第29話 クシナはアルバイトに勤しむ
櫛奈は急いでいた。通い慣れた道を駆け抜けて、伸びる影を追い掛ける。
夕方とも言えない、そろそろ夜の到来する時間帯。全力疾走で人混みを追い抜いていく櫛奈の姿を通行人は振り返る。
だが、櫛奈はそんなことは気にしない。
脇目も振らず、彼女は足を動かし続けていた。
『急ぐなら、カフェになど行かなければ良かったのに』
『しゃーないやん! 行きたくなったんやから!』
脳内でそんな会話を繰り広げつつ、信号待ちの時間で息を整える。
放課後、クラスメイトである羽美に誘われた櫛奈は近所にできたという喫茶店へと訪れていた。
別にその場所へどうしても行きたかったわけではない。どうしてもコーヒーを飲みたかったわけでも、その店のお洒落な雰囲気を楽しみたかったわけでもない。
ただ友達が行きたいと言ったから、櫛奈もそれに続いただけ。
理由なんてそんなものだった。
久しぶりだった。誰かと、ゆっくりと過ごす時間が。
嬉しかった。遊びをいつも断る自分を、それでも諦めずに誘ってくれたことが。
初めは一杯飲んだら帰るつもりだったが、居心地がよくつい長居してしまった。
別の世界の話は伏せつつ、最近の出来事について情報交換しあったり、他愛もない雑談を交えたり。たったそれだけのことで、それで生活が変わるようなやり取りもしていないのだが、しかし櫛奈の心は満たされていた。
だからだろう、バイトの時間が迫っていることに気づかなかったのは。
羽美からそういえばバイトは? と、そう聞かれた時には既に出勤時間ギリギリだった。
もちろん走っても間に合うような距離ではない。名残惜しくもその場を後にしたのだった。
そうして現在に至る。
櫛奈は繫華街に差し掛かったところで、速度を緩めて適度に呼吸を整える。
商店街の一角にある定食屋。そこが櫛奈の働くバイト先だ。
時刻は十七時過ぎと言ったところ。帰路に就く学生や買い物帰りの主婦、どこへ向かうのか不明なスーツ姿の社会人等様々な人が行き交う中。櫛奈は商店街の中で最も目立つ場所に位置している定食屋のその扉を開く。
「遅れてすみません! すぐ準備に入ります!」
「あら、圓富ちゃん。別にそんなに急がなくても大丈夫よ」
「いえ! ダメです! こういうの、ちゃんとしないとなんで!」
開店はしているが、今のところ客はいないようだった。櫛奈はすぐに休憩室へと向かい、そこで支度を始める。
と言っても準備などほとんどない。制汗シートで汗を拭き取り、制服からバイト着へと着替えるだけ。ロッカーに荷物を置き、準備を済ませた彼女は足早にホールへと戻る。
カウンター越しのキッチンから、料理の支度をしている夫婦の姿が映った。
「ほんまにすみません。最上店長」
腰を折り、深々と頭を下げて謝罪する。それだけのことをしたのだ。怒られる覚悟はしている。
畏まり、身構えていた櫛奈の頭に浴びせられたのは、しかしいつも通り優しい口調の店長の声だった。
「頭を上げてよ圓富さん。忙しくなるのはこれからだから、それまでに来てくれて良かったよ」
「で、でも……」
言われた通りに頭を上げて、姿勢を正す。キッチンからひょっこりと顔を出している眼鏡の男性と目が合った。
「それに、開店してる中で頭を下げてるところをお客様に見られたら、かなり気まずいからね」
「うっ……、それは、まあ……」
確かにそんな定食屋では美味しくご飯もいただけない。この定食屋は味もそうだが雰囲気も良いと評判だ。それを落とすようなことはしたくない。
言葉を詰まらせる櫛奈に、店長は微笑みかける。
「だから圓富さんはいつも通り、気負わずに働いてくれればそれでいいから」
「……怒らないんですか?」
「なになに? 圓富さんは怒られたいの?」
「いや、別にそういうわけじゃないんですけど……。なんか、これだと甘やかされてるような気がして……」
「うーん……」
困ったように首を傾げる店長。我ながら結構面倒くさい性格だなと自覚はしている。遅れた仕事は仕事で取り返せばいいとは思うのだが、気持ちとして遅刻したことに対して申し訳なさが勝ってしまっている。
結果として、また店長を困らせてしまっているのだから質が悪い。
負い目や引け目を感じているせいか、たった数秒店長からの答えを待っているだけなのに、その時間は数分もの時間に感じられて、続く店長の言葉でその感覚からは解放された。
「そうだ! どうして遅刻したか教えてよ。それを聞いて、怒るか怒らないか判断するからさ」
「え、じゃあ……」
と、言いかけたところで思考を巡らせる。
友達と喫茶店に行っていて遅れてしまいましたと、馬鹿正直に答えることが果たして正解なのか。それだと心証が悪くなってしまうのではないだろうか。学校の課題で遅れた等、嘘を吐いてもきっとバレない。
いやいや、と自分の中で首を横に振って邪な判断を振り払う。
元々、遅刻をした自分を律してほしかったのだ。ならば正直に言う他ないだろう。
「実は……、友達と喫茶店に行ってて……。それで遅れてしまいました!」
「え、喫茶店? 友達と?」
「はい、そうですけど……」
何か思っていた反応とは違う。もっと叱責されることを覚悟していたのだが、店長は目を丸くし驚いている。
そんなに意外なことを言っただろうか。混乱している櫛奈に対して、彼は表情をへにゃりと崩した。
「なんだ、言ってよー。そういう理由なら全然許すからさ!」
「え!? でも……!」
「言ったでしょ、理由を聞いて判断するって。僕は圓富さんの遅れた理由を聞いて嬉しくなってね」
「な、何でですか?」
「だっていつもお金の為に自分を犠牲にしてる学生がだよ? 友達との時間を大事にしてるなんて、そんなの応援するしかないって!」
「ええ……。そんなもんですかね」
謎にテンションが上がっている店長から、隣で話を聞いていた奥さんに視線を移す。彼女もその視線に気が付いたのか、ニコニコ笑った表情のまま、夫からの言葉を引き継ぐ。
「ごめんなさいね。この人、いつも圓富さんのこと心配してたのよ。学生らしいことはできているだろうか。何か少しでも役に立てることはあるだろうかって。圓富ちゃんはそういう相談とかあんまりしないから、学校とかで上手くやれているのか気にしていたの」
「……そこまで思ってもらって。……ウチ嬉しいです」
「ごめんね、あんまり手伝えることも無いかもしれないけど、それでも私達にできることなら喜んで手伝うから。……大人をもっと頼ってもいいのよ」
「はいっ! ……ありがとうございます!」
そのタイミングで店の扉が開かれる。いらっしゃいませ、という元気な声が自然と湧き出て、いつも通りのバイト業務に入っていく。
これまでは自分の力だけで頑張ってきた。
アルバイトも学業も部活も生活も。
それでも、限界はある。どれだけ頑張ったところで、いきなり生活が豊かになるわけもない。
それに、誰の力も借りないなんて、そもそも土台無理な話だ。今住んでいる家だって、親戚の叔父から貸してもらっている状態だし、そもそも高校の学費だって叔父から借りている。
月に幾らか返しているものの、そういう状況が猶更櫛奈の心に焦りを生んでいた。
しかし今、彼女にそういった焦燥感はない。自分一人で抱え込む必要はない。意外と周りの人達は自分のことを見てくれている。それに気が付くことができた。
幾分狭まっていた視界は突如として開けたような気がして。
彼女は今日も元気よくバイトに励む。




