第14話 残念な精霊と奇跡の川
夜の静寂を切り裂くように、どこか懐かしく、けれど見覚えのない華やかな灯りが一行の視界に飛び込んできた。
水の都へと続く山間の街道。切り立った岩肌が両脇に迫る、圧迫感のある道を抜けた瞬間、突如として視界が開けた。
眼下に広がっていたのは、無数の提灯と魔導ランプが灯り、夜の闇を黄金色に染め上げる、活気溢れる温泉街だった。
「うわー…大きな街ですね!」
馬車の窓から身を乗り出すようにして、ベルが驚きの声を上げた。
「おかしなこともあるものだ。私が数百年前にここを通った時は、ただ冷たい川が流れるだけの寂しい山道だったはずだがな」
御者台で手綱を握るエルムの隣で、エターナが興味深げに目を細めた。
彼女の記憶にある『銀鱗の川』は、夜霧と月の光だけが頼りの静謐な聖域だった。
それが今や、川沿いには立派な石造りの宿が建ち並び、湿り気を帯びた空気には、ほのかに磯のような、清涼な塩の香りが混ざっている。
「エルム。少し先、あの岩場の近くに何かいる。水の音に、不自然な震えが混ざっている」
エルムがゆっくりと馬車を止めると、そこには轟々たる川の音に混じって、細く、頼りない泣き声が響いていた。
「…ううっ、ひっ、ひぐっ…また、また消えちゃった…どうして、どうして私、いつも…あんなに、一生懸命に運んだのに…」
月明かりの下、水色に透き通った髪を揺らし、小さな岩場にうずくまっている小さな影があった。
背中には、自分と同じくらいの大きさの、編み込みの籠を背負っている。
だが、その中身は空っぽで、彼女は何度も何度も、空になった籠の底を覗き込んでは、新しい涙を川へと落としていた。
「……シルキー? お前、まさか、あれからずっと続けているのか?!」
エターナが馬車を降り、岩場へと歩み寄りながら、呆れたような、けれどどこか懐かしむような声をかけた。
泣いていた影――精霊シルキーは、びくりと肩を揺らすと、震える瞳でエターナを見上げた。
「エ、エターナ様……? ……ああっ、お恥ずかしいところを! 私、また失敗しちゃったんです。一族の大切な聖なる塩を、対岸の祠に届ける前に全部、川に溶かしちゃって……」
この地に住まう塩の精霊の一族には、代々『聖なる塩を川の対岸にある祠へ届ける』という、厳格な役目が課せられている。
精霊が一歩踏み出すごとに癒やしの魔力を蓄積していくその塩は、祠に届けることで世界の浄化を司る……一族の間では、そう信じられてきた。
だが、シルキーは生まれつき、おそろしくどん臭かった。
彼女が川に足を浸し、祠を目指して歩き始めるたび、彼女の体から溢れる魔力と川の水が、まるで磁石のように強く反応し合ってしまう。
すると、背負った塩はあっという間に水に解け、対岸に着く頃には籠は空になってしまうのだ。
「もう500年です。500年間、私は毎日、新しい塩を籠に詰めては、川の途中で全部無くしてしまう…私、精霊失格です。一族の恥なんです…」
「500年、毎日同じことを繰り返して、一度も成功していないというのか?」
「はい、そうなんです…」
シルキーは再び顔を覆って泣き出した。
ベルは居た堪れなくなり、シルキーの傍らに膝を突いた。
「シルキーさん、泣かないでください。…500年も、たった一人で続けてきたなんて、それは失敗なんかじゃなくて、すごく立派な…信念だと思います」
「いいえ、失敗なんです。対岸の祠は、いつもあんなに遠くて、空っぽなんです。私は一度も、あそこに何かを届けられたことがない…」
シルキーの絶望は、深く、暗かった。彼女にとって、この銀色に輝く川は自分自身の「無能」を500年にわたって証明し続ける、冷たく残酷な鏡のような存在だった。
一行は川のすぐ下流に広がる街、『塩の聖域』へと立ち寄ることにした。
そこは、山間の静寂とは対照的な、異様なほどの活気に満ちた街だった。
街のいたるところから白い湯気が立ち上り、湿り気を帯びた空気には、ほのかに磯のような、清涼な塩の香りが混ざっている。
深夜だというのに、街の至る所にある公衆浴場には、魔王領全土から集まってきたであろう魔族や人間たちが溢れていた。
「不思議な街ですね。みんな、すごく幸せそうな顔をしています」
ベルが周囲を見渡しながら、独り言のように呟く。
足を怪我した戦士、重い皮膚の病を抱えた老人、羽を痛めた有翼族の少女。彼らは一様に、川の水を湛えた浴場に浸かり、安らかな表情で「精霊様のおかげだ」と口々に囁き合っていた。
「……精霊様。シルキーさんのこと……でしょうか?」
ベルは、街の中央広場に鎮座する、巨大な黒石の石碑の前に立った。
そこには、かつての魔王サタンがこの地に街を作るよう指示した際に残したとされる、古い「お触れ書き」の文言が刻まれていた。
『上流より流れる銀の水は、精霊の慈しみによって成る薬である。この地に街を築き、姿の見えぬ精霊を厚く祀るべし。その恩恵を忘れることなかれ。』
「…サタン閣下は、すべてを知っていたんですね。シルキーさんが塩を運ぼうとして、結果として川に溶かし続けていることを」
ベルの言葉に、隣で聞いていたエルムが静かに頷く。
精霊シルキーが「誰かのために」と願い、祠を目指して歩くその一歩一歩が、背負った塩に癒やしの魔力を宿らせていく。
そして、彼女が「失敗した」と嘆いて塩を溶かした瞬間、その凝縮された祈りにも似た魔力は、水に解き放たれ、川全体を至高の「薬」へと変えていたのだ。
「閣下はこの街を、シルキーさんが『失敗』し続けることで生まれる奇跡を、最大限に受け取り、活用するための『装置』として設計したんですね。…でも」
「サタン閣下は、人々に『精霊に直接感謝を伝えろ』とは命じなかった。
『姿の見えぬ精霊様を祀れ』と、あえて彼女を神秘のヴェールの向こう側に隠してしまった。彼女が人間に利用されたり、歩みを邪魔されたりしないように守るために…」
「…守っているつもりで、その実、シルキーの孤独はそのままにしているのだな…サタンというヤツは、いつも詰めが甘いやつだ」
エターナが冷ややかな視線を石碑に投げた。
サタンは、シルキーを「守る」ことには成功した。だが、彼女は500年の間、自分が誰かに感謝されていることも、自分の歩みに意味があることも知らず、自分を責め続けてきたのだ。
「シルキーに会いに行こう。彼女の500年が、どれほど温かいものだったのかを…今度は、形にして伝えてあげよう」
エターナは「勝手にしろ」と言いながらも、既に川の上流へと続く道を歩き始めている。
岩場では、シルキーがまた、明日届けるための新しい塩を籠に詰め、月明かりの下で震えていた。
自分は無能だ、自分は恥さらしだ。そう思い込み、自分自身を呪いながら、彼女はまた、溶けてしまうことが約束された「不毛な儀式」を始めようとしている。
銀鱗の川の飛沫が街の灯りを反射し、宝石のように輝いている。シルキーは、長い歳月をかけて、豊かな街と美しい景観を作り上げていたことをまだ知らない。
魔王サタンが忘れた最後のピースを埋めるため、一行は再び、静かな夜の川辺へと歩みを進めた。
第14話をお読みいただきありがとうございます!
今回は、エターナの古い知り合いでもある精霊シルキーの「500年間の失敗」が、実は多くの人々を救い、美しい街を作り上げてきた「祈り」そのものだった…という物語の前編を描きました。
ここでも魔王サタンの不器用さが見え隠れし、彼の人物像が浮き彫りになってきました。
物語は次回の解決編(第15話)へと続きます。
エルムたちが、いかにしてシルキーの心を解きほぐし、街の人々との間に「新しい絆」を結ぶのか?
次回の更新もどうぞお楽しみください!




