90. 悩み事
「そ、そそ、それだけじゃないのよ。アリー、あの、私、別に急ぎたいわけでもなくてっ!」
さっさと妻にしろ、なんていう意味だと思われて、いきなりその気になられても困る。
「……つまり、なんなの?」
再び腰を落ち着けた妹にほっとしつつ、説明。
「その、ね、『用事がないのに』っていう感じの接点で十分、っていうか、ジュリアのお勧めの方法は取りたくない……のよ」
「ああ、赤のナイトウェアってやつ? それなら何も言わなくても意図は通じるわね」
呆れたように言われて仕方なく頷いた。
ジュリアはそこは話したらしい。
「っていうか、伝わり過ぎでしょう? あれじゃ『五分の一でもいいから』って意味になっちゃう。私が言いたいのは、そうじゃなくて、その……もっと手前でいいの。一歩ずつでいいのよ」
『記憶』で読んだことのある本や映画では、前置きナシで結婚生活突入ってものもあったけど、できればそういうのは避けたい。
ちょっとくらい彼氏彼女的な時間があってもいいと思うのだ――書類上は既に夫婦でも。
「まず五分の一、って発想が既にありえないと思うけど、それならお義兄様を見上げて十秒目をつむれば?」
「だから、積極的なのは好きじゃないって言われたんだってば」
腕さえ組めないのに、キスを促すのは違うと思う。
「え? それ、ナイトウェアのせいじゃないの!?」
「違うわよ! あんな、あんなの絶対無理だってば――間違いなく引かれて終わりよ」
無理無理、と顔の前で手を振る。
「ということは、見せてないの?」
「どうやって見せるのよ!?」
「え、着て――それが無理なら、『こんなのもらっちゃった』とか?」
「……っ!」
情けない顔になったエリザベスを見て、アリアンヌが呆れた顔になった。
「……夫婦なのよね?」
「……だから、現状はそれ以前なの! それに、積極的なのは好きじゃないって言われたんだって言ったでしょう?」
「まさか寝室も別?」
「……それはっ、その、一緒……だけど……」
頬に血がのぼったエリザベスだったけれど、アリアンヌは安心したように息を吐いた。
「お姉様。夫婦でしょ? キスをねだるのが積極的過ぎるなら、何ならいいのよ?」
「だから困ってるんじゃない――」
「まさかとは思うけど、お義兄様、実は女性が苦手、とか?」
「そんなはずない――だってここに来るときは私のこと『ずっと(・・・)狙ってた』って言ったもの」
空耳だったのかな、って思う日があるのは確かだけど。
「それは言ったのね――『ずっと(・・・)知ってた』けど」
アリアンヌがふん、と鼻を鳴らした。
「アリー、あなた知ってたの? ならなんで教えてくれなかったのよ」
今さら知らされる衝撃の事実に、アリアンヌにぐっと詰め寄る。
「言ったわよ! あの黒豹、うちに来た時からずっとお姉様を狙ってた――絶対おかしいって思ったもの」
「来た時……って、あの領地の? うそ、あの時、私まだ七歳よ? トリスタンだって……」
「だからお祖父様に『危ないから首輪をつけさせて』って言ったじゃない。覚えてないの?」
驚きで絶句したエリザベスにアリアンヌが「お姉様はあれに対して警戒心がなさすぎ、って言ったわよ」と追加した。
ついでに呆れたように睨まれて、思い返してみれば確かにそんなことを言われた覚えがある。
アリアンヌに言われたことを頭の中で反芻しながら、両手で持ったグラスの中身――苺の炭酸水が温くなって気が抜けていくのを見つめた。
『ずっと』って。そんなに前から――。
「ちょっと、エリー? そこは、ぽわん、とするところじゃなくて、げ、ってなるところだと思うわよ?」
気に入らない、という顔でアリアンヌがトリスタンの方を見やる。
アリアンヌがエリザベスのことを『エリー』と呼ぶのは、たいてい何かから守ろうとしている時――キャサリンの前でもやるけれど、それは自分たちの仲の良さをしっかり示しておくためで、やっぱりエリザベスのことを大切に思ってくれているからだ。だからそのちょっときつい口調が嬉しい。
「だって、いつからかなって思ってたし――でも、待って、だったらどうして?」
「何が?」
「どうして――キスくらい、してくれたっていいと思う」
「だから、寝ぼけてんじゃないか、って言ったのよ」
焼いたトウモロコシに醤油を塗っているトリスタンを見やる。楽しそうにアントニーに何か言ってから、こっちを見て「トウモロコシ、食べる?」と、口の形で聞いてきた。
とりあえず首を振ってトウモロコシは断ってから、しげしげと見つめる。
「寝ぼけてるようには見えないし、奥さんが五人欲しいんじゃないなら、何か考えてるんだと思うけど……」
「五人、って。こんな田舎に嫁いで来るようなもの好き、そういるわけないでしょ」
強気のアリアンヌの言葉を首を振って否定した。
「アリーの感覚ではそうかもしれないけど、トリスタン、もてるわよ? 地元の人って可能性だって――」
「それは聞き捨てならないわね。実際に誰かいるの――?」
「街に行ったときにでも自分で見てみたら?」
投書箱は置いてみたけれど、それでもなんだかんだとトリスタンに纏わりつこうとする女性がいるのは確かだ。
「ということはいるのね? で、お義兄様は鼻の下を伸ばしてるわけ?」
怒りを含んだ声に、急いで聞かれたことを否定する。
「そんなことないわ――最初と違ってこの頃は長々と話を聞いていることも少ないみたいだし、診療所にもよく顔を出してくれてるし、ギルドを回ってることも多いし。ただ、選ぼうと思ったら相手がいないわけじゃない、ってこと」
「なんだ」アリアンヌの表情が和らいだ。「だったら五人って言うのは忘れた方がいいわよ」
デザートのパンプキンパイを一切れ、皿に乗せて持ってくる。
「これも美味しい~。ホント、お義兄様ったら、幸せ者よね」
目を閉じてゆっくり咀嚼する――その表情とコメントはものすごく嬉しいけれど。
「どうして忘れた方がいいの?」
アリアンヌは小さく身震いをしてから言った。
「あの舅。自分の夫が将来ああなるかもしれない、ってわかってて結婚できる人なんかいないわ」
「ホルストお祖父様のこと? なんで?」
「『なんで?』って――だってあの人、人間じゃないでしょう!?」
突然の『人間じゃない』宣言。
「アリー!? なんてこと言うのよ!」
エリザベスもつい声が高くなった。
慌てて声を落とす――「ちょっと呪いは残ってるけど、それはダンジョンの調整をする立場上仕方ないことなんだし、お祖父様は『ちゃんと解呪すればもっと人間らしくなれる』って言ってたわ。今は私がいるんだし――って、トリスタンに言わないでよ」
「それも理由よ。あの人も、お義兄様も絶対にお姉様を手放せない――なのにそのお姉様をないがしろにして他の女性を選ぼうなんて、あり得ないわ」
自信満々のアリアンヌが羨ましい。
「だからこそ、別れたいって言い出せないのかもしれないじゃない。ここの領地経営に私の能力があるのとないのでは、全然違うから――他の人を選びたいのにそれを言い出せないのかも。
もちろんトリスタンが他の人を選ぶなら呪いを解かないなんて言うつもりはないけど――やっぱり離婚した妻に定期的に会わなくちゃいけないなんて気まずいでしょう?」
「エリーお姉様、それって絶対考えすぎよ? 壁にぶつかるやつ――黒豹がいたら止めてくれるところなのに――もう。お義兄様ったら肝心なところで役に立たないんだから」
ぶつぶつと文句を言いながらも、もう一口パイを齧って目を閉じる。ずいぶん気に入ってくれたみたいだ。
「だって違うなら私でいいじゃない――どうして――寝ぼけているんじゃないなら、だけど」
アリアンヌがふう、と息を吐く。
「私、リュカお義兄様に聞いてみるわ。一気に義兄が五人もできるなんて、すごく面白い――義姉候補も倍増どころじゃないし、しかも義弟があの王太子様とか、無茶苦茶」
楽しそうに立ちあがってリュカのところに向かう。
「リュカお義兄~様? ちょっと教えて欲しいことがあるんですけど、簡潔に説明をお願いできませんか?」
他人事だと思って――でも、ちゃんと心配はしてくれている。憎めない妹だ。
そう思って苦笑を隠せないエリザベスの隣、さっきまでアリアンヌがいた席に今度はウィリアムが座った。
「さて? ずいぶん楽しそうに内緒話をしていたみたいだけど――肴はなんだったのか聞いてもいいかな?」
飲むかと聞かれたワインを断って笑う。
エリザベスは既婚者だし女性は十六歳で成人扱いになるけれど、トリスタンが男子の成人である十八歳になるまでは飲まないって言っているし、自分だけ飲むつもりはなかった。
「ウィルったらそんなことを聞いて――自分が肴だったらどうするの?」
「それも面白いかなって――僕を肴にできるのは君くらいだし」
すくめた肩と余裕の表情に、ふふふっと笑いが漏れる。
「ウィル、あなたって本当に――来てくれてすごく嬉しいわ」
「だろう? そう言ってくれると思ってたんだ。で? 悩み事は何? ステファンのやつ、リュカにしか話さなかったんだ」
白ワインのグラスを持ち上げて、一緒に眉も片方上げる。
「ステファンに感謝しないとね。あなたには話さないわ。笑うもの」
「笑う? 君の悩みを聞いて、僕が?」
「ええ。ものすごくバカにされそう――」
「僕はあれだけ君に言い寄っておいて、君が予言した通りサリーに鞍替えしたのに? 君が笑うならともかく僕が笑うなんて、しかもバカにすると思うなんてひどいな」
胸に片手を当てて傷ついた顔をして見せるけれど、もちろんそれは見せかけだけのことだ。
「思うわよ。あなたは一番の友達――親友だもの」
「その親友に打ち明けられない悩みがある、って言うのかい?」
「笑うもの」
「笑わないよ」
「いいえ、絶対笑うわ」
「親友なのに信用はないんだな――笑わないよ」
やわらかい笑みで粘るのが手なのだ。
「賭ける?」
「おっと――それは何を賭けるかによるね」
「じゃあ、負けたらあなたは帰るまでに私の悩みの解決方法を考えて」
「つまり僕に解決できそうな悩みってことかな――じゃあ、君が負けたら――そうだな、次はそんなふうに悩む前に正直にトリスタンに話すんだ。いいね?」
「……っ」
そう来るとは思っていなかった。
「いいね?」
もう一度確かめるように聞かれれば、頷くしかない。
「本当に、あなたっていう人は――わかった。あなたが笑わなかったら――いいえ、笑っても――次からはちゃんと自分で話してみるわ」




