89. 寝ぼけてるのはどっち
え。 え?
空になったエールのグラスに追加を注ぎに行ったリュカはトリスタンのところには戻らず、そのままウィリアムと一緒に飲みだした。
見習えと言われたアントニーはリリアナと炭酸割りの果実水について――炎に透かしながらたぶん色がきれいだとかそんな――話をしている。それの、何を見習えってことだろうか。
長兄のアドバイスだし、ありがたく従うつもりでトリスタンはそのまま二人を観察した。
王都にいた頃もそうだったけど、あの二人はすごく仲がいい。
公爵家出身のアントニーからすればリリアナの家は侯爵家を飛んでその下の伯爵家。たとえ跡継ぎではない四男といえどもリリアナとしては憧れの存在になる。しかもアントニーは母親似で金髪に空色の瞳の美男子だ。誰にでも優しいし、いつも穏やかで、婿入りを望む声は多く――王太子ウィリアムとその弟のロドリックに負けないほど女子生徒たちからの人気があったはずだ。
それなのにリリアナがアントニーの心のありかについて不安そうにしているのを見た記憶がない。いつも仲がいいし、笑顔で――自分でいいのか、という不安を相手に持たせない。それは確かにすごいことだと思う。負けてる、と言われたのがそういうことならそう――だけど、リュカが言いたかったことはそこだろうか。
思い返せば、アントニーがリリアナと一緒にいるようになったのは学院に入ってまもなくだった。
リリアナやリディアがエリザベスの友人になったのは入学してわりとすぐ――あの姿を戻す魔術具の一件がきっかけとはいえ、その陰には祖父や父の根回しもあった。
そんな状態でアントニーがエリザベスの友人の一人に近づいたのは――今思えばもしかしたらそれも祖父たちの策だったのかもしれない――だけどアントニーは一度もリリアナ以外の子に関心があるそぶりを見せたことはなかった。もちろん、エリザベスにもだ。
アントニーは――エリザベスに対してだけはまったく関心がなかったわけではない――そういう意味では唯一の例外がエリザベスだった。だけどそれだって恋愛感情などではなく、悪役令嬢に徹してどんどん周囲に冷たくなっていくエリザベスを心から心配しているのがわかる、そんな関心だったと思う。
エリザベス自身も、「アントニーにはリリアナがいるもの。大丈夫」と、何度も呟いていて、それを言ったらリュカとナタリアは違うのか――とトリスタンは何度も思った。
エリザベスはリュカに対してはもっとずっと慎重だった。誰よりも警戒していたのはウィリアムに対してだったけれど。
そんなことを思い出しながら首を回すと、ナイジェルとリディアが目に入った。
『ナイジェルにも負けてる』そう言われた。
こっちの二人の話題は味噌だれの肉に合わせる香辛料についてらしい――串焼きの肉にそれぞれ別の香辛料を試して、交換したりして――仲のいいことだ。
王都でのナイジェルは自分の身分の方が低いからかけっこう遠慮していたけれど、ここでは周りに偉い大人の目がないせいかのびのびと笑い合っている。
ダンジョンに潜ることで経験値が増えたそうで、剣技の腕が伸びていることも自信につながっているのだと思う。
エリザベスはこの二人についてもアントニーとリリアナ同様に割と楽観的だった。ほとんど警戒していなかったと思う。そもそもナイジェルは必要以上にはエリザベスに近づきたがらなかったし、あの二人がいい感じだとわかった時のエリザベスはものすごく嬉しそうだった。
「とにかく絶対誰の邪魔もしないわ。これ以上誰かの恋路を邪魔したら間違いなく罰が当たるもの。ジョナサンのところがわからないのが怖いのよね……あのポーカーフェイスの影で何を考えているのか――誰が好きなのかしら」
黒豹ナイトだった自分に話しかけられたそんな言葉を思い出し、今はそんなことを考えている場合ではない、と首を振って思考を戻す。
リュカは『ジュリアがエリーの悩み相談を受けた』『ナタリーも』そう言った。
ということは、エリザベスは帰りたいと思っているわけではなくても、悩みがあるということだ。
まったく気づいていないわけではなった。この頃のエリザベスは時々――ほんのたまにだけれど、小さなため息を吐いていることがある。
今、アリアンヌと話しているエリザベスは、本当に嬉しそうだ。
リュカのアドバイスは――今日の料理について話し合えってことじゃないなら――もっとエリザベスと仲良くしろってことだと思う。だけどそれは久しぶりに会えた妹との会話を邪魔しろってことじゃないよな。うん。それは違う。
もう少し待とう。
そう思いながら立ちあがり、バーベキューの網の上に串焼きを追加した。
~~~~~~
「ねえ、エリーお姉様?」
よく冷えたブルーベリージュースにミントの葉を浮かべて、にっこり笑いながらアリアンヌが首を傾げた。
「なに?」
久し振りの誰の目も気にしなくていいお喋りは楽しい。
「あのね、さっきからお義兄様がこっちを見つめているんだけど、行かなくていいの?」
「え――トリスタンは用があるならそう言うわよ?」
「……そう? ならいいんだけど、お姉様は『用事がないのに』を求めているって聞いたから」
ちょっと笑って肘でわき腹を突いてくる。
妹にからかわれるとは――でも、アリアンヌのお相手は私たちよりもずっと大人だし、参考にできるかも。
そう思ってエリザベスはおとなしく黙った。
「お姉様? 自分がして欲しいことを相手にも、でしょ? 違うの?」
「もう……違わないわよ。ナタリーたちと話したのね? だけど積極的なのは好きじゃないって言われたから」
小さく肩をすくめて諦めを表すと、アリアンヌは驚いた顔になった。
「え? そんなこと言われたの? うそでしょ、なんで?」
「……わからないけど、好みとか?」
「うそうそ、そんなことないでしょ? 私ちょっと聞いて来る――」
「ええ? ちょっと、ダメダメ、やめてよ。やっとちょっとずつ前進してきたところなのに、ここで引かれたりしたら困るの」
即座に立ちあがろうとした妹を急いで引き止めた。
「ええ~? 引いたりしないでしょ、普通。やっと夫婦になったのに――お義兄様ってば、何を考えてるのかしら」
アリアンヌは眉を寄せて納得のいかない顔だ。
「いや、その、そこは経験値の浅い私のことを、考えてくれてのことかもしれない、って思うんだけど……でも、違ったらどうしようっていうのもあるし……」
ここに来るときに、見ず知らずの男性の前であんな格好はできないと涙目で訴えたのは自分だし、ちゃんと待てる、って言ってくれたのも覚えている。
だけど、そこから――これだけ毎日楽しく過ごしているのに二人の仲をうまく発展させられていないのは、つまりやっぱり、トリスタンもあの祖父の発言がきっかけで、エリザベスとのことを考え直している――という可能性もある。
「違うって、何それ?」
「だって、五人と比べられたらどうしたって分が悪いもの」
「何それ?」
同じセリフを繰り返し、きょとんとした顔で聞き返すアリアンヌは、トリスタンの祖父が言ったあの発言については聞いていないらしい。
「シュヘルのお祖父様が言ったのよ――どうしてもシュヘルの血を引く子どもが欲しいけれど、母親は私じゃなくてもいい。本当ならトリスタンには奥さんを四、五人持たせて私のことは自由にしてやりたい、って――だけど、私はここから出て行くなんてそんなこと考えられないし――魔力的にかなりトリスタンに負担をかけてるのはわかってるけど、ここには私が必要だとも思うし――でも、五人のうちの一人とか、そんなの嫌だし、だからちゃんと私一人でもいいって言ってもらえるようにがんばってるところなの。失敗はできないんだから」
慎重に進めなくてはならないのだ、と言うと、妹は疑いの顔になった。
「は?」
「『は?』じゃなくて。嫌がられてるわけじゃないんだから、ここは慎重にいかないと、なのよ」
もう一度繰り返した。
「……お姉様、寝ぼけてる?」
「寝ぼけてないわよ」
「じゃあ、寝ぼけてるのはお義兄様の方なのかしら? これだけ美人で料理も家事も農作業までできて、しかも聖魔法を使える私の自慢のお姉様を捕まえてこんな田舎に閉じ込めた上に不満があるとかって、どの口がそんな寝言を言うのかしら?」
目が座ってる。
「ちょっと、アリー!? 待って!」
今度こそ腰を浮かした妹のスカートを掴んでちゃんと座らせた。




