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【旧作】のんびりお茶を飲んでいたいので、元・最強魔王候補の僕が世界を変えることにした  作者: 七割カカオ
守りたかったもの

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第15話 2つの感謝と銀鱗の塩茶

夜の帳が最も深く降りた川岸、轟々と鳴り響く川音だけが支配する岩場に、パチパチと爆ぜる小さな焚き火の音が混じり始めた。


エルムは、冷たい夜風に肩を震わせるシルキーの前で、使い込まれた茶道具を静かに広げていた。


彼が手際良くお湯を沸かしているのは、シルキーが「汚してしまった」と嘆き、自らの涙を落とし続けてきた、その銀鱗の川の水だ。


「シルキーさん。少し、お茶を飲みませんか。今、一番美味しい頃合いですよ」


「エルム様…。でも、何度も言った通り、このお水はしょっぱくて、苦いんです。


私が失敗してこぼしてしまった塩が、全部溶け出しているんです。そんなのでお茶を淹れたら、茶葉が可哀想です…」


シルキーは、力なく首を振った。彼女にとって、この川の水は自分の「無能」が溶け込んだ、いわば恥そのものだった。


500年間、対岸へ辿り着けなかった絶望が、一滴ずつの雫となってこの流れを濁らせていると、彼女は信じ込んでいたのだ。


「いいえ。あなたが一生懸命に運ぼうとしたからこそ、このお水にしか出せない味があるんです。


信じてみてください。茶葉は、水が持つ『記憶』を引き出すのが仕事ですから」


エルムが取り出したのは、テ・セレストの茶葉の中でも、特に力強く、奥深い甘みを持つことで知られる重厚な黒茶だ。


沸騰させた銀鱗の水が、急須の中で茶葉を躍らせる。立ち上る湯気には、川の清涼な気配と、精霊が五百年の歩みの中で一歩一歩に込めてきた「誰かのために」という切実な祈りの魔力が、透明感のある香りと共に宿っていた。


エルムは、シルキーが祠に届けようと大切に守っていた、籠の底に残る最後の一握りの聖なる塩を、慈しむように一摘みだけ加えた。


完成したのは、琥珀色の液面に星の光が反射したような、不思議な輝きを放つ一杯。『銀鱗の塩茶シルバー・ソルト・ティー』。


シルキーがおずおずと、その温かいカップを両手で包み込み、ゆっくりと口に含んだ。


「…………っ」


シルキーの大きな瞳から、ぽろりと雫がこぼれ、カップの表面に波紋を作った。塩辛さは、どこにもなかった。


むしろ、ほんのわずかな塩気が、黒茶の持つ芳醇な甘みをこれ以上ないほど鮮やかに引き立て、彼女の全身を、500年の孤独さえも溶かすような、深い充足感で満たしていく。


「…すごく、優しい味がします。あたたかくて、なんだか…誰かに『ありがとう』って、頭を撫でられているみたいな…」


「その通りですよ、シルキーさん。その『ありがとう』は、幻ではありません」


ベルが、街の広場から書き写してきた石碑の伝承を、夜風の中で静かに読み上げた。


「サタン閣下は、あなたが塩を溶かすことを、この街を救う『慈しみ』だと呼んでいました。


あなたが毎日、泣きながらでも歩き続けたから、下流の街では何万人もの人の傷が癒え、あの豊かな温泉街が生まれたんです。


あなたの500年は、失敗なんかじゃありません。あなたは世界でたった一人、この川を『命の水』に変える魔法を使い続けてきたんですよ」


シルキーは、自分の手が、そして絶望して見つめていた川の水が、誰かの幸せに繋がっていたことを初めて知った。


それは、サタンが伝承の中に隠した「過去からの静かな感謝」だった。


彼女は顔を覆い、今度は「失敗」の呪いから解き放たれた、喜びの涙を流した。



翌朝、陽光が川面を眩しく照らし、霧を黄金色に変える頃。エルム、エターナ、ベルの三人は、街の領主の館を訪ねた。


朝の光に満ちた領主の執務室で、三人は温かい出迎えを受けた。領主は、旅人である彼らが街の石碑に興味を持ったことを喜び、快く対話の時間を作ってくれた。


ベルは、管理局時代の冷静さを保ちつつも、今回は柔らかい微笑みを浮かべて切り出した。


「領主様。昨夜、この街の素晴らしい伝承を拝見しました。魔王サタン閣下が残された『姿の見えぬ精霊を祀れ』という言葉。


私たちは、その言葉の裏側にある、閣下の小さな『忘れ物』に気づいたのです」


領主は不思議そうに首を傾げた。


「忘れ物…ですか? 我らは代々、この銀鱗の水の恩恵に感謝し、上流を聖域として守ってまいりましたが…」


「ええ。閣下はこの川が薬となる仕組みを知り、精霊様を守るためにあえてその姿を隠されました。


ですが、あまりに大切に隠しすぎたために、精霊様ご自身が、自分が必要とされていることに気づけないまま500年を過ごしてしまったのです」


ベルの言葉に、領主はハッとしたように目を見開いた。


「彼女は今も、上流で独り、失敗を嘆きながら歩き続けています。


そこで、ご提案があるのです。閣下が遺した伝承に、最後に必要な一欠片…『心からの感謝を届ける儀式』を、この街の新しい伝統として取り入れてはいただけませんか?」


領主は、自分たちが聖なる奇跡として享受してきた水の裏側に、孤独な精霊の歩みがあったことを初めて深く理解し、胸を打たれたようだった。


「…なんと。我らはただ、その恩恵を授かるばかりで、精霊様のお心にまでは思いが至りませんでした。……して、我らに何ができるでしょうか」


そこでエルムが、静かに一通の書状を差し出した。それは命令ではなく、友人に宛てるような、温かい手書きのレシピだった。


「精霊様は、直接人前に姿を現すことは望まれていません…ですが、このお茶の香りと温もりなら、彼女の元へ届けることができます。


これが、精霊様が最も気に入られた『銀鱗の塩茶シルバー・ソルト・ティー』のレシピです」


「毎日、川辺の供物台に、この淹れたての温かいお茶を一杯捧げてあげてください。彼女が通る道に、その香りが漂うように。


美味しいお茶は、どんな言葉よりも優しく『現在の私たちからの感謝』を伝えてくれますから」


領主はそのレシピを、まるで失われた宝物を見つけ出したかのような、慈しむような手つきで受け取った。


「ありがとうございます。これこそが、我らと精霊様を繋ぐ、真の祈りとなるでしょう。閣下が残された規律は、これでようやく完成されたのですね」



旅立ちの時。


一行は、いつもの岩場で待つシルキーの元へ向かった。彼女の表情からは、昨夜までの重苦しい霧は晴れ、朝の光に透けるような清々しい決意が宿っていた。


「エターナ様、エルム様、ベル様。…私、やっぱり今日も塩を運ぼうと思います」


シルキーは、新しく詰めた塩の籠を背負い、きらきらと輝く川面を見つめた。


「また途中で溶かしちゃうかもしれません。祠までは、まだ全然届かないかもしれない…。でも、もう落ち込みません。


私が一歩歩くごとに、下流の街の人たちの傷が治るのなら、何度でも、何度でも挑戦します。それが今の私にとって、一番幸せなことだって分かったから」


彼女が籠を背負い直すその手つきには、500年前にはなかった、静かな「誇り」が宿っていた。


「ふん。相変わらずおめでたい奴だ。だが、その頑固さだけは認めてやろう。おい、シルキー。


あまり泣いてばかりいるなよ。水がしょっぱくなりすぎると、エルムの茶の味が狂うからな」


エターナは不敵に笑いながら、紺碧のコートの襟を立てた。その瞳は、旧友の再生を見届けた安堵に、わずかだけ優しく揺れていた。


「分かりました!エターナ様は、エルム様の淹れるお茶が大好きなのですね!」


「なっ…!わ、私はお茶全般が好きだ…」


シルキーから想定外の返事に、不意を突かれて耳を赤らめるエターナと、それを見て笑うエルムとベルを乗せた馬車がゆっくりと動き出す。岩陰からそっと、けれど力強く手を振るシルキー。


その川岸には、領主自らが配置したばかりの新しい供物台があり、そこから立ち上る塩茶の湯気が、朝霧と共に精霊を優しく包み込んでいた。



馬車は再び山道を下り、標高が下がるにつれて空気は湿り気を帯び、深い蒼の色彩を帯びていった。


やがて、一行の眼前にその姿を現したのは、数多の運河が網の目のように走り、陽光を受けて宝石のように煌めく水の大都市だった。


水の流れが持つ、無限の深みと、すべてを飲み込んで静止するような、絵画のような美しさ。


絶えず流れる透き通った水が奏でる心地よい音色。


「…綺麗。ここが、サタン閣下のいらっしゃる水の都…」


ベルが、お気に入りのコートの襟を握りしめて呟いた。


「大きい街だね。間違いなく、この街のテ・セレストには限定茶葉が置いてあると思う…」


エルムが手綱を引く。馬車はゆっくりと、都へと続く巨大な石橋を渡り始めた。


「うむ、茶葉の選定はエルムに任せる」


「私も同行しますからね!ちゃんと路銀のことも考えてくださいね!」


ベルの悩みは尽きない…

第15話をお読みいただきありがとうございます!


「サタンからシルキーへ感謝」と、エルムたちが引き出した「人々からシルキーへの感謝」。この2つが合わさることで、彼女の500年が報われました。


いよいよ次は魔王サタンの本拠地へ。水の都での出会いと物語にご期待ください!

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