幼き日々にお別れを
夜が更ける。
本来なら静寂が支配するはずの時間。だが今夜、この空間を支配しているのは、肌を刺すような緊張と濃厚な殺気だった。動物も虫も、命の危機を察して息を潜めている。
ルベルは、ルミエルとエルの気配が完全に遠ざかったのを確認した。
それで、もう枷は外れた。
ドン、と。
押し殺していた殺気が爆発的に解放される。大気が軋み、目に見えない圧迫感が周囲を圧する。
瞳に宿るのは、愛する娘を傷つけられた父親の、底なしの怒りだ。
エリックが、自身の殺気をぶつけるようにして笑った。
「さっきまでの余裕はどこへ行った? あの人形の前で、いい父親のフリをするのは疲れたか?」
ルベルの髪が跳ね、上着が激しくはためく。足元から巻き上がった風が、夜の闇を切り裂く。
「そうだよ」
吐き捨てられた声は、凍りつくほどに冷たい。
「今すぐお前を切り刻みたくて、堪らなかった」
父親の仮面は剥がれ落ちた。
吊り上がった瞳、獲物を射すくめる猛獣の眼光。
エリックは歓喜に肩を揺らした。
「やっぱり、そっちの顔の方がお似合いだ。……俺と同じ顔をしてるぜ?」
向かい合う二人。
怒りに狂う瞳と、獰猛に歪む唇。
それはまるで、合わせ鏡の中に閉じ込められた、よく似た二匹の獣だった。
「お前と同じにしてもらいたくないな」
ルベルは吐き捨てる。その冷徹な拒絶に、エリックは狂気を孕んだ笑みをさらに深めた。
「何を言っている? 俺たちには同じ血が流れているんだ。似ていて当然だろう?」
「お前と話していると、俺まで狂気に染まりそうだ」
――これ以上、言葉を交わす価値もない。
ルベルが右手を軽く振る。それだけで、周囲の暴風が猛獣のように唸りを上げた。
渦巻く風の中から無数の『風刃』が生まれ、全方位からエリックへと殺到する。
だが、エリックは動じない。紙一重の最小限の体捌きだけで、迫る真空の刃をすべて躱していく。
「叔父上、身内との会話はもうおしまいか?」
エリックは不敵に笑いながら、指先にパチパチと極小の火玉を生み出した。
次の瞬間――火玉が銃弾を超える速度で弾け飛ぶ。
ルベルは即座に風の壁を幾重にも分厚く展開した。暴風が壁となって咆哮する。
しかし、火玉は止まらない。荒れ狂う風の防壁を無理やり焼き千切りながら、真っ直ぐルベルの眉間へ迫る。
「ッチ……!」
危険を察知したルベルは舌打ちし、一瞬の隙を突いて左へと身を滑らせた。
直後、火玉は遮蔽物を貫通し、背後の大木へ吸い込まれる。
一瞬の静寂。幹に小さな穴が開いた――そう見えた次の瞬間。
木の内部に凝縮されていた熱量が爆発的に膨れ上がり、轟音と共に木片が四方へと炸裂した。
ルベルは背後の爆炎を振り返ることもせず、エリックへ向けて容赦なく追撃の風刃を放つ。
「少しは怯んだらどうだ!」
エリックは口元を歪め、絶え間なく指先から火玉を連射した。
鋭利な風と、圧縮された炎が正面から激突する。眩い閃光が弾け、凄まじい衝撃波が周囲の闇を吹き飛ばした。
その光の檻を突き破り、エリックが地面を強く踏み込む。
瞬間、大地に生々しい亀裂が走り、その割れ目から煮え立つような業火が噴き上がった。
ルベルは即座に足裏へ風の圧力を集中させる。
身体がふわりと宙に浮き上がり、噴き出す炎の舌を避けるように、高速で後方へと滑空した。
「逃げ足だけは一人前だな!」
エリックは自身の足裏から爆発的な炎を噴出させた。
火花を散らして地面を蹴る。地を駆ける亀裂さえも置き去りにする超加速。推進力を得たエリックの身体が弾丸と化し、一瞬でルベルとの距離をゼロにする。
「少しは腕を上げたようだが……これならどうだ!」
漆黒の穢魔で形作られた巨大な斧が、ルベルの頭上から振り下ろされる。
だが、ルベルの反射速度も限界を超えていた。
自身の両手足に穢魔を纏わせ、肉薄する斧の側面を強烈に殴りつける。
ガキィィン! と硬質な音が響き、斧の軌道が強引に逸らされた。
「この程度、余裕だ」
ルベルはそのまま流れるような動作で、エリックの無防備な横腹へと鋭い蹴りを叩き込む。
エリックは咄嗟に斧の具現を解除し、両腕を交差させてそれを防いだ。
鈍い衝撃音が夜の森に響き渡る。
互いの穢魔が激突し、反発し合う白い光が爆発を起こした。
だが、ルベルの猛攻は止まらない。
反動を利用して身体を反転させる。その背後には、いつの間にか無数の風刃が漆黒の夜空を埋め尽くしていた。
爆発の煙を切り裂き、密度を増した真空の嵐がエリックへと襲いかかる。呼吸すら許さない連続攻撃。
エリックは右足からの推進炎をさらに強め、身体を強引に捻りながら風刃の雨を紙一重で回避していく。そして、その回転の勢いをすべて乗せた強烈な回し蹴りをルベルへ叩き込んだ。
完全に体勢が整っていないルベル。
それでも瞬時に判断し、自身の前面に「風の膜」を展開する。ただの盾ではない。表面で無数の風刃が幾重にも高速回転する、攻防一体の『刃の盾』。
ドンッ!!!
エリックの蹴りが激突し、凄まじい衝撃がルベルの腕を痺れさせる。
だが同時に、盾の表面で荒れ狂う風刃が、エリックの脚の肉を容赦なく切り裂いた。
「ぐ……っ!」
エリックは顔を歪め、手のひらから炎を放射してその反動で後方へと大きく跳躍する。
完全には逃げ切れず、引き裂かれた脚から鮮血が宙に舞った。
着地したエリックは、制服を赤く染める傷口を一瞥し、狂気的な笑みを浮かべて鼻で笑う。
「……チッ、微々たる擦り傷か」
エリックは、騒がしくなり始めた屋敷の方へと視線を向けた。
遠くから近づく複数の気配。どうやらルベルたちの援軍が到着したらしい。
「お前たちの身内が来たようだな。……フッ、そろそろ引き時か」
つまらなそうに呟き、エリックは踵を返そうとする。
だが、ルベルがそれを許すはずもなかった。
「逃がすと思うか!」
凄まじい脚力で地面を蹴り、一気に距離を詰める。風を纏ったルベルの突進は文字通り疾風の如き速度だった。
しかし、エリックは口元を三日月のように歪めた。
逃げるどころか、自らも一歩前へ踏み込む。そして、必殺の勢いで伸ばされたルベルの腕を、吸い付くような正確さで掴み取った。
「逃げられるさ。――なぁ、ルベル?」
次の瞬間、エリックの軸足が爆発的に跳ね上がった。
死角から鋭く放たれたローキックが、ルベルの足元を強烈に払う。
完璧なタイミング。ルベルの体勢が崩れ、その身体がわずかに宙へ浮いた。
「じゃあな」
ニヤリと、甥をあざ笑うような歪んだ笑みを浮かべる。
エリックは空いた手で懐から黒ずんだ魔石を取り出すと、容赦なく地面へと叩きつけた。
パキィィィン!!!
鼓膜を破るような硬質な破裂音と共に、爆発的な閃光が炸裂する。
夜の闇が一瞬で消し飛び、世界が真っ白な光の中に埋没した。
「く……っ!」
網膜を灼くほどの激しい光に、ルベルは咄嗟に腕を交差させて目を庇うしかなかった。
次に目を開けたときには、エリックの姿は跡形もなく消え失せていた。
「……チッ!」
ルベルは奥歯が軋むほど強く噛み締める。
無意識に強く握り締めていた拳から、乾いた砂がさらさらと指の隙間から零れ落ちた。
――逃がした。
その事実が脳裏をよぎった瞬間、ルベルはやり場のない憤怒を乗せて、拳を地面へと叩きつけた。
ドォォォン!!!
凄まじい轟音。
ルベルの放った風の圧力が爆発し、大地が大きく抉れ、蜘蛛の巣のような無数の亀裂が周囲へと一瞬で走った。
カリナとオニキスの奪還という、当初の目的は果たした。
何より、ルミエルとエルは無事だ。守るべきものはすべて守り抜いた。
本来なら、勝利と言っていい結果のはずだった。
だが――。
胸の奥に燻る、どす黒い怒りは微塵も消え去ってはくれない。
愛する娘たちを脅かされ、傷つけられた。そして、その元凶であるエリックを、この手で引き裂くこともできずに取り逃がした。
その苦い事実だけが、鉛のように重く心に沈殿していた。
激闘の熱を冷ますように、夜風が静かに吹き抜けていく。
だが、荒涼とした闇の中で、ルベルの瞳に宿る冷徹な憤怒だけは、いつまでも激しく燃え続けていた。
エリックを取り逃がしてから、二週間の月日が流れた。
あの激闘の夜を境に、ルミエルと双子の絆は以前にも増して深いものになっていた。
あの日負った心の傷を互いに埋め合うかのように、三人はいつも寄り添い、穏やかな時間を共に過ごしている。子供たちの弾けるような笑顔だけが、今の救いだった。
一方で、ルベルたちはエリックが拠点としていたあの屋敷の捜査を、休むことなく続けていた。
主を失い、もぬけの殻となった忌まわしい洋館。
だが、その静寂の奥には、見る者の正気を疑わせるような、目を背けたくなる光景が隠されていた。
地下深くへと続く階段の先に広がっていたのは、巨大な実験室。
立ち込める不気味な薬品の臭いと、冷徹な機械音だけが響く空間に、無数の巨大な培養槽が整然と並んでいる。
淡く緑色に光る培養液の中。そこに沈められていたのは、獣人、人間、そして天使――。
種族の垣根すら超え、あらゆる者たちが、まるで冷酷な蒐集家の標本のように液体の中に漂っていた。
だが、そのなかの誰一人として、もう息をしてはいない。
陽の光の届かない冷たい檻の中で、彼らはただ、尊い命だけを無残に搾取され、失われていた。
誰よりも自らの血を愛し。
誰よりも圧倒的な強さを求めた男。
その悍ましき執着の果てが、この血生臭い地下室だった。
乱雑に散らばる机の上には、膨大な量の研究資料が残されている。
遺伝子操作、能力の継承、非道な肉体改造――。
常人なら一瞥しただけで精神を病むような禁忌の記録が、山のように積み上げられていた。
商用、あるいは強奪によって集められた実験体の記録。
だが、その多くに共通して記されている、狂気に満ちた言葉がある。
――血統。
――継承。
――より強き存在。
もしかすると、エリックは実の我が子であるカリナとオニキスだけでは、満足できなかったのかもしれない。
自分の血を分けた子供たち。その存在すらも、自らの血統をさらなる高みへと進化させるための、通過点に過ぎなかったのではないか。
主が消えた今となっては、その邪悪な本心を確かめる術はない。
だが、一つだけ、あまりにも残酷で確かな真実がある。
この血に塗られた屋敷には、数え切れないほどの無辜の命が眠っていた。
そのすべてが、エリックという一人の怪物の『理想』のために、弄ばれ、搾取され、使い捨てられた命だった。
そして、その異常なまでの執着は、確かにルミエルたちの平穏な運命を狂わせていたのだ。
失われたものは戻らない。守られた幼い日々は、もう終わった。
刻まれた心の傷跡が、完全に消え去ることもないだろう。
――それでも、彼女たちは前を向く。
過酷な過去を背負いながらも、互いの手を携えて、まだ見ぬ新たな未来へ向かって、彼女たちは一歩を踏み出す。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
ルミエル幼少期編は、これにて完結となります。
当初はここで一区切りの予定でしたが、今後の反響やご感想を参考にしながら、続編となる「少女期編」の執筆も検討しております。
もし続きを読みたいと思っていただけましたら、感想や応援をいただけると励みになります。
改めまして、ここまでルミエルたちの物語にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。




