第13話 自分なりの戦いと双月雲糸のコート
ルナ・テラスの夜明けは、霧と共に訪れる。
カシムの小屋の古い姿見の前で、ベルは深く息を吐き、自らの身なりを整えていた。
旅の汚れを丁寧に落とし、皺一つないよう整えたのは、管理局時代の面影を残す、機能的で端正な事務服だ。鏡の中の自分と視線を合わせ、ゆっくりと背筋を伸ばす。
「…よし!行きましょう」
特別な紋章も、かつての役職を示す腕章も、今の彼女には必要なかった。
昨夜、エルムが淹れてくれたチャイの熱と、自らが書き上げた書類の重み。それだけで、彼女の心は十分に武装されていた。
小屋の外では、エターナが退屈そうに杖の石突で地面を叩いていた。夜通し丘全体の魔力に神経を尖らせていたはずだが、その表情には疲れの色一つない。
「ようやく終わったか。さっさと行ってこい、ベル。その紙切れで何が変わるのか、せいぜい見せてもらうぞ」
エターナは飽きもせず、一つ欠伸を噛み殺した。彼女にとって、夜の魔物から仲間を守り抜くことなど、呼吸をするのと同程度の些事に過ぎない。
一行が小屋を後にする際、彼女は杖をひと振りして結界を解いた。その所作があまりに無造作で、ベルは改めて彼女の底知れなさを感じ、少しだけ頬を緩めた。
領主バートロン男爵の館は、この街の現状を象徴するように、豪華だがどこか機能美に欠け、威圧感だけが先行していた。
「元管理局員、ベルです。バートロン男爵へ、火急の進言に参りました。魔王領統治規律、第百二十八条に基づき、拝謁を願い出ます」
門衛の兵士たちは、ベルが放つ静かな気迫と、迷いのない言葉に気圧された。声を荒らげるわけではない。
ただ、その立ち居振る舞いそのものに、この街の役人たちとは一線を画す「威厳」を見せつけられ、彼女の訪問を断ることができなかった。
執務室の奥で、脂ぎった顔を歪めて一行を迎えたバートロン男爵は、不愉快そうに鼻を鳴らした。
「小娘、この地の『効率化』はサタン閣下の望みだ。羊を外に出すなどという非効率な感傷に、私の貴重な時間を割くつもりはない」
「…『効率』、ですか。その言葉を、少しだけ定義し直させていただけませんか」
ベルは震える指先を隠すように、そっと書類を差し出した。声は凛としていたが、その奥には自らの信念を懸けた緊張が滲んでいる。
「男爵。あなたが『効率』として追求されている生産体制は、サタン閣下の訓令と照らし合わせると、重大な誤解を含んでいる恐れがあります」
バートロンの眉がぴくりと動く。
「閣下が第一項に記されたのは『神秘資産の永続的保全』です。決して、目先の供給量ではありません。
双月の光を失った羊毛は、魔法的な価値を失い、この地の誇りそのものを毀損しています。
これは、閣下が最も懸念される『資産の劣化』に当たります。このままでは、あなたは閣下の真意を裏切ることになりかねません…そうではありませんか?」
「くっ…。だが、供給を止めれば都市の産業が…!」
「いいえ。産業を守るためにこそ、視点を変えるべきです。私は、そのための計画書を持ってきました」
ベルはそこで、厳しい表情を解き、誠実な眼差しで男爵を見つめた。
「男爵。閣下への忠誠心ゆえの焦りであったことは理解しています。であれば、量産品で小銭を稼ぐのではなく、この土地にしか生み出せない『奇跡』を守るべきです。
雪の都『スノーグレイズ』への販路と需要はもうじき復活するはずです。
これからは、選ばれた者だけが手にできる『芸術品』として、この地の羊毛を育てる。それこそが、閣下の愛したこの丘の、あるべき姿ではありませんか?」
ベルの言葉は、男爵の心にある「領主としての矜持」に火をつけた。
男爵は渡された書類を食い入るように見つめ、やがてその震える指先で、自身の顎を撫でた。
「……なるほど。……なるほど! 私は、閣下の言葉を表面でしか捉えていなかったのか! 数だけを追うのが統治ではない。
この地の美しさを、価値として昇華させる…。これこそが、真の規律、真の『効率』だというのか!」
男爵の瞳に、打算ではない、純粋な情熱が宿った。彼は立ち上がり、自らの不明を恥じるように頷くと、力強く魔導印を書類へ押し当てた。
「ベル殿。先ほどの非礼を詫びる。羊舎の扉を開けさせよう。 我がルナ・テラスの誇り、双月の輝きを…今一度、世界に見せつけてやるのだ!」
その後、バートロンの指示により、放牧の再開および準備が行われ、3日後の夜、重厚な『鋼の羊舎』の鉄扉が、大きな音を立てて開け放たれた。
扉の隙間から漏れる気配を察知した丘の魔物たちが、飢えた眼を光らせて近づいてくる。長らく羊舎に閉じ込められていた雲羊たちは、魔物たちを恐れ、一歩も外に出ようとしない。
「…ふん。事務方は完璧だったが、現場の獣どもは道理を解さぬらしいな」
エターナが、面倒そうに首を鳴らして前に出た。彼女は杖を掲げ、空高く並ぶ二つの月を見上げた。
「エルム。…昨夜の茶の礼だ。この地の淀みを、私の魔法ですべて払い除けてやろう」
彼女が杖を地面に突き立てた瞬間、神話の一幕が丘に降り立った。
――極大結界魔法、双月の氷華。
空を覆う広大な雲が一瞬で凍りつき、巨大な氷の華となって双月の光を反射した。光は幾重にも増幅され、丘全体が白銀の海のように輝き出す。
魔物たちはその神聖な輝きに焼かれ、霧のように霧散し、丘全体を覆うように、まるでオーロラのような幻想的な結界が展開された。
そして、その光に誘われるように。
一頭の羊が、おずおずと外へ踏み出した。その毛が月の光を吸い込んだ瞬間、まるで内側から発光するように白く輝き始める。
続いて、二頭、三頭。数百頭の羊たちが、地上の雲となって丘を埋め尽くしていく。
「ああ、これだ。この景色だ…」
カシムが涙を流し、その隣でバートロン男爵もまた、言葉を失ってその光景に見入っていた。
ベルは、隣に立つエルムの袖を、少しだけ強く握りしめた。ようやく解放された緊張で、その手はまだ微かに震えていた。
「…エルムさん。私、少しは役に立てましたか?」
「少しどころじゃないよ、ベル。君が、この景色を再現したんだ」
数日後。
活気を取り戻し始めたルナ・テラスを後にする朝、エルムは二人の前に二つの包みを差し出した。
「カシムさんがね、大切に保管していた一番良い羊毛を分けてくれたんだ。…二人へのお礼に、街の仕立て屋さんに頼んでおいたんだよ。これからの旅は、もっと寒くなるから」
ベルが受け取ったのは、春の朝焼けを思わせる、淡く、けれど芯の強い桃色のコートだった。
「わぁ。ふわふわで柔らかい。…ありがとうございます、エルムさん。一生の宝物にします!」
ベルが感激に瞳を潤ませる一方で、エターナは差し出された紺碧の包みを、まるで未知の魔道具でも見るかのように凝視していた。
「…何だ、これは。私に、これをどうしろと言うのだ」
「どうしろって、プレゼントだよ。エターナに似合うと思って、仕立ててもらったんだ」
エターナの手が、微かに震えた。
彼女は数百年の時を生き、数多の民から貢物を受け取り、望めば最高級のシルクを幾らでも魔法で生成できた。だが。
(…人から、このように、ただ「似合うから」という理由で服を贈られるなど…)
そんな経験は、彼女の長い記憶のどこを遡っても見当たらなかった。 彼女は無言のままコートを羽織った。着た瞬間に、体温と魔法の糸が共鳴し、これまでにない心地よい温もりが全身を包み込む。
「サイズが、少し大きいな…」
かろうじて言葉を捻り出した彼女の顔は、昨夜のチャイの時よりも、さらに鮮やかな朱に染まっていた。尖った耳の先まで赤くしたまま、彼女はコートの襟元をギュッと握りしめる。
「……だが、素材は悪くない。……捨て置くのも無作法ゆえ、着てやってやってもよい」
その様子を見て、エルムとベルは顔を見合わせ、楽しそうに笑い声を上げた。
「さあ、行こうか」
満足げなエルム、そして最高に温かい贈り物をなびかせた二人を乗せた馬車は、双月の丘を下り始めた。
第13話をお読みいただきありがとうございます!
今回は、ベルが事務官としての誠実な強さで領主バートロンを説得し、エターナの圧倒的な魔法によってかつての美しい景色が蘇る、第二章最初の解決編となりました。
規律の真意を読み解き、土地の誇りを取り戻したベルの成長や、初めての「心からの贈り物」に耳まで赤くして戸惑うエターナの姿など、キャラクターたちの新たな一面が詰まったエピソードです。エルムが贈った最高に温かいコートに身を包み、一行の旅は第3魔王サタンが待つ「水の都」を目指して続いていきます。
では、次回もお楽しみください!




