第30話 フェイレスのこと
「お疲れ様でした!」
無事アルバイトを終えた櫛奈は店長夫妻に挨拶をして、定食屋を後にする。
時刻は夜の十時。商店街はすっかり昼の勢いを無くし、通行人は数える程度。開いている店といえば居酒屋ぐらいなもので、もう少しこの場所で時間を潰してしまうと見回りの警察に補導されてしまうことだろう。
弟も家で待っている。作り置きの夕食は用意しているものの、不用意に遅くなって心配させるわけにもいかない。
櫛奈は足早に帰路に就く。
『お疲れ様です。クシナさん』
「なんや? 今日はエライ大人しかったやん。どういう風の吹き回し?」
『ワタシもそこまで悪魔ではありません。空気の読める良い悪魔なんですよ』
「また適当なこと言っとるわ。というか、何か用があって話しかけてきたんちゃうん?」
夜風が髪をくすぐる。五月の空気は心地良く、落ち着いた気分にさせられる。だから、不意にフェイレスが話しかけてきても大して嫌な顔をせずに、半ば乗り気で応答した。
『ええ、少しだけ話さないといけないことがありまして』
「どうしたん、改まって」
問い返すも、中々返事は来ない。珍しいこともあるものだ。ついて回るこの悪魔はいつも口先だけで煙に巻いて多くを語らない。ただ、今回は少し様子が違う。
櫛奈は相手の言葉を待つ。歩きながら空を見上げ、満ちた月に視線を吸い寄せられた時、頭の中に声が響いた。
『あの国について、本当に神になるつもりはありますか?』
「……今更そんなこと聞くん? アーラも望んでることやし、あの国で神になるつもりやけど」
『それは、貴方の本当にしたいことですか?』
「……それは――」
言葉に詰まる。
本来、櫛奈の目的はお金を稼ぐこと。その過程でアーラと知り合い、神になることを目指し始めた。
神になることで、お金が稼げるか。
お金を稼ぐことと神になること。そこに繋がる要素はない。
神になる、という目的は櫛奈が成り行きでやっていることだ。きっぱりと、それが本当にしたいことだと断言はできない。
だが――
「ウチに今できることをやるんが、本当にしたいことやで」
『まあそうでしょうね。貴方の性格ならそう考えていると思いました。ですが、それだけではどうにもならないこともあります』
「どういう意味なん?」
フェイレスの言いたいことは分かる。しかし、つい反射的に聞き返してしまっていた。
『まあまあ。そう怖い顔なさらずに。クシナさんの為の、今後のプランをお伝えしようと思いまして。ずばり、このままでは貴方は神になることは叶いません』
「……まあ、せやろな」
そんなことは自分自身で分かっている。神になると、そんなこと勢いだけでなれるわけもない。
だが、改めてそう告げられると、思いのほか心が痛む。
そんな櫛奈の心境を知ってか知らずか。フェイレスは少し音程を上げて、言葉を繋いだ。
『ではどうすればいいのか。簡単なことです。元の神に戻ってきてもらえばいいのです』
「元の神って、それができひんからウチを神にしようって話なんちゃうん?」
『本来、神になるにはかなりの労力と信仰が必要です。しかし、貴方には何もありません』
「悪かったな、なんもなくて」
『その点、シェイドには少しの信仰さえあれば、また神へと戻れるでしょう。クシナさん、貴方には彼のために信仰を集めていただきたいのです。具体的には、貴方に集まった信仰が、シェイドに流れるようにすればいい』
「簡単に言うわ。つまりウチが活躍して、それをシェイドさんの評判に変えろってことやろ? そんな上手くいくん?」
『今のところ無策です』
「無策なんかい。なんか良い案あると思ったわ」
『これまでコスモスにおいて貴方は上手く立ち回って来たじゃないですか。正直、期待しているのですよ。きっとクシナさんならば、神に愛されることでしょう』
「それはどうも。別に上手く立ち回ろうと思ってやってるわけちゃうんやけどな。でも、それも一応アンタが色々やってくれてるおかげでもあるし、お互い様ちゃう?」
『もちろんワタシの活躍があってこそではありますが。それにしても適応力が高いのでしょうね。これなら、ワタシの目的も果たせるでしょう』
「持ち上げたらすぐ調子乗るやん。……で、アンタの目的って神に戻ること、やっけ? フェイレスはどんな神やったん?」
『おや、興味がありますか?』
「ウチ、神のことなんも知らんからさ。あの世界で神を信仰してるんは分かるんやけど、結局神には会ったことあらへんから。フェイレスがどんな神やったか、参考にしたいし」
神が存在する世界、コスモス。神がいるとされる国で、しかしシェイド・レグナムには神はいない。
存在しないものになることはできない。イメージが湧かないのだから当然のことだ。
だが、フェイレスは元々神だと言う。
だから、知りたくなった。
この悪魔のこと。
神だった頃のことを。
『ワタシのことを知っても、何の役にも立ちませんよ』
「……アーラには神になるって言ってもうたからさ。少しでも神のこと知っときたいねんな」
『そうですか。ワタシはあまり神らしくはないのですが、それでも良ければ――』
言葉と共に、彼は姿を現した。
フォーマルウェアな燕尾服姿で、住宅街には似つかわしくない。それを差し引いても頭部がないから、誰かに見つかれば大騒ぎは免れないだろう。
確かに周りに人はいない。しかしここは田舎でもない。通行人が通る可能性は十分にある。そういったリスクヘッジはできる悪魔だと思っていたが、それでもフェイレスは姿を見せる。
「ええん? 他の人に見つかるで」
『ええ。問題ありませんよ。しばらくは人は来ないみたいですしそれに……、久々にこの姿を顕現させたくなりまして』
彼は表情が見えない。視覚からその感情を読み取ることは不可能だ。
しかし声音が、話し方の調子が、放つ雰囲気が。
彼の心境がすこぶる平穏であることを物語っている。
「……相変わらず、見る人が見たら卒倒する見た目やな」
『元々はちゃんと頭もあったんですけどね。基本、神の相貌は異形ではありませんから』
「それって、全員ウチらみたいな見た目ってこと?」
『はい。人も神も、見た目には何も違いはありません。ただ神として存在するかどうかの違いですね。そして、神は基本的には人を好いています。ワタシは、そうでもありませんでしたが』
「そうなんや。人のこと、嫌いなん?」
『嫌いではありません。というよりも興味が持てなかったんです。ワタシはワタシ自身がどうでもよく、信仰心を集めようとも思っていませんでした。信仰を集められなかった神がどうなるか、クシナさんはご存知でしょうか』
「う~ん……、神の力が弱まる、とか?」
『それも半分正解ですがもう少し正しく答えるなら、神ではなくなる、というのが正しいですかね。要は信仰の無い神は神に非ず、ということです。シェイド・レグナムにいた神は、そうして神の座から降ろされた』
心当たりがあった。初めてあちらの世界に飛ばされた日。夢か現実か、どちらともつかない狭間の世界で話した青年の姿を思い出す。「少しばかり、危機感が欠如していてね。神じゃいられなくなったんだ」と、彼はそう言っていた。
アレはつまり、彼を神たらしめていた要素、民からの信仰が消えたことを言っていたのかもしれなかった。
「……フェイレスも、同じなん? 信仰集めに興味が無いんやったら、それで神から堕ちたってこと?」
『ワタシはそもそも国を持っていませんでしたから。そういう神は完全に信仰されなくなると、その存在ごと消えてなくなります。ですが、それで良いと思っていました』
「でも、今は神の座に戻りたいって思ってるんやろ?」
『ええ。少しばかり神のいざこざに巻き込まれまして。その時に頭部を持っていかれてしまいました。それを返してもらう為にも、お金が必要なのです』
「……お金で戻ってくるっていうんもなんか俗物的やなあ。それで、なんぼ必要なん?」
『ざっと、国一つですね』
「は? 国……?」
もはや金額とかの問題ではなかった。目を丸くしオウム返ししてしまった櫛奈に、フェイレスは呆れたように肩を竦める。
『それはワタシに神になれと言っているようなもの。ですが、ワタシ自身自覚しているんです。およそ神には相応しくないと』
「うん、まあ、それは分かるわ」
自称悪魔と名乗る存在が、民のことを大切にするとは思えない。フェイレスについて、櫛奈の知っていることは少ないが、短い付き合いながらも彼が善性を持っていないことは理解できた。
悪い存在というわけでもないが、人の為に何かを成すという性分ではないだろう。
『ですからワタシも、シェイド・レグナムと同様に神になれるような逸材を探していたのです。――そして、貴方に出会えた』
前を歩く彼が振り返って、耳を疑うような言葉を放った。
よもやそんな言葉がフェイレスから出るとは思っていなかったので、驚きながらもしかし自然と笑顔がこぼれていた。
「アンタらしくないこと言うやん。……でも、そう言ってくれてなんか嬉しいわ」
『もちろん、貴方がお金にがめついからこその関係性ではありますが』
「やめてや。ウチがお金だけの俗にまみれた人間みたいに言うの」
『お金だけの間柄、というのもまたいいではないですか。いまさら、取り繕うような仲でもないですし』
「まあ、せやけど。そもそもホンマにウチでいいん? 大してアンタが望むような活躍もしてへんし」
『問題ありませんよ。まだ始まったばかりですから。しかしつい先刻の魔獣討伐で、死にかけた時はさすがにヒヤリとしましたが』
「あ~……、アレはウチもさすがに死ぬかと思ったわ……。何なんアレ?」
人型魔獣を倒した後、突如現れたローブ姿の少女。それに圧倒されてしまい、アーラが来なければ恐らく殺されていただろう。
アレも魔獣の類なのだろうか。櫛奈の疑問にフェイレスが応じる。
『あれは……、そもそも人ではありません。かと言って、神でもありません。天使、と言えば理解しやすいでしょうか?』
「天使? あの羽が生えたやつ?」
『そうですね。天使の概念は主に神の使い。それはこちらの世界とあちらの世界でも変わりません。人よりも優れていて、神よりも劣っている。それが天使です』
「そんなヤツが、なんであんな所に?」
『それはワタシにも分かりません。ですが、神もいないあの国で、天使がいること自体が不可解。シェイド・レグナムが今ああなってしまっていることと、関係しているのかもしれません。今後、またあれと見えることになるでしょうね』
その言葉に、無意識に全身に力が入る。
フェイレスから力を買っても太刀打ちできなかった。圧倒的な力の差を見せつけられ、胸中に不安が宿る。
そんな不安を悟ったのか、フェイレスが一歩距離を詰めた。
『まあ、あの時貴方は《咬我の蛇》も使用していない状態でしたから。それさえ使用すれば負けることはまずないかと』
「……ちなみに、あっちの世界で死んだらどうなるん? 痛みとかは起きたら無くなってたし、こっちの世界には何の影響もないとか――」
『もちろん、死にます』
「いやちゃんと死ぬんかい」
『正確に言えば植物人間状態ですが、違いはありませんね。とはいえ――』
差し出されたのは右手。初めて彼が見せた友好的な態度だった。
『ワタシと貴方の目的のため。これからも、よろしくお願いしますよ』
「……うん。せやな。よろしく頼むわ!」
櫛奈はその手を取り、握りしめる。
その存在を確かめるように。
これからも共にする相方を、信頼するように。
五月の夜。空には曇り一つなく、揺蕩う空気は静謐に満たされて。
彼らの下に、星は瞬く。




