85. 手をつなぐのはあり
生活魔法の洗浄と乾燥で食器やテーブル、床もささっと綺麗にして、片付ける物は戸棚にしまう。
「明日は衣類の洗濯――それは各自ね。朝ごはん用のパンはこっち、サラダは人数分ここに入ってるから、朝食は抜かないでよ? 九時には来るけど、家事は教えるだけ――がんばってね」
そんな言葉を残して家に帰るトリスタンとエリザベスと一緒に、ホルストもシュヘル邸を出た。
敷地内の離れに帰るのだから道は同じ。それでも少し離れて歩いて来るところを見ると、今日のダンジョン攻略について二人に話しておくことは特にないらしい。
邪魔をしないようにっていう配慮もあるんだろうな~、なんてちょっとありがたく思いながらトリスタンと歩く。
一応住宅街にあるシュヘル邸から、商店や宿屋、酒場がある通りを抜けて行く。今の家はかなり外れの方にあるのだ。
その、酒場の前を通った時だった。
隣を歩くトリスタンの歩みが一瞬遅くなったような気がした。
「どうしたの?」
辺りを見回すと、酒場の戸口に立っていた濃い色の髪の女性がこちらを見ていて――小さく手を振っている。
エリザベスの視線に気づくと小さく笑う。
営業活動の一環か。酒場だし。
そんなことを思いながら小さく会釈して通り過ぎようとしたとき、たたっとその女性が走り寄って来た。
「寄って行かないの?」
言うなりトリスタンの腕を取る。
「機会があったら、って言ったじゃない。ね、寄って行って? サービスするから」
慣れた感じでその腕を引く。
「いや、俺たち帰るところだから」
「そんなこと言わないで、せっかくまた会えたんだから、一杯くらい――あら、やだ! ごめんなさい!」
女性は、引かれた腕を抜き取ろうとしながら断りの声を発したトリスタンの背後に目をやったかと思うと、ぱっと腕を離してお店の方に駆け戻って行った。
エリザベスは今のはどういうことかと束の間首を傾げて――少し離れて後ろを歩いていた祖父のことを思い出した。
おそらく彼女は祖父の存在に気づいたのだろう。
「一人で歩くな」というあの言葉は、エリザベスに何かあると困るからだけじゃない。やっぱり、トリスタンに対してこういうことがあるからだ。
隣にエリザベスがいてもこうだとしたら、独り歩きなんかしたら――。
そういえば。
今の女性は、あきらかにトリスタンと面識があるような話し方をしていた。
つまり今日の昼間に粉砂糖を頼んだときか、もしくはそれ以外に彼女と会って話したことがある、ってこと。
そんな心当たりに首を傾げて隣を見上げれば。
「あの、彼女には、今日の昼間、家から戻る時に会って……」
やっぱり。
「ちゃんと断ったんだけど」
うん。
ついさっきも断っていたし。
そう思いながら頷いた。
イケメンだもん。やっぱりそうなるのよね。迂闊だったわ。
ちょっと困り顔のトリスタンには、別にがっかりしてる様子はない。彼女と楽しみたかったとかそういう感じではなさそうだから、そこは別にいい。
エリザベスが気になったのはそこではなかった。
さっきの彼女の行動。
駆け寄って腕をとる。そのまま見上げてにっこり笑う。
それらは会えて嬉しいと伝える行為で――それには見覚えがあり過ぎる。
誰でも落とせる立場にいる時のヒロインの手、だ。
下から見上げる瞳の小動物のような愛らしさと、抱きとった腕にさり気なく当てた胸にぐっとくるのは、多くの男性の共通点らしい。
それをこんなふうに簡単にやってしまえる彼女に、自分はどう対抗するべきか。
胸のことはともかく、本音を言えば同じようにトリスタンの腕をとってみたい気持ちは、エリザベスにも少しある。
そのまま腕を組んで並んで歩けたらどんな感じかな、って思うし。
だけどそんなことできない。
だって、トリスタンはそれがヒロイン側の――つまり女性側の『手』だって知っているから。
黒豹ナイトの正体を知らずに、自分がゲームをプレイした時の状況を包み隠さず口に出した過去が恨めしい。『一緒に行こうと声をかける』に続く行動が『①手をつないで連れて行く』『②腕を取って連れて行く』『③何も言わずに先に行く』のどれかで変わる好感度についてなんか、アリーと真剣に話すんじゃなかった。
トリスタンが簡単にエリザベスに対して『攻略方法』を使ってこない理由もそれだったのかも、と心の中で反省しつつ、どうしたらいいか考える。
だって、知っている相手にやるのって、それだけでかなり恥ずかしい。
無意識でやっちゃうヒロインならともかく、「あなたに気があります」って堂々と本人に言うような真似――。
料理や家事はまだいい。あれも「好きになって」っていう意思表示の一種には違いないけれど、そこまでその、あからさまなボディーランゲージではないし。
――あんなに簡単にすんなりやってしまえるお姉さんはさすがだな……。
そう思いながらちょっと振り返る。
ああいうの、できるようになるべきだろうか。いやいや、自分はもっと控えめに、って考えたのではなかったか。
それに、できることなら、やっぱり受け側でいたい――。相手に一歩リードして欲しい、と思ってしまうのは自分の経験値が低いせいだろうか。
いやいや、でもでも。
グルグルしてきそうな思考を持て余したままで隣を見上げてみると、トリスタンが今度は心配そうな顔をしてこっちを見おろしていた。
思考が混乱してくるとすぐに感づかれてしまうのは絶対ナイトだった時の名残だと思う。こんなふうに感づかれてしまうとさすがに黙っているのは難しい。
「……あの、トリスタン的には、さっきみたいなのは、あり、なのかなって思って」
「え?」
心配顔が驚いた顔になった。
「トリスタンは、あんなふうに異性と腕を組んだりするのは……どうなのかな、って」
「あ、ああ……俺なら、ああいう馴れ馴れしいのはあんまり……」
眉を寄せてちょっと考えた後で、トリスタンはそう言った。
そうか、だめか。
やっぱり、控えめがいいのか――聞いてみてよかった。
「そうなのね……」
腕を組むのはダメか。そういえば今日ウィンクした時も固まっていた。
だけど、それなら、何ならいいのかな――もっと控えめな接触って、たとえば何?
考え事のせいで歩調がゆっくりになる。
「……じゃあ、手をつなぐのは?」
「え?」
「手をつなぐのも、ダメ?」
「……」
無言のままトリスタンが足を止めたので、エリザベスも脚を止めて振り返れば、なぜかまじまじと見られていた。
?
もしかして、今の質問もダメだったのか――積極的過ぎか。
しまった、と思って発言を取り消してもいいか聞こうと思った時だった。
す、と無言のままトリスタンの左手が伸びた。
これって、つまり。
手をつなぐのはあり、ってこと――よね。
差し出された手を思わず両手でつかんでから、それだと歩きにくいことに気がついて、右手だけに変える。
これは、一歩前進した感じ。
さっきまでより近い距離で、ふわふわした気持ちと一緒に歩く。
トリスタンの温かい手と、自分の緩んだ頬と、上昇中の心の温度。
二人の背後で、さっきは酒場の女性を仁王像の形相で睨みつけた祖父の顔が、布袋尊の笑顔に変わっていた。




