69. 朝
右手に触れる温かい艶々の毛皮をゆっくり撫でて引き寄せ、大きく息を吸って、吐きだす。
幸せ。
よかった。ちゃんといる。
安心感と温かさ。
もう一度大きく息を吸って額をすり寄せる。
と。
「……あの、エリザベス?」
遠慮がちな声がした――。
ゆっくりと目を開くと真っ黒い毛が目に入って、嬉しくなってまた額を擦り付けた。
よかった――瞳を閉じる。
「……あの、君が黒豹好きなのはわかってるけど、そろそろ放してくれる? 魔力は足りたんだよね? 流石に、これ以上くっつかれると、僕も辛いっていうか、爪がうずうずしてきた……」
え?
もう一度目を開ければ、真っ黒い毛皮。
「ナイト……?」
「ナイト、じゃなくてトリスタンだよ。中身は一緒、って言ったよね?」
あ。れ?
「トリスタン?」
「ん。僕、戻ってもいい?」
「はい?」
「ん」
「ひゃあっ!」
抱きついていた黒豹だったはずのものがあっという間もなくトリスタンに変わって、エリザベスは再び悲鳴をあげて飛びのいた――。
トリスタンがちょっと傷ついた顔になる。
「ちゃんと戻ってもいいかって聞いたのに、またその反応……?」
「あ。ごめ、ん、なさい。びっくり……した。そっか。ナイトはトリスタンだったのよね」
右手で胸もとを押さえたまま、心を落ちつける。
「本体は僕なんだけど……やっぱり黒豹がいいんだな……」
前にやってくれたみたいに魔力を分けてくれたのだろうけれど、確かに、朝一で隣にトリスタンが寝ていたりしたら『ひゃあっ!』じゃすまなかったかもしれない。
あ、でもトリスタンだったら抱きついたりしなかったかも。
まだドキドキしているエリザベスをよそに、ぐっと伸びをして起きあがったトリスタンは見覚えのない柔らかそうな白いシャツを着ていて――見下ろした自分は、着慣れたナイトウェア姿だった。
着替えた覚えは、ない。
……ええと。
「あの、トリスタン……私の着替えって、誰が……?」
まさかトリスタンじゃないだろう、違うと思いたい。
「あ、それはあの……マリーが殆どやってくれて……」
ちょっと困った感じのトリスタンの口から思いがけず慣れた名前が出てきて、ほっとした。
先に出発した侍女はちゃんと着いていたらしい。
「ここは?」
「シュヘル家だよ。昨日はあのままここに来て、君はそれからずっと寝てた――随分深く眠ってたから、かなりの量の魔力を消費したんだと思う。体調はどう? 祖父が『突然失礼なことをした、済まなかった』って……それについては起きたら話すからって言われたんだ。だから僕もまだ詳しいことは聞けてない。何があったか覚えてる?」
「お祖父様と握手をしたら、いきなり力が抜けたのよ。びっくりした。……体調は別に悪くないわ……リュカとナタリーを戻したときとは違うみたい」
「そっか、よかった」
ほっと息を吐いてからトリスタンは立ちあがった。
「僕、着替えて先に行くから――エリザベスはゆっくりおいでよ」
そう言うなりトリスタンはシャツのボタンを外しだした。
「え? ええ? ちょっと、待って! ここで着替えるの!?」
とりあえず下を向いた――。
「うん、そう」
「何で?」
「『何で?』って?」
「だって、え? ここ、って?」
「僕たちの部屋だって――夫婦だし」
「えええええ!?」
「大丈夫、僕は先に出るからエリザベスはゆっくり着替えて――」
「って! え? 今日から一緒ってことなの!?」
「正確には昨日から、だけど」
「……」
寝ている間にいろんなことが展開していたらしい。
「僕たちに拒否権はないんだ――外に出ればわかるけど、ここは公爵家とは大違いで――マリーもいるし、部屋数が足りてないんだ。祖父が敷地内の離れに住んでいるけど、そっちはもっと使い勝手が悪いんだって。マリーは来客用に一つだけある予備の部屋を使ってるそうだよ。後はここと、階下に台所――食事のテーブルもそこで、居間も兼ねてる感じ。ここの様子がわかってきたら建て増すって手もあるけど、今のところはある空間で間に合わせるしかないんだ。エリザベスには悪いと思ってるけど――」
ためらいがちな声に我に返った。
田舎だっていうのは聞いていたし、自分は『魔王』の嫁になるはずだったのだ。
部屋が狭いとか家が小さいとか、そんなのは何でもない。
むしろ掃除が楽で助かる。
「悪くなんかないわ! かえって嬉しい――つまりここにいるのって、私たちとマリーだけってことなの?」
「……そうらしいね。先日までは祖父が一人で住んでいて、通いの使用人がいたらしいんだけど、マリーが来てから祖父が離れに移って、使用人もそっちに通うことにしたらしいから」
「え、じゃあ、私たちが来たからお祖父様は――つまり追い出しちゃったってこと?」
「追い出した、っていうよりは『やっと移れる』って言ってたから、喜んでいたみたいだった。気にしなくていいんじゃないかな」
そんな話をしながらあっという間に着替えを終えたトリスタンは「じゃ、後で」と、追い立てられたかのように出て行ってしまった。
トイレでも我慢していたのだろうか。
そうだとしたら悪いことをした。
もぞもぞと起き出して見回す。
確かに広くはない。公爵家の自分の部屋の半分もない――けれど、居心地は良さそうだ。
太陽の光がしっかり入る窓には見覚えのある柄のカーテンがかかっているし、ワードローブを開けて見れば動きやすそうなワンピースがいくつか吊ってある。足元には丈夫で動きやすい革靴もそろえてあって、エプロンまでわかりやすいように吊るしてあった。
マリーが全て準備してくれていたらしい。
コルセットがいるようなドレスが一つもないことに気づいて、気持ちが上向いた。
ぎちぎちに締め上げればウエストは細くなるし見た目はいいかもしれないけれど、そういったドレスは動きにくいし、何しろ一人では着られない。
旅の間、エリザベスは一人でも付けられる簡易版のコルセットを身につけてはいたけれど、それだってやはり苦しい。座っているだけだからどうにかなるのであって、家事にはむかない。
昨日ここに着いてから見かけたこの街の女性たちの格好は様々だったけれど、王都で見るようなきちんとした格好や、ウエストを極限まで絞ったドレスを身に着けている人は皆無だった。
にんまりしてナイトウエアを脱ぐ。珍しく襟元のリボンが縦結びになっていた――。
下着の上にそのまま衣服を重ね、くるりと回る――なんて快適。
手早く髪の毛をまとめてエプロンを身に着けると、急いで階下に向かった。
マリーがいるんだから食材が何もないってことはないと思うけれど、どんな食材があるかわからないし、そこはまず確認してからだ。
「よっしゃ! やるわよ、念願の穏やかのんびり生活! ……ええと、魔王は待ってないみたいだから、落とすべきは……未来の旦那様ね……いや、既に旦那様なの? トリスタンは、ええと……まあ、とにかく朝ごはんから! 『悪役令嬢』の汚名を雪ぐべく、大事にしてもらえるようにがんばるぞ~!」




