察した瞬間、迷わずルミエルを抱き寄せる。
両腕でその小さな身体を包み込み、自らが盾となるように身を翻した。
次の瞬間――
轟音。
限界まで膨れ上がった二つの穢魔が激しく反発し、爆発する。
衝撃波が大地を抉り、周囲の木々を大きく揺らした。
ルベルはルミエルを抱えたまま後方へ飛ぶ。
爆風が背中を叩く。
それでも腕の力を緩めることはない。
腕の中の少女だけは、何があっても守り抜くというように。
ルベルは暗い森の奥へ視線を向けた。
「ルミエル、エルと一緒に離れろ」
ルミエルも森へ目を向ける。
だが、そこには誰の姿も見当たらない。
「でも……誰もいないよ?」
ルベルは何も答えず、ルミエルをそっと地面へ下ろした。
その直後――
ガサリ。
木々の隙間から、一人の青年が姿を現す。
さっきまで誰もいなかったはずの場所だ。
ルミエルは、いつの間にか隣に立っていたエルのもとへ駆け寄った。
エルはルベルへ一礼する。
「主君……ルミエル様をお連れいたします」
その言葉を聞いたエリックの瞳が細められる。
「行かせると思うか?」
エリックは指先を軽く振った。
直後、小さな黒い火玉が生まれ、ルミエルとエルへ向かって一直線に飛ぶ。
エルは表情一つ変えない。
静かに片手を掲げると、空中に鋭い水の矢が形成された。
「失礼します」
放たれた水の矢は黒い火玉へ真っ直ぐ突き進む。
両者が激突した瞬間――
ジュッ!
黒い火玉は貫かれ、大量の白煙を噴き上げた。
水の矢もまた、その熱に耐えきれず蒸発して消える。
白い煙だけが、その場に濃く立ち込めた。
「成長したようだな」
エリックは口元を歪める。
「俺の穢魔を、ただの水魔法で相殺するとは」
その視線がエルを射抜く。
「俺の側に来い」
あまりにも傲慢な勧誘だった。
エルは小さくため息をつく。
「お断りいたします」
表情一つ変えずに続けた。
「エリック様は、ルベル様以上にお仕えするのが大変そうですので」
エリックの眉がわずかに動く。
その瞬間――
二人の間へルベルが一歩踏み込んだ。
「人のものを欲しがりすぎるのは感心しないな」
低い声だった。
だが、その一言だけで空気が張り詰める。
次の瞬間、ルベルの足元から暴風が吹き荒れた。
渦を巻く風が地面を削り、土砂を巻き上げる。
砂煙は瞬く間に周囲へ広がり、視界を塗り潰した。
エルはその意図を即座に理解する。
「ルミエル様、こちらへ」
ルミエルの手を取り、砂煙の中へ身を滑り込ませた。
気配を消しながら距離を取る。
その場に残ったのは、互いを睨み合うルベルとエリックだけだった。




