70. 夫婦
あれは、けっこう拷問に近い。
庭に出て大きく深呼吸をした。
エリザベスは、トリスタンとナイトをちゃんと区別していない――いや、区別し過ぎている、と言った方がいいかもしれない。
黒豹でいる間と、本人でいる間の差が……かなり……あれは大き過ぎだ。
それに、ウィリアムのことがなかったらもっと長い間一緒にいられたかもしれないと思っていたけど、そうじゃなかったかも。
久し振りに見たエリザベスの寝顔はかわいくて、その腕の中は温かくて、真夏のアイスクリームみたいに溶かされそうになった――っていうか、考えたらダメだ。
あれ、僕の奥さんなんだよな――はぁ。
いや、奥さん、じゃない。
頷いてはくれたけど、ちゃんと、そうなってもいいって思ってくれたら、だ。
思ってくれるといい――。
昨日は、魔力切れになったエリザベスを祖父の馬車に乗せてこの小さな家まで連れて来て、待っていたマリーに言われるままに二階に運んだ。
で、エリザベスをベッドに寝かせて――マリーに「着替えさせるから手伝え」って言われて驚いて「そんなことはできない」って断ったら呆れられた。
「夫婦なんだから着替えさせるくらい構わないでしょう」って言われて、「そういう意味で夫婦にはなってない」って言ったら、「どうして旅の間にちゃんと夫婦になっていないのですか」って今度は叱られて――「ちゃんと準備しておいたのに」って言われて初めて、あれがそういうつもりで準備されていたんだってことに気がついた。
つまり、自分との夜のために。
顔に血が上って真っ赤になったのがわかったけど、とにかく説明した。
「だけどあれを見つけた時のエリザベスは、まだ相手は『魔王』だと思ってたし、誰かと『キスをしたことさえないのに』って涙目になってたんだ。無理だよ」って言ったら、マリーは驚いた顔になった。
「うちのお嬢様は、キスの経験もない、のですか? あんなにいろいろ知っているのに? 学院では王太子のあの手この手をすべて軽く躱していた、そうアリアンヌ様から聞きましたが……」
訝しむ顔。
そこは自分も驚いた。
使い魔時代は率先してエリザベスの周りから異性を排除していたけれど、その頃も『記憶』の話はいろいろ聞かされていたし、使い魔をやめてからは別行動が多かった。考えたくはなかったけれど、きっと自分の知らないところで、小さな経験が増えていくのだろうと――だけど、どうやらそういうことではなかったらしい。
エリザベスはただひたすら周囲の観察を楽しんで、自分自身のことは後回しにしていたようだ。
それに、よく考えてみれば、自分が離れた後のエリザベスの立場はウィリアムの――王太子の婚約者だ。そういうつもりで近づこうとするやつなんかいるはずがない。
「僕もそう思ってたけど、ないんだよ! とにかくエリザベスは相手が『魔王』だって思ってたし、そんなやつの前であんな格好なんかできないって、ガチガチになってたんだ。どうしろっていうんだよ」
「あんな格好……ということは、トリスタン様は、見たのでしょう?」
「……着てるとこを見たわけじゃない。ベッドの上に広げてあったから――」
「ベッドの上に……ではその時にお嬢様のお相手は『魔王』ではない、と伝えなかったのですか?」
「言ったよ!」
ちゃんと安心できるように、『魔王』に狙われてるわけじゃない、そう伝えた。
なのに、マリーの目つきは胡散くさいものを見る時のそれのままで。
「で?」
「『で?』ってなんだよ!」
「そのまま事の次第を説明して差し上げなかったのですか? 夫になるのは自分だ、手続きも済んでいる、何も心配することはない、と安心させてあげなかったと――?」
「次の日だったけど、それも言ったよ?」
「ならどうして――夫婦になっていないのですか?」
「だから、それはエリザベスが――」
「お嬢様が嫌だと言ったのですか?」
「え……?」
「書類上は既に夫婦だと言ったのでしょう?」
「言ったよ……」
「お嬢様は見ず知らずの『魔王』のほうがマシだった、と?」
「……」
「トリスタン様が相手では嫌だ、と?」
「……」
「トリスタン様?」
「なんだよ」
「嫌がられたのでないのなら今夜のうちに既成事実を作っておくことをお薦めします」
「は!?」
エリザベスの腹心ともいうべきマリーの言葉とは思えなかった。
眠っているとはいえ目の前に本人がいるのに――それに当然そんなことはできない。『ちゃんと、君が僕を選んでくれるまで待つ』って言ったし、『魔王』や『ダンジョン』について、詳しいことがわかっていないし。
昨日の噂を聞いただけでも十分気をつける必要があると思った。
かぶりを振って断ったら、ため息を吐かれた。
なんでだ。
マリーが意識のない主人を手際よく着替えさせるあいだ、トリスタンは部屋の外にいて――「もう済んだ」と言われて中に入ると、なぜか「せめて一カ所くらい」と言われて、襟元のリボンだけ結ばせられた。それだけなのに指が震えて――つまり昨日のトリスタンにできたのはその程度だ。
あとは、前みたいに魔力を移しながら隣に寝転んでいればいいかと思ったけれど、自分のままでっていうのはどうしても緊張してうまくいかなくて――エリザベスの隣にいることに慣れた黒豹の形になってから、ゆっくり魔力を移していった。
リュカとナタリアを癒した時に渡したのとは違う、穏やかな流れで、でも確実に減って行くのがわかった――しかもかなり。
あのジジイどれだけ吸い取りやがった――と、イラっとしたら、エリザベスが小さく声をあげたので、慌てて集中し直す。
エリザベスに渡したいのは、怒りなんかじゃない。もっと純粋な気持ちだけだ。
結局自分もそのまま眠ったらしく、気がついたら朝だった。しかも両腕で首を抱かれる形で寝ていて、すぐ側には懐かしい寝顔。
幸せな温かさとやわらかさときたら――。
自分が黒豹であることをものすごく残念に思いつつ、黒豹であることをものすごく感謝したわけで。
庭にあった井戸で水を汲んで顔を洗う。
そのまま頭を下げて水を被った。
今の自分の顔が腑抜けてるってことは、鏡を見なくてもわかる。
自分たち二人とマリーしかいない、つまりそれだけの人数で既にいっぱいになる小さな家を不満に思うどころか、その方が『嬉しい』って言った――ただでさえ緩みそうだった顔が情けなくにやけたところを見られたくなくて、急いで出てきたのだ。
ここからどうにかしてエリザベスを落として――ちゃんと妻になってもらわないと。
ウィリアムの猛攻にも揺るがない彼女をどうしたらいいのかわからなかったけれど、エリザベス自身にはキスの経験もないってわかったことだし――まあ、自分もそうだけど――とにかく一つずつだ。
風魔法で水滴を飛ばす。
頭の中をスッキリさせておかないと。
「トリスタンー! 朝ごはんの卵、目玉焼きにするけど硬さはどのくらいが好きー?」
ああもう、やっぱりダメかも。
このまま幸せで溶けるのかも。
家から聞こえてきたその声だけで緩んだ頬を二回叩いて、もう一度水を被った。




