第10話 受け継がれる勇者の決意と銀針
雪の都に、本物の静寂が戻っていた。
第七魔王アスモデウス――ミレイユが放った極大魔導『黄金の灰燼』。それをエルムが鞘の先一寸で「調律」し、無力化したのは昨夜のことだ。
都を焼き払いかけた黄金の熱は、今や美しい朝焼けとなって空を薄紅に染め、街の人々は悪夢の終わりを噛みしめるように、深夜まで振る舞われた肉料理の余韻とともに深い眠りについている。
そんな中、都の最高級迎賓館のバルコニーでは、澄んだ空気を震わせるように、シュンシュンと小気味よい湯の沸く音が響いていた。
エルムは、いつものように丁寧な所作で、茶器を温めている。その瞳は、いつもの穏やかな黒に戻っている。だが、その背中に向けられる視線は、昨日までとは明らかに異なっていた。
「……おはよう。みんな、早いね」
振り返ることなく、エルムが声をかける。
そこには、まだ少し眠たげな目を擦るベルと、昨夜の出来事を反芻してか、いまだに顔色が優れないマルコシアス。そして、手摺りに寄りかかり、銀髪を朝風に遊ばせているエターナの姿があった。
「早いのはお前だ、エルム。昨夜あれほどの大立ち回りを演じておきながら、朝から茶の温度を気にするとは、お前の神経はどうなっているのだ?」
エターナの言葉は、相変わらず鋭く、不遜な響きをまとっていた。
だが、その声音には、刺すような冷たさが微塵もない。むしろ、冷え切った空気に触れた瞬間に少しだけ柔らかくなる湯気のように、どこか温かな「余韻」が混じっていた。
昨夜、黄金の光の中で見た、エルムの深紅の瞳。冷徹でありながら、この上なく甘美に世界を律したあの後ろ姿が、彼女の脳裏に焼き付いて離れない。
不覚にも、その圧倒的な「格」に胸を締め付けられてしまった自分。その高鳴りを隠すように、彼女はあえていつもの口調を選んだ――はずだった。
しかし、エルムと視線が合うと、彼女の瞳はわずかに揺れ、言葉の末尾がほんの少しだけ優しく震えてしまう。
「大立ち回りか…。ミレイユ姉さんが無茶振りするから、やむを得ずね。でも、そのおかげで極上のステーキを食べられたんだから、彼女にはちょっと感謝してるよ」
「ミレイユ、姉さん…。あの派手魔王に『感謝』だと? 全く、お前のその、締まりのない顔を見ていると、昨夜のあれが本当に夢だったのではないかと思えてくるな」
エターナは鼻を鳴らし、ふいと顔を背けた。その耳たぶは朝焼けよりも鮮やかに赤らんでいる。
彼女にとってミレイユは、魔王としての圧倒的な才への畏怖と、エルムとの親密さに対する得体の知れない焦燥が混ざり合う、複雑な存在だった。
エルムは困ったように笑いながら、茶葉を量る。その自然体な様子は、昨夜の「絶対者」の面影を感じさせない。
だが、そのミレイユを「姉さん」と呼び、事も無げに肉の件で感謝まで口にする姿が、マルコシアスの胃をさらに痛ませた。
「魔王アスモデウス閣下を派手魔王…。そしてエルム様は姉さんと…。やはり、この御一行に常識を求めてはいけないのですね。うう、また胃が…」
「マルコ、大丈夫かい? さて。ちょうどいい。昨夜はステーキでお腹がいっぱいだったからね。口直しに、少し深い話をしようか」
エルムはそう言って、隠れ里でゼノから預かっていた木箱をテーブルに置いた。中から現れたのは、乳白色の滑らかな輝きを放つ小さな器――『心音の白磁』だ。
「わあ…。これ、あのお爺さんが持っていた器ですね。なんだか、中から光が透けているみたいで綺麗です」
ベルが身を乗り出し、珍しそうに器を覗き込む。あの偏屈な老人が持っていた、意外なほどに繊細で美しい「品物」への好奇心が、彼女の瞳を輝かせていた。
エルムは、マルコシアスが迎賓館の茶室から調達してくれた、贈答用の極上の白茶『銀針』を、そのたった一つの小さな器に注ぐ。
「話す前に、一つだけ確認させてほしいんだ」
ふと、エルムが真剣な眼差しで三人を見渡した。いつもの温厚な空気はそのままに、しかしその言葉には確かな「重み」が宿っていた。
「これから話すことは、この世界の成り立ちに関わる、とても大きな秘密だ。
それを知るということは、ただの平和な旅人ではいられなくなる……ということでもある。
危険を伴うかもしれないし、知らなければ良かったと後悔するかもしれない。…それでも、君たちは聞きたいかい?」
バルコニーの空気が、ぴんと張り詰める。最初に口を開いたのは、ベルだった。
「エルムさん。私は、あの大陸魔導管理局の窮屈な椅子に戻るつもりはありません。エルムさんと一緒に、本当の世界を見たいんです。
それがどんなに怖くても…隠し事をされる方が、悲しいですから」
彼女の瞳には、かつての怯えはなく、強い意志の光が宿っていた。次に、マルコシアスが深いため息を吐きながら、力強く頷いた。
「今更、私の胃壁がこれ以上の衝撃で傷つくことを恐れても仕方がありません。
私はエルム殿の『調律』に、新時代のリーダーの器を見出した。その答えを知る責任が、私にはあります」
そして最後に、エターナが扇を閉じ、エルムの目を真っ直ぐに見据えた。
「何を今更…お前が何者であろうと、何を背負っていようと、それを共有せぬ理由などない。早く淹れろ、その茶を」
「ありがとう。信じてもらえて嬉しいよ」
エルムは穏やかに微笑み、黄金色の茶を啜った。そして、それを隣のエターナへと差し出した。
一つの器を分かち合う、親密な儀式。エターナは迷わずそれを受け取り、自らの唇を寄せた。
「何だ、この感覚は…」
(ああ。昨夜から私の心を支配していた、あの騒がしい雑音が消えていく。)
エターナの瞳から鋭さが消え、深い藍色の湖面のような穏やかさが戻っていく。
ミレイユに対する嫉妬にも似た焦り、別人と言っても過言でないほどに豹変したエルムの姿から受けた動揺。
そうした邪念が洗い流され、澄み渡っていく感覚をはっきりと感じ取れる
「少し、僕の家族の話をするね」
エルムはエターナから器を受け取り、静かに語り始めた。
「僕の父さんは、かつて『勇者』と呼ばれた人物だったんだ。…でも、彼はただの人間じゃなかった。魔族だったんだよ。
魔族でありながら、当時の魔王たちのやり方に疑問を抱き、人間側について勇者として戦ったんだ。変わり者の魔族だよね」
その言葉を聞いた瞬間、マルコシアスは絶句した。
魔界の歴史において、人間に与した魔族の裏切り者――それも「勇者」と呼ばれた者など、聞いたこともない。
「君は僕が何者か、ずっと疑っていただろう? 魔族であり勇者である『剣聖』と、ハイエルフの『魔法使い』。その間に生まれた子。
そして母さんは、その父さんと共に戦ったパーティーの魔法使いだったんだ。
アストレア・エリュシオン。君なら、その名を知っているだろう?」
エターナの持っていた扇が、音を立てて床に落ちた。
アストレア・エリュシオン。
かつてエターナの故郷で、彼女に魔導の真理と賢者としての誇りの在り方を叩き込んだ、彼女にとって唯一無二の師。
数百年前、突如として姿を消し、伝説となった賢者。
「アストレア様が、お前の…母だと…?」
エターナの震える声に、エルムは静かに頷いた。
「二人の間に生まれた僕は、魔族とハイエルフのハーフ。でも、ただの混血じゃないんだ。
魔族の最上位種の父の遺伝子と、ハイエルフの境地に達した母が会得した精霊魔術者の体質、その両方を僕は受け継いでしまった。
だから僕は、魔族の体とエルフの強力な魔力を両方持って生まれた変異種なんだ。
昨夜の紅い瞳と翼の理由はそれなんだよ。…ミレイユ姉さんたちが僕を特別扱いするのも、その血のせいでね」
「待て。では、歴史はどうなっているのだ」
エターナは、崩れそうになる膝を必死に支えながら、エルムに詰め寄った。
「私の師、アストレア様がいた勇者一行は、最終決戦で魔王たちに敗北した。
だから世界は今の七魔王による統治…『停滞の夜』に落ち着いたはずだ。あの方々が負けるはずがないと、私はずっと思っていたが」
エルムは、ふっと薄く微笑んだ。その微笑みは、いつもの温厚なものとは違い、どこか歴史の闇を覗き見るような、冷徹な冴えを帯びていた。
「歴史は、勝者が作るものだからね。表向きは、勇者は敗れたことになっている。
でも、本当のところはどうだったんだろうね? 誰が勝ち、誰が負けたのか。
もし、今の七人の魔王たちが世界を分割して治めている今の形は、あの日、誰かが『話し合った』結果だとしたら、面白いと思わない?」
バルコニーに、ひときわ冷たい風が吹き抜けた。勇者が敗北したのではなく、魔王と「協定」を結んだ。その結果としての、今の停滞。
「エルム…お前、まさか…」
「今は、これ以上は話せないよ。というより、僕自身もすべてを知っているわけじゃないんだ。
ただ、僕の手元にあるこの魔剣が、その答えの一部なんだ。
父さんは言っていた。『抜く必要のない世界を作るために、この剣を託す』とね。
この剣を持ち、お茶を淹れながら旅をする。それが、僕なりの『勇者の続き』なんだと思う」
エルムは腰の剣を撫でた。黒檀の鞘に施された封印の術式は、かつての勇者と魔王たちが交わした、目に見えない「誓約」の証なのかもしれない。
「閣下。それは、あまりにも…」
マルコシアスは、空になった『心音の白磁』を見つめた。そこに宿っているのは、エルムの嘘偽りのない「平和への意志」だ。
自分が仕える魔王サタンも語ろうとしない歴史の真実。もしそれがエルムの言う通りなら、今の世界は「勇者が守った平穏」の上に成り立っていることになる。
「――くだらない」
沈黙を破ったのは、エターナだった。彼女は、何かを決意したような目でエルムを真っ直ぐに見据えた。
「歴史の裏側だの、勇者の息子だの……笑わせるな。お前がどこの誰だろうが、私には関係のないことだ。
私の目に映っているのは、今この瞬間、呑気にお茶を淹れて、誰よりも平和を望んでいる一人の男…ただそれだけだ」
エターナは、不思議と心地よい静かさを感じながら、素直な気持ちを語った。それが、この不思議な純白の器のせいなのかはわからない。
エルムが「魔族」であろうと関係ない。自分を惑わせていた雑念が消え去った今、彼女の胸にあるのは、一点の曇りもないエルムへの信頼だった。
「ありがとう、エターナ」
エルムは、本当に嬉しそうに、いつもの穏やかな微笑みを浮かべた。
「勘違いするなよ! お前がはみ出した存在だと言うのなら、歴史がどうだろうと、その隙間は私が埋めてやる。
だが、お前の淹れる茶が不味くなれば、私は即座に旅を切り上げる」
「エルムさん…。私も、エターナ様と同じです」
ベルは、ほんのり赤らんだエターナの横顔を覗き、やさしい微笑みを浮かべながら、エルムとエターナの手の上に、そっと自分の手を重ねた。
「エルムさんが何を背負っていても…私を救ってくれた手の温かさは本物でした。
瞳の色が変わっても、エルムさんが淹れてくれるお茶の味は…優しくて、ちょっとだけお節介な、いつものエルムさんの味です。私は、それでいいんです」
「ベル、ありがとう」
エルムは器を丁寧に拭き、箱に収めた。
かつて彼を「第零次魔王候補」として担ぎ上げようとした者たちは、誰も彼の「孤独」を見ようとはしなかった。
彼らは彼の力を求めただけで、彼自身の「平穏」には興味がなかったのだ。
だが、今、目の前にいる者たちは違う。
「さて。感傷に浸るのはそれくらいにして、出発の準備をするぞ」
エターナが照れ隠しを切り上げるように言うと、立ち上がった。
「魔王サタンは水の都にいるんだよね?」
マルコシアスは、急にエルムから話を振られて我に返った。
「はっ。魔王サタン閣下は『水の都』におられます」
「ミレイユ姉さんが言い残したことも気になるからね。まずは、サタンとお茶でも飲みながら話してみようと思う」
信頼できる仲間を得たエルムは、再びその鞘を撫でて、光の中へと歩き出した。
雪の都の静かな通りに、馬車の轍が新しく刻まれていく。
それは、凍てついた世界の真実を溶かしていく、優しい旅の続きだった。
第10話をお読みいただきありがとうございました!
今回は、歴史の真実とエルムの出自が明らかになり、メンバーの絆を深めるエピソードとなりました。
「勇者が魔族で、魔王たちに敗北したのではなく、協定を結んだ」という事実は、この世界の根底を揺るがす衝撃です。
エターナの心境の変化が旅にどう彩りを添えるのか、真実を知った各々が、どう考え行動するのか今後が楽しみです。
次のお話もぜひ楽しんでいただければと思います!




