ティータイム:お二人とも、あまりにもズルすぎます!
水の都へと続く緩やかな下り坂。
街道を走る馬車の揺れは穏やかになり、窓から入り込む風も、山間の鋭い冷気から、どこか潮騒の香りを帯びた心地よいものへと変わっていた。
平和な移動時間。だが、馬車の中では一人の元公務員が、深刻な表情で巨大な革張りのトランクケースと格闘していた。
「ふぅ…。やっぱり、この『双月雲糸のコート』は、畳んでもそれなりに場所を取りますね。これまでの書類に加えて、お土産の茶葉も増えましたし…」
ベルは額の汗を拭いながら、パンパンに膨らんだトランクの蓋を、渾身の力で押し込んでいる。彼女は元管理局員だ。
旅の荷物は常に完璧に整理整頓され、機能的に詰め込まれている。……はずなのだが、さすがに限界が近づいていた。
ふと、ベルはトランクを閉める手を止め、向かいの席で優雅に古書を捲るエターナと、御者台から顔を覗かせたエルムに視線を向けた。
「あの、お二人…。ずっと気になっていたんですけど。なんでお二人は、いつもそんなに『手ぶら』なんですか?特にエルムさん。茶の道具一式どころか、キャンプ用のコンロや予備の茶葉まで持っているはずなのに、腰に小さなポーチを一つ下げているだけじゃないですか」
エルムは「ああ、これのこと?」と、腰の古びた革ポーチをポンと叩いた。
「これ、父さんからもらった『無限収納の魔導嚢』なんだ。見た目は小さいけど、中は異空間に繋がっていて、無制限に荷物が入るらしいよ。父さんが『冒険は引退したし邪魔だから持ってけ』って」
「それ、歴史の教科書に出てくる伝説のアイテムじゃないですか!! お茶の道具ばっかり入れてるんですか!? 宝の持ち腐れです!!」
ベルが膝を突いて絶望していると、エターナが「私のは魔法だ」と、空間から直接荷物を取り出す離れ業を見せた。
「もういいです…。収納に関しては諦めました」
ベルは投げやり気味にそう言って、窓に映る自分の姿をチェックした。旅も長くなり、髪は少しパサつき、袖口にはどうしても落ちない小さな泥汚れがついている。鏡を見ては溜息をつくのが、最近のベルのルーティンだった。
「…それと、もう一つ。どうしても納得がいかないことがあるんです」
ベルは、じろりと二人を睨みつけた。
「なんでお二人は、朝から晩まで旅をしているのに、髪の毛一本乱れず、服も新品みたいにピカピカなんですか!?
エルムさんは、土埃の舞う御者台にずっと座っているのに、なんで袖口すら汚れていないんですか!
エターナさんに至っては香水みたいないい香りがするし…」
エルムは不思議そうに自分の袖を見つめ、思い出したように手を打った。
「ああ、これかな。旅に出る前、母さんから、ずっと清潔でいられる精霊魔法をかけてもらったんだ。汚れや埃を自動で弾くらしくてね」
「…母様(伝説の魔導士)直伝の、永久持続型・自動洗浄魔法…」
ベルの頬がひきつる。その隣で、エターナが事も無げに言った。
「まあ師匠なら当然だな。あ、私も使っているぞ。身だしなみを整えるのは魔法使いの基本だ。風呂に入れない夜でも、これ一つで髪の指通りも完璧だからな」
ベルは絶句した。そして、堰を切ったように叫んだ。
「ずるーい!! お二人とも、あまりにもズルすぎます!!」
「えっ、あ、ごめん……」
「そんなに怒ることか?」
「怒りますよ! 私は毎朝、冷たい川の水で顔を洗って、必死に寝癖を直して、汚れを石鹸で叩いて落としているんですよ!? エターナ様、なんで私にもかけてくれなかったんですか!!」
ベルの詰め寄るような視線に、エターナは本から目を離し、不思議そうに瞬きをした。
「言われなかったからな…」
「……。えっ、それだけ?」
「ああ。魔法はタダではないし、必要ない者に勝手にかけるのも失礼だろう? お前はいつも熱心に身なりを整えていたから、それが趣味なのかと思っていたぞ」
「そんな苦行を趣味にする人がどこにいますか!!」
ベルは馬車の座席に突っ伏した。
伝説のバッグに、自動洗浄の魔法。このパーティにおいて、唯一「物理法則」に従って生きていた自分の努力が、あまりにも切なくなってきた。
「エターナ様…」
「なんだ」
「かけてください。今すぐ、全力で、永久持続のやつを」
「ふむ。……まあ、そう言うなら構わんが」
エターナが指をパチンと鳴らすと、ベルの体を柔らかな光の粒子が包み込んだ。
瞬時に髪のパサつきが消え、服の汚れが霧散し、まるで高級サロンでフルコースを受けたあとのような爽快感が彼女を包む。
「……わぁ、すごい。体が軽い……髪もサラサラ……」
「良かったね、ベル。……じゃあ、その巨大なトランクも僕のバッグに入れておこうか?」
「……。お願いします…」
結局、ベルのトランクはエルムの小さなポーチに「すぽん」と吸い込まれていった。
荷物からも、汚れからも解放され、あまりにも身軽になった馬車の座席で、ベルは複雑な表情で窓の外を眺めた。
「…なんだか、今までの苦労はなんだったんだろうって…少しだけ虚しくなりました」
「ははは。まあ、そう言わずに。ほら、そろそろ街の入り口が見えてきたよ」
山道を抜けた一行の眼前に、青い運河と白亜の建物が調和した、目も眩むほどに美しい水の都が広がっていた。
「…わぁ。やっぱり、綺麗…」
一瞬で立ち直って目を輝かせるベルを見て、エルムとエターナは小さく笑った。
常識という物差しは、この都に入る前に捨て去るのが正解だったのだと、ベルは(羽のように軽くなった肩を回しながら)心に決めたのだった。




