第17話 すれ違う想いと白銀の剣
穏やかな水の都アクア・ルナが、一瞬にして凍てつく「聖域」へと塗り替えられた。
魔王サタンの宣戦布告と共に、都の運河が逆巻き、天へと昇る巨大な水龍と化した。
サタンが剛剣『断罪の鋼』を掲げると、その凄まじい魔力の重圧で大気が軋み、水面は衝撃波で激しく波打つ。
だが、その圧倒的な武力の中でも、サタンの動きには迷いがあった。
水龍たちは民家や商店を巧みに避けるように配置され、自ら夜な夜な修繕してきたこの都を傷つけまいとする「王」としての規律が、無意識にその牙を鈍らせている。
「…エターナ」
エルムが静かに名を呼んだ。その一言だけで、エターナはエルムが何を求めているのかを即座に理解した。
「エターナ、頼める?…この王は、本心では街を壊すことを望んでいない」
「相変わらず甘い男だ」
エターナは短く応じると、背後に怯えるベルを自分の側へ引き寄せた。
「サタンよ。何か酷く勘違いをしているようだな。――ならば、その剣で直接確かめるがいい」
エターナが空を仰ぎ、指先を優雅に躍らせる。
「――『絶対的静寂』」
エターナの囁きと共に、銀色の障壁が世界を切り取った。
刹那、あらゆる喧騒が消滅し、波紋一つ立たない鏡のような水面が無限に広がる。
サタンは仮面の奥で瞳を揺らし、エターナの配慮に、そして戦いへの後押しに、無言で剣を握り直した。
エルムは、静寂の中を滑るように進み、襲いくる水龍の真っ只中に足を踏み入れた。
ドォォォォォン……!
水龍の牙がエルムを粉砕せんと迫る。だが、エルムが左手の鞘を軽く一振りしただけで、数万トンの重みを持つ水の塊は、その結合をほどかれ、無力な霧へと姿を変えた。
極限まで研ぎ澄まされた感覚で、術式の「綻び」を見抜き、あるべき姿へと押し戻したのだ。
『――小癪な』
仮面の奥から、地を這うような低音が響いた。水霧を裂いて現れたサタンが、身の丈を超える大剣を振り下ろす。
エルムの肩をかすめる一撃…ただの一撃で、空間内の石畳が粉々に砕け散った。
サタンの武力は、天から与えられた圧倒的な『才』と、それを寸分の狂いもなく行使するための『規律』が融合した、完成された美しさの結晶だった。
「なぜ、その剣を抜かない…我を侮辱するのか」
「侮辱なんて、とんでもない。ただ、君と美味しいお茶を飲むために、今は抜きたくないんだ」
エルムは肩から流れる血を気に留める様子もなく、穏やかに言った。
彼が握る鞘は、理外の武力を封じるための栓でもある。これを引き抜けば、彼の平穏な心は破壊の意志に上書きされてしまうことを、彼は知っていた。
だか、その余裕が、サタンの逆鱗にさらに深く触れた。サタンの脳裏には、マルコシアスから見せられた「偽りの真実」が焼き付いて離れない。
その頃、激闘の轟音が響く蒼瀾宮の裏手。
人影のない回廊の隅で、一人の男が倒れていた。
マルコシアス。
彼は、魔王サタンとエルムが全力で対峙していることなど知る由もなく、背中から這い出そうとする異形の「蟲」に精神を食い荒らされていた。
「反吐が出るわね…。こんな安っぽい小細工」
闇を裂いて、冷徹な声が響いた。そこに立っていたのは、深紅の裏地を忍ばせた黒いドレスを纏う美女。
第7魔王アスモデウスであり、エルムの教育係を務めたミレイユだ。
彼女は足を止めることなく、通りすがりざまに扇の先でマルコシアスの額を軽く突いた。
パキィィィン……!
空間を凝固させたような魔力が炸裂し、マルコシアスに寄生していた魔導蟲が消滅した。
「…ミ、ミレイユ…閣下…?」
「気がついた? 胃痛持ち君。あんたの主君が、安っぽい舞台装置の一部にされかけてるわよ」
ミレイユは、呆然とするマルコシアスにそれ以上の言葉をかけず、遥か彼方の空を見据えた。
(――情報の加工。視覚の優先。そして共倒れ。……この手口、まさかあの魔王?あるいは、古き悪魔の類かしら。均衡を乱したがる、胸糞悪い影ね)
彼女の脳裏で、不快な推論が組み上がっていく。
「エルちゃん……あんたが舞台を降りてお茶にハマってる間に外野がうるさくなったのよ。後は自分で片付けなさいな」
彼女は口元に薄い笑みを浮かべ、闇の中へ溶けるように姿を消した。
一方では、サタンの大剣が、エルムの鞘と激突していた。世界そのものが軋むような、重厚な破壊音が響き渡る。
「サタン…! 君の剣には戸惑いが見える。僕に本心をぶつけて欲しい」
エルムの言葉と共に、彼の瞳が、深い紅色へと染まった。
――内なる本性の解放。
「……っ!」
その瞬間、エターナの鼓動が激しく跳ねた。
結界の外で見ていた彼女ですら、肌を焼くような強烈なプレッシャーに、思わず頬を赤らめ息を呑む。
魔族化したエルムを初めて目の当たりにした際、その圧倒的な支配者としての輝きに魅せられた記憶が蘇り、胸の奥を熱く焦がす。
どんな英雄よりも気高く、そして残酷なまでに美しい、あの紅い瞳。
サタンもまた、その場に縫い付けられたように動きを止めた。鎧越しでもわかるほどに、全身の感覚が最大の警鐘を鳴らしている。
目の前の男は、もはや「お茶好きな青年」ではない。万物を跪かせる、覇者の風格を帯びていた。
「――わかっている。お前は、誰も信じられなくなった自分を、その鎧の中に閉じ込めているだけなんだな」
エルムの口調から、先程までの穏やかさが消失した。低く、重く、この場を制圧する声。
エルムの手が、ついに黒檀の柄を掴んだ。
サタンは、死の恐怖を魔王の威厳でねじ伏せ、天賦の才を解放する。
それは周囲の水を一滴の狂いもなく制御し、超硬質化した結晶へと変えて解き放つ、王の最終奥義。
『――蒼溟の極』
サタンの大剣から放たれたのは、熱量そのものをこの世界から奪い去る、美しき終焉の光。
銀世界の静寂が、一瞬にして舞台を塗り替える。
エルムの瞳が紅く閃き、彼は一切の迷いなく、黒檀の鞘から剣を引き抜いた。
キィィィィィィン……!
空間が裂けるような抜刀音。
鞘から解き放たれたのは、この世のあらゆる魔力を反射し、無へと還す伝説の『白銀の剣』。
その一閃が、迫りくる光を真っ二つに断ち切った。
吹き荒れる余波の中、エルムは抜きたての白刃を掲げ、真っ直ぐにサタンを見据える。
その時、水の都の空に、一羽の黒い鳥が舞い降りた。
第17話をお読みいただきありがとうございました!
今回は、エルムとサタンという二人の「最強」が、言葉を捨てて刃で語り合う姿を軸に描きました。
2人が刃を交える一方、ミレイユは、不穏な動きを追いつつ、マルコシアスの洗脳を解くなど、陰でエルムをサポートします。
次回、サタンとの戦いの決着をぜひご期待ください!




