48. 権力者の悩み
放課後、ウィリアムは木陰で一人ため息を吐いた。
新年度が始まって三カ月。
今日もエリザベスには会えなかった。
避けられているからだ。
『氷の令嬢』
エリザベスがそう呼ばれるようになったことには気づいていた。
プラチナブロンドの髪にうすい水色の澄んだ瞳。
以前はそれが暖かく輝いていたから、『氷』なんていう形容詞が入る隙間はなかった。
だけど今は違う。
感情豊かだった瞳は一切の心を映そうとしない。
ウィリアムが贈るどんな花も、どんな言葉も喜ばない。
彼女はただ、待っているだけだ。
ストーリーが動き出すのを。
あの日。人々の前で彼女の細い指を握りしめて、震える声でプロポーズの言葉を告げたウィリアムに、彼女は涙目で笑った。「結局逃げられなかったわね」そう言って額に約束のキスを受けるために目を閉じた――。
ウィリアムは喜びで震えていた。
納得のいく形ではなかったけれど、彼女を将来の妻とするための布石が敷かれた。ここからそれを堅固なものにして行けばいい、そう思っていた。
が。
それは一夜の夢でさえなかった。
その夜の夢と翌朝気づいた扉の傷。
前パートリッジ公爵が伝えてきたエリザベスの夢といなくなった使い魔の話――国王と五公爵家当主と自分だけが参加した緊急会議で、エリザベスの将来はウィリアムの妃ではないことが、ほぼ決められた。ウィリアムは彼女に『その時』が来るまでの目くらまし、婚約はただの芝居で傀儡だと。
しかも彼女の方はそれを受け入れるつもりでいるだけでなく、納得しているという。
それでも、呆然とした表情で日々を過ごすエリザベスの様子は少しも納得しているようには見えなかったし、ウィリアムがかける言葉もすべて心には届かず上滑りしているようで返事もろくに返って来ない日が多く、あきらかにおかしかった。
だからこそ、ウィリアムは諦めたわけではなかった。
今までどんなときにも彼女のそばにまとわりついていたあの黒豹が姿を消したことも(身代わりに連れて行かれたという話には少し同情したけれど、エリザベス本人を連れて行かれたのではなかったことに安堵し)、好都合だと考え、さらに言葉を尽くし、諦めないで欲しいと説得を続けた。
けれど、それは二人の始まりでさえなかったようだ。
婚約式からひと月が過ぎたころ、それまでぼんやりしていたエリザベスは急に前のように明るくなった。
なのに、ここぞとばかりに言葉を尽くし、彼女を迎えようとしたウィリアムに向けられるのは拒絶と困惑の表情ばかり。
心から妃として望んでいるのだと何度か伝えたら、それまでのように困った顔で諫めたり、怒ったりすることさえなくなって、そのうち、困惑さえ現れなくなった。代わりに現れたのは――恐れ。
それが無関心に変わり、今は避けられている。
こうなると認めるしかない。
エリザベスは――本心からウィリアムを拒否している。
パーティーなどにエスコートして人前で抱き寄せれば抗いはしないけれど、一切の感情のない柔らかさに、自分は彼女を自由にするためだけにいるらしい、と痛感させられる。
彼女はただひたすらその時が来るのを待っている。
あれからエリザベスはただの一度もウィリアムに笑わない。
どんなに言葉を重ねても、行動を尽くしても、表面だけの薄い笑みがそれもごく時たま口元に浮かぶだけだ。
それがどんなにエリザベスらしくないか、仲のいい友人たちはみんな知っているのに。
エリザベスが何を望んでいるか。そんなことはわかっている。
ウィリアムの腕の中から出て行くこと、そしてその前に――ウィリアム自身はまったく望んでいないのに――彼女の妹との間にウィリアムが心を通わせるのを待っている。
キャサリンはいい子だと思う。
ちゃんと話したことはないけれど、明るくて、朗らかで、よく笑うし誰にでも親切だ。
物怖じせず、少しそそっかしい。母親は元平民だけれど、公爵家の後妻になって数年が経つのだし、父親は公爵その人なのだから身分も高い。エリザベスよりは弱いが王太子の婚約者として大きな不足はないといってもいいだろう。
本人は知らないけれど、黒魔法と白魔法、どちらも扱える特別な存在だという話もある。
エリザベスに会う前ならいい相手だと思っていたと思う。
そう、エリザベスに会う前なら――。
またため息が漏れた。
十三歳のウィリアムをあの触手から救い出した時のエリザベスは、それまでに見た誰よりも、どんな絵画よりも慈愛に満ちていて美しかった。
あの時の切望は、時が経つにつれて少しずつ落ち着いてきて、強い友情に変わったと思っていた。いつか彼女を送り出す、その手伝いさえできると思うほどに。
なのに、あの船の上で強い想いが再燃した。
あの時のエリザベスは記憶のままに――いや、さらに美しくなっていた。
乗船した時はくすんだ色合いに変えてあった髪はいつの間にか元通りで白銀に輝いていて、目の前に横たわる血の気のない二人の身体以外には一瞥もくれずに走り寄って手を取ると、心を引き裂かれるような悲しい顔をした――。
ボロボロと涙をこぼしながらリュカを抱きしめた直後、白い光が二人を包んで、リュカが咳き込んで目を覚ました。
それから同じようにナタリアを抱きしめて――苦痛に声をあげて震え出した。二人の衣服から吸いあげた水で濡れた身体に毛布が掛けられ、その裾から使い魔が潜り込んだのが見えた。
リュカがナタリアの身体を抱き取ると、彼女はナタリアの手を押し戴くように額につけて跪いた。心からの祈り。十三歳の心に植え付けられたのと同じ、全てを許し、捧げる、慈愛に満ちた表情。
苦痛の声が聞こえるのに、真っ白い光に包まれた彼女はどこまでも穏やかな顔をしていて――。
『聖女』の名にふさわしい――この国の宝。誰にも渡すわけにはいかない。
この国の。
その宝を無遠慮に掴んだ手には殺意がわいた。
誰にも渡せない。
躊躇わずに自分のものだと主張した。
そしてやっと隣りに立てるようになったのに――『聖女』は笑わなくなった。
どんなに尽くしても。
困惑は恐怖に変わり、怯えたようにウィリアムを見る日が増えた。
自分を閉じ込めるための檻を見るような――そして、そんな表情さえ現れなくなった。
避けられていると気づくまでにたいして時間はかからなかった。
手放してやりたい。
だけど、手放したくない。
このままでは嫌われてしまうだろう。
だけど、彼女の手を離したら――そんなことはできない。
癒しを与える彼女の姿を見て、その力を受けて、それでも彼女を手に入れたいと思わない男がいるとは思えない。
『魔王』でさえ魅了する彼女をどうしたらいいのか。
また一つ、ため息が漏れた。




