恐怖の再来
ルミエルは、レヴァントに抱えられたまま、ゆっくりと地面へ降ろされた。
目の前に広がっていたのは――湖だった。
真昼の光を受けて、水面がまぶしくきらめいている。
風が吹くたびに、湖畔に咲く野花が揺れ、甘い香りがふわりと漂った。
レヴァントは何も言わず、少しだけ距離を取る。
「……お嬢ちゃん、こういう場所、来たことあるか」
低い声は、どこか穏やかだった。
ルミエルは小さく首を横に振る。
「きたこと……ない……」
光に目を細めながら、湖へ歩み寄る。
しゃがみ込み、そっと水に触れた。
ひやりとした感触と、陽の暖かさが混ざる。
「……きれい」
指先で円を描くと、波紋がゆっくり広がった。
砕けた光が揺れて、まるで宝石のように瞬く。
ルミエルは、その輝きから目を離せずにいた。
後方では、オニキスとカリナが距離を取りながら周囲に目を配っていた。
風の流れ、草の揺れ――わずかな変化も見逃さない。
その緊張とは対照的に、ルミエルは湖に心を奪われていた。
「……つれてきて……くれて……ありがとう」
振り返らずに、ぽつりと零す。
レヴァントはその背中を見て、ふっと口元を緩めた。
「気にすんな。俺が護衛だ」
一歩、湖へと視線を向ける。
「ガキはな、外に出て色んなもん見て覚えるもんだ」
ルミエルが小さく頷く。
その様子を、少し離れた場所から見守る。
足音が近づいた。
オニキスが、無駄のない動きで隣に並ぶ。
「周囲の警戒に当たります。カリナと二手に分かれますので」
淡々とした声。
だが、その視線はすでに森の奥を捉えている。
「……鼻も効く。何かあれば、すぐに気づく」
レヴァントの表情が、すっと引き締まった。
「無理すんなよ」
短く言い、視線だけで周囲をなぞる。
「お前らはまだ弱い。何かあったら――すぐここに戻れ」
一瞬の沈黙。
その言葉に、命令と同時に“守る側の重さ”が滲んでいた。
オニキスとカリナは、互いに視線を交わすと、森の奥へと静かに踏み込んだ。
草を踏む音すら、すぐに風に溶ける。
やがて、湖の光も、ルミエルとレヴァントの気配も、背後へ消えた。
その瞬間――
二人の姿が、揺らぐ。
衣擦れの音とともに輪郭が崩れ、次の瞬間には、別の“形”がそこにあった。
艶のある黒い毛並み。
地を這うようにしなやかな体躯。
オニキスは、黒豹へと姿を変えていた。
その隣で、柔らかな白がふわりと広がる。
雪のように白い毛並み。
丸みを残した体つき。
カリナは、白虎の姿へと変わる。
並び立つ二頭。
だが――どこか、わずかに小さい。
成獣にはまだ届かない、幼さを残した体躯。
それでも。
その瞳だけは、確かに“狩る側”の光を宿していた。
風が止む。
森の奥で、何かが息を潜めた。
オニキスの鼻先が、ぴくりと動いた。
わずかな違和感。
空気に、混じる“異物”。
「……カリナ。気をつけて」
低く落とした声。
その瞬間、カリナの耳がぴんと立つ。
鼻をひくつかせ、すぐに顔を上げた。
「分かってますよぉ〜……三人、かなぁ〜」
軽い口調とは裏腹に、視線は鋭い。
周囲の空気が、張り詰める。
葉の擦れる音すら、妙に大きく響いた。
「……だから、外出は反対だったのです」
オニキスの尾が低く揺れる。
「ルミエル様にはレヴァント様がついてるので、大丈夫よぉ〜」
カリナはそう言いながら、一歩、後ろ足に力を込めた。
次の瞬間――
二頭は同時に地を蹴る。
森を裂くように駆け出した。
だが。
背後で、同じように草を踏む音が追ってくる。
距離が、縮まる。
「……っ、来る」
オニキスの瞳が細まる。
「だから言ったでしょ〜」
カリナが、わずかに笑う。
「――私たちを、狙ってるのよぉ」
レヴァントには敵わない――
そう踏んでの、選択。
だからこそ、狙いは最初からこちらだった。
オニキスの足元に、じわりと赤が灯る。
熱が、地面を這う。
足音のする方角へ、鋭く視線を走らせた。
「――ファイアボール」
低く呟いた瞬間、火の弾が一直線に森を裂く。
だが。
影が、揺れた。
敵はそれを紙一重でかわす。
炎はそのまま後方の木へと叩きつけられ、鈍い音と共に弾けた。
焦げた匂いが、遅れて広がる。
「……魔法は、通りにくいみたいですねぇ〜」
カリナが軽く息を吐く。
その目は、すでに次を読んでいた。
オニキスも、短く頷く。
「……逃げ切るより」
一歩、踏み込み――
「距離を詰めた方がいい」
次の瞬間。
二頭は同時に進路を変えた。
逃走から、一転。
敵へと――踏み込む。
森の奥。
影の中から――乾いた音が響いた。
パチン。
間を置いて、もう一度。
パチン。
硬いものが、木か石を叩く音。
規則的で、無機質で――妙に、耳に残る。
その音が。
二人の鼓膜を、正確に叩いた。
「……っ」
空気が、凍る。
パチン。
パチン。
近づいてくる。
逃げるために張っていた神経が、別のものに塗り替えられる。
足が、動かない。
毛が逆立つ。
本能が、拒絶する。
なのに――
身体は、言うことを聞かない。
オニキスの爪が、土へと深く食い込む。
ぎり、と嫌な音がした。
カリナの喉が、ひくりと震える。
「……やめ……」
かすれた声。
だが、その願いを嘲るように。
パチン。
音は、止まらない。
黒い影が、三つ。
森の奥から、ゆっくりと姿を現した。
深くフードを被った男たち。
足取りは軽い。
まるで、最初から勝ちを確信しているように。
「おいおい……マジかよ」
一人が肩を揺らして笑う。
「この依頼、楽勝すぎだろ」
乾いた声。
その中の一人が、手にしたムチを軽く振る。
――パチン。
木の幹に叩きつけられた。
その音が。
空気を裂いて、二人の耳に突き刺さる。
「っ……!」
オニキスの体が、びくりと跳ねる。
カリナの呼吸が、一気に乱れた。
胸が上下し、息が浅くなる。
脚に力が入らない。
「……ほらな」
男の一人が、面白がるように近づく。
「ムチの音で固まるって話、本当じゃねえか」
もう一度。
わざと、ゆっくりと振り上げる。
「躾けられてんだなぁ」
――パチン。
音が落ちるたびに、二人の体が強張る。
逃げることも、牙を剥くことすらできない。
ただ、本能だけが“危険”を叫び続けていた。
その時。
背後の影が、ひとつ増えた。
ゆっくりと姿を現したのは――
場違いなほど整った装いの男。
森の中だというのに、衣服には一切の乱れがない。
「……なるほど」
静かな声。
カイン・ヴァルディス。
その手には、一本のムチが握られていた。
「“あのお方”の話は、本当だったようだな」
その言葉が落ちた瞬間。
二人の胸が、ぎり、と締めつけられる。
息が、浅くなる。
「……ムチ如きで……勝てると思ってるの?」
オニキスが、震えを押し殺すように吐き出す。
爪は、まだ土に食い込んだまま。
わずかでも、動こうと抗っている。
カインはゆっくりと歩み寄る。
その動きには、焦りも警戒もない。
ただ、確信だけがあった。
オニキスのすぐ前で、足を止める。
そして――
柔らかく、微笑んだ。
次の瞬間。
ムチが振り下ろされる。
――パチン。
乾いた音。
地面が弾け、土が舞い上がる。
その音だけで、体が強張る。
「俺には、そうは見えないが?」
見下ろす視線。
冷たい。
「本当に、“あのお方”と血が繋がっているとは思えないな」
言葉が、静かに突き刺さる。
その一言が。
刃よりも深く、オニキスの中を抉った。
次の瞬間。
カリナが、牙を剥いた。
地面を蹴り、一気に距離を詰める。
白い影が、一直線にカインへと飛びかかった。
「――っ!」
さすがのカインも、わずかに顔色を変える。
だが。
その前に――
横から、黒い影が割り込んだ。
フードの男の腕がしなり、ムチが空を裂く。
――パチン。
乾いた音が、森に弾ける。
その一撃が、カリナの体に叩き込まれた。
「……っ、ぁ……」
声にならない声。
次の瞬間。
ぴたり、と動きが止まる。
伸びていた爪が、力を失う。
体が、ゆっくりと沈む。
耳が伏せられ、尾が低く落ちる。
喉の奥から、小さな震えが漏れた。
まるで――
叱られた獣が、反射で身を縮めるように。
怯える猫、そのものだった。
「……なるほどな」
カインが、小さく息を吐く。
乱れた気配を整えながら、口元を歪めた。
「本当に、よく効く」
視線は、もはや敵ではなく“道具”を見るものに変わっていた。




