血筋と価値
ガチャリ――
その音だけが、やけに大きく響いた。
オニキスとカリナの耳が跳ねる。
尻尾が、ぴんと張り詰めた。
扉が、ゆっくりと開く。
現れたのは――白いスーツの男。
黒い上着を無造作に羽織り、足音も立てずに踏み込んでくる。
赤い瞳が、まっすぐに二人を射抜いた。
長い髪は後ろで束ねられ、首元で揺れる。
刻まれた皺が、その視線の鋭さを際立たせていた。
一歩、近づく。
空気が、重く沈む。
――似ている。
あまりにも。
カリナの喉が、わずかに鳴った。
「――会うのは、久しぶりだな」
低い声が、空気を撫でた。
男の視線が、ゆっくりとオニキスとカリナを舐めるように往復する。
二人の表情が強張る。
尻尾が、ぶわりと膨れ上がった。
「そう警戒するな」
男は、口元だけで笑う。
「俺の――大事な娘達だろう?」
その言葉に、空気が冷えた。
オニキスは一歩前に出る。
体が軋み、黒豹の姿へと変わる。
低く、喉を鳴らした。
「……近づかないで」
男の目が、わずかに細くなる。
「態度は、随分大きくなったな」
一歩、踏み出す。
「試してみるか――どこまで通用するか」
次の瞬間。
男の姿が、消えた。
視界が追いつかない。
――いや。
気づいた時には、もう“そこにいた”。
目の前。
振り上げられた拳。
避ける間もない。
オニキスの体が、宙を舞った。
鈍い音が、遅れて響く。
地面に叩きつけられ、息が詰まる。
動けない。
「……まだ弱いな」
男は、興味を失ったように手を払う。
「これから毎日、鍛え直してやる」
その声音に、情はなかった。
ただの――所有物を見る目だった。
カリナは、弾かれるように駆け出した。
「オニキス!」
地面に叩きつけられた身体に、手を伸ばす。
「やめて! 離れて!」
声が震える。
それでも、男から目を逸らさない。
その瞳が――大きく揺れていた。
「……カリナか」
男は、ゆっくりと視線を落とす。
「大きくなったな」
一歩、距離を詰める。
カリナの肩が、びくりと揺れた。
「顔立ちは、母親に似たか」
指先が伸びる。
逃げる間もなく――頬を、掴まれた。
「っ……!」
強引に顔を上げられる。
至近距離。
逃げ場はない。
「だが――その目」
男の視線が、じっとカリナの瞳を覗き込む。
「怒りに染まった赤は……俺と同じだな」
カリナの呼吸が乱れる。
振り払おうとするが、びくともしない。
「やめ……て……!」
声が掠れる。
男は気にも留めない。
そのまま、ちらりとオニキスへ視線を流した。
「……力は、あちらの方が上か」
品定めするような目。
値踏みするような沈黙。
「なるほどな」
手が離れる。
カリナの体が、よろめいた。
「私の甥は――随分と甘やかしたらしい」
わずかに、口元が歪む。
「昔みたいに」
一歩、踏み出す。
「――ちゃんと、躾け直してやる」
その声に、温度はなかった。
ただの宣告だった。
「ふざけないで」
カリナの声が、震えながらも響く。
「私達は――あんたの所有物じゃない!」
牙を剥き、睨みつける。
次の瞬間。
乾いた音が、空気を裂いた。
カリナの顔が、大きく横へ弾かれる。
視界が揺れる。
遅れて、焼けるような痛みが走った。
「――誰に向かって口を利いている」
低く、押し潰すような声。
「俺はお前達の親だ」
男は、ゆっくりと鞭を引き抜く。
革が擦れる音が、やけに大きく響いた。
「親には従うように――教えただろう?」
空気が、張り詰める。
カリナの肩が、びくりと震えた。
視線が、無意識に鞭へ落ちる。
呼吸が乱れる。
そして――
頭を抱え、体を丸めた。
「……っ」
反射だった。
考えるより先に、身体が動いている。
「カリナ……!」
オニキスが、無理やり体を起こす。
痛みに歪む身体を引きずりながら、二人の間に割って入った。
「お、お父様……」
声が掠れる。
それでも、頭を下げる。
「すみません……カリナには、私から言い聞かせます」
沈黙。
張り詰めた空気。
やがて、鞭がゆっくりと下ろされる。
男が、一歩近づいた。
影が、覆いかぶさる。
手が、伸びる。
オニキスの肩が、びくりと跳ねた。
反射的に――目を閉じる。
歯を食いしばる。
来るはずの痛みを、待つ。
だが。
――来ない。
代わりに。
重く、頭に触れる手。
「……オニキスは、昔から理解が早い」
ゆっくりと、撫でられる。
「良い子だ」
その声は、優しい響きをしていた。
けれど――
温もりは、ない。
撫でる手は、逃げ場を奪うように。
上から、押さえつける。
従順であることを――肯定する手だった。
「カリナ……後でオニキスに礼を言うんだな」
男は、興味を失ったように呟くと――
そのまま椅子に腰を下ろした。
軋む音が、やけに大きく響く。
足を組み、頬杖をつく。
完全に、この場を支配する姿勢。
「さて」
視線だけが、ゆっくりと二人をなぞる。
「悍ましい“セラフィム導国”から来た――奴隷の次期当主」
薄く笑う。
「その話でも聞こうか」
空気が、重く沈む。
カリナは、頬を押さえたまま立ち上がる。
膝が、わずかに揺れる。
それでも、視線だけは逸らさない。
「……どうして、ルミエル様のことを聞くんですか」
声は小さい。
だが、確かに抗っている。
男の動きが、止まった。
「……ルミエル様、だと?」
低い声。
空気が、凍りつく。
「いつ、お前が――“奴隷”の下につくことを許した」
その一言で。
カリナの呼吸が、乱れる。
頭の奥に、焼き付いた記憶が蘇る。
逆らえば、どうなるか。
身体が、覚えている。
それでも――
「……ルミエル様は、奴隷なんかじゃ――」
言い切る前に。
「黙れ」
一言で、押し潰される。
男は、ゆっくりと立ち上がった。
足音が、近づく。
逃げ場はない。
「身の程を弁えろ」
見下ろす視線。
「お前達は、俺の血だ」
逃れられない事実を、叩きつける。
「誰に従うべきか――忘れたのか?」
カリナの指が、強く握り締められる。
震えが止まらない。
怖い。
それでも――
視線だけは、逸らさなかった。
「……忘れてない」
かすれた声。
「でも――選ぶのは、私達です」
一瞬の、静寂。
その言葉は、小さかった。
だが。
確かに――反抗だった。
オニキスも、カリナも――
次に来るものを、理解していた。
怒号。
暴力。
拒めば、さらに叩き込まれるだけだと。
だが。
返ってきたのは――
「……なんてことだ」
低く、掠れた声。
男は、ゆっくりと頭を抱えた。
「そうか……そういうことか」
指が、髪を掴む。
「アイツの……ルベルのせいだな」
吐き捨てるように、名を呼ぶ。
「誇りも、自信も……全部、奪われたんだな」
その声は、どこか悲しげで。
ほんの一瞬――
“本当に心配しているように”聞こえた。
オニキスの瞳が、わずかに揺れる。
カリナの呼吸が、止まる。
次の瞬間。
男は、すっと立ち上がった。
距離が、一気に詰まる。
逃げる間もなく――
二人の体が、引き寄せられた。
「っ……!」
強く、抱き締められる。
骨が軋むほどの力。
逃げられない。
「大丈夫だ」
耳元で、囁く。
「これからは――俺の元にいろ」
低く、優しい声。
「守ってやる」
背を撫でる手。
だがその動きは――
逃げ道を塞ぐように、絡みつく。
「もう、何も心配はいらない」
その言葉は、救いのようでいて。
同時に――
鎖だった。
男の瞳が、ゆっくりと細められる。
そこにあるのは、慈愛ではない。
歪んだ光。
“取り戻した”と確信した者の目だった。
「お、お父様……私は……私達は……」
オニキスの声が、揺れる。
喉の奥で、言葉が絡まる。
抱き締められたまま――
逃げられない。
「……あの場所が、好きなんです」
ようやく、絞り出す。
小さな、本音。
その言葉が。
はっきりと、男の耳に届いた。
空気が、止まる。
「……今、なんて言った?」
低い声。
抱き締める力が、わずかに強くなる。
「ルベルに、そう言うように“仕込まれた”のか?」
静かな問い。
否定を許さない響き。
「違う……!」
カリナが、思わず声を上げる。
「ルベル様は、そんなこと……強要なんて――」
言い切る前に。
男の腕が、ふっと緩んだ。
二人を、ゆっくりと解放する。
一歩、距離を取る。
そして――
見下ろす。
憐れむような視線で。
「……本当に、そう思っているのか?」
静かに、問いかける。
「“強要されていない”と……そう思わされているだけじゃないのか?」
言葉が、染み込む。
否定したはずの思考に――
ひびが入る。
カリナの指先が、わずかに震えた。
オニキスの呼吸が、浅くなる。
男は何も言わない。
ただ、待つ。
答えが、自分の望む形に変わるのを。
「……強要、なんて……」
オニキスが、呟く。
だが、その言葉は。
先ほどのような強さを持っていなかった。
沈黙が、落ちる。
重く。
暗く。
二人の中に、じわじわと広がっていく。
その静寂を――
「――コン、コン」
ノックの音が、引き裂いた。
男は、わずかに顎を引く。
「入れ」
扉が、静かに開いた。
現れたのは――水色の髪の青年。
整った燕尾服に身を包み、無駄のない所作で一歩踏み入る。
「失礼します。エリック様に伝言が――」
言葉の途中で。
青年の視線が、オニキスとカリナを捉えた。
一瞬だけ、目が細まる。
だがすぐに――柔らかな微笑へと変わった。
「これは……オニキス様、カリナ様」
静かに、一礼する。
「お初にお目にかかります。リオンと申します」
完璧な礼儀。
まるで、この場の空気など存在しないかのように。
「お二人とも――エリック様によく似ていらっしゃる」
穏やかな声。
「気品が、自然と滲み出ていますね」
悪意はない。
ただ、思ったままを口にしているだけ。
だが、その言葉は――
二人の胸に、微かに引っかかった。
「そうだろう?」
エリックが、満足げに笑う。
「この子達は、特別だ」
誇るように、顎を上げる。
「悪魔の血だけじゃない。獣人の血も引いている」
その言い方は――
まるで“価値”を語るようだった。
「きっと、強くなる」
視線が、二人に落ちる。
期待ではない。
評価でもない。
“当然そうなるもの”を見る目。
オニキスの指が、わずかに動く。
カリナは、何も言えない。
さっきまでの言葉が、頭の中で残響している。
――本当に、自分達は。
どこに立っているのか。
リオンは、その沈黙に気づかない。
ただ静かに、次の言葉を待っていた。




