第11話 双月の雫と琥珀の烏龍茶
雪の都『スノーグレイズ』を後にした一行の馬車は大陸を北上し、標高の高い緩やかな丘陵地帯へと差し掛かっていた。
そこは『双月の丘』と呼ばれる地域だ。日が沈み始めると、他の地では決して見ることのできない、幻想的な時間が訪れる。
「あ、見てください!月が、月が二つあります!」
馬車の窓から身を乗り出すようにして、ベルが歓喜の声を上げた。
まだ藍色が残る東の空。そこには、慈愛に満ちた淡い金色の「本月」と、その傍らに寄り添うように輝く、硝子細工のように硬質な青を帯びた「副月」が並んで昇っていた。
二つの月光が交差するこの丘では、すべての影が二重に重なり、道端の草木一枚に至るまでが真珠のような光沢を帯びる。
現実離れした、まるで神話の挿絵の中に迷い込んだかのような光景だ。
「この地域の魔素のバランスが引き起こす、特殊な屈折現象だ。
古のエルフの伝承では、二人の女神が背中合わせに語り合う夜と言われている…。
まあ、ただの光の悪戯にしては、悪くない眺めだな」
エターナは扇で口元を隠しながらも、その銀色の瞳に二つの月の輝きを深く映していた。
彼女のような長命種にとっても、この光景は心を揺さぶるものがあるらしい。
「この二つの月の光こそが、この地の宝を育むんだよ。昼間の力強い太陽と、夜の静かな双月の魔力。
その両方を交互に浴びて育つ羊の毛は、着る人の体温を読み取って、暑い時には涼しく、寒い時には温かく調整してくれるんだ。
魔法の糸、なんて呼ばれたりもするね」
エルムは御者席で手綱を握りながら、穏やかに解説した。
彼の目的は、かつてこの地で産出されていた伝説の羊毛『双月雲糸』。
高級茶葉専門店『テ・セレスト』が、極稀に顧客へ贈る「茶器保護用の巾着」に使われていたその素材を、自分の手で確かめたいという、彼らしい動機だった。
「雲羊ですね!雲のようにふわふわで、光を吸い込む羊さん。会えるのが楽しみです!」
ベルが期待に胸を膨らませる中、馬車はやがて麓の街『ルナ・テラス』へと入った。
だが、そこで一行を待ち受けていたのは、期待していた情緒とは程遠い光景だった。
「なんだか、思っていたのと違いますね。羊の鳴き声よりも、機械の駆動音の方が大きく聞こえます」
ベルが耳を澄ませ、不安げに眉をひそめる。
街の郊外、かつては緑豊かな放牧地であったはずの斜面には、巨大で無機質な石造りの「羊舎」が、まるで監獄のようにいくつも立ち並んでいた。
窓は小さく、鉄格子がはめられ、そこからは魔導ランプの不自然に強く、青白い光が漏れ出している。
街の空気は重く、どこか焦燥感に満ちていた。行き交う人々は足早で、広場にある噴水は枯れ、かつての名産品を誇る看板はどれも色褪せている。
何より、街全体に漂うのは、清涼な丘の風ではなく、鼻を突くような焦げた油と、家畜の不衛生な匂いだった。
一行は、街外れにある一軒の古びた家を訪ねた。
今夜の宿を探していたところで、道端で弱った羊の世話をしていた老人に声をかけられたのだ。
「ああ、旅の人かね。あいにく、お出しできるような上等な羊毛は、もう手元にはないんだよ」
老羊飼いのカシムは、自嘲気味に笑いながら、家畜小屋に残されたわずか数頭の羊を撫でた。
その羊たちの毛は、確かに柔らかそうではあったが、月の光の下でも「輝いて」はいなかった。
「どうして、あんな大きな建物に羊を閉じ込めるんですか?
外の丘はあんなに広いのに。双月の光を浴びないと、いい毛は育たないってエルムさんが言っていました」
ベルの問いに、カシムは深い溜息をつき、粗末な木椅子に腰を下ろした。
「…昔はそうだった。先代の魔王サタン閣下が治めていた頃は、我ら羊飼いは自由に丘を駆け、羊と共に双月の光を浴びて生きてきた。
それがこの地の誇りであり、『双月雲糸』の輝きそのものだったのだからな」
カシムの濁った瞳が、遠い過去を追うように細められる。
「だが、代替わりしてからすべてが変わってしまった。新しい魔王閣下が即位されてから、この地には『効率』という名の規律が持ち込まれたのだ。
領主のバートロン男爵は、羊を魔物から守り、供給を安定させるという名目で、すべての羊をあの『鋼の羊舎』へと押し込めた。
二十四時間、人工的な魔導光を照射し、季節を忘れさせて毛を伸ばし続ける…。
それはもう、生き物ではなく、ただの毛糸を吐き出す機械のようだ」
カシムの手が、手元の羊を愛おしそうに、震える指先で撫でる。
「魔王閣下や領主様が何を考えているのかは分からぬ。だが、太陽と双月の光を交互に浴びない毛に、魔法は宿らない。
今や、この街で作られているのは、見た目だけを似せた『粗悪な毛糸』ばかりだ。
かつての輝きを知る者たちは、一人、また一人と丘を去っていった…」
「魔法の本質を見失い、ただ神秘を数値に置き換えて消費するだけの無機質な使い道だ…
この地の権力者どもは、揃いも揃って救いようのない愚か者ばかりだな。」
エターナが不愉快そうに鼻を鳴らした。
エルムは、静かに火鉢の準備をしながら、カシムの言葉を一つ一つ噛み締めていた。
やがて、シュンシュンとお湯が沸く音が、沈痛な空気の流れる部屋に響き始める。
「少し寒くなってきましたね…カシムさん、少しお茶を飲みませんか。」
エルムが淹れたのは、テ・セレスト製のウーロン茶をベースにした、ほのかに花の香りが漂う一杯だった。
カシムは震える手で茶碗を受け取り、一口飲むと、その温もりにこわばっていた肩の力を抜いた。
「…ああ、旨い。こんなに心が落ち着く茶は、久しぶりだ。礼と言っては何だが、これを見てくれないか」
カシムは重い腰を上げ、部屋の奥から一枚の大きな油絵を持ってきた。額縁は古びているが、大切に手入れされていたことが分かる。
その絵を覗き込んだ瞬間、ベルは息を呑んだ。
描かれていたのは、夜の放牧風景だった。
二つの月に照らされた無数の『雲羊』たちが、丘全体を覆い尽くし、まるで地上の雲が流れているかのように白く、神秘的に輝いている。
羊たちの一頭一頭が、生命の喜びを歌い上げるように光を放ち、それを見守る双月は、どこまでも優しく、そして気高い。
それは、現実のものとは思えないほどに澄み渡り、どこか遠い昔に読んだおとぎ話の絵本の表紙を思い出させるような、優しくも鮮烈な光景だった。
「…なんて、綺麗。これが、本来の双月の丘なんですね」
ベルの言葉に、カシムが小さく頷く。
「昔、ここに立ち寄った風変わりな娘さんが描いてくれたのだ。
彼女は、今のあんたたちと同じように、この断崖の上からずっと双月を見つめていたよ。」
エルムは、絵の右下に記された小さなサインに目を止めた。
――『Phia』。
「フィア…」
その名前に聞き覚えはない。
絵から溢れ出す繊細な魔力の残光と、静かな慈愛を感じさせる筆致から、心からこの情景を大切にしていることが伝わってくる。
「ねぇ、カシムさん。鋼の規律を謳う現在の魔王サタンは、本当に今のこの街のあり方を望んでいるのかな…僕にはそうは思えないんだ…」
エルムが呟いたその時。
家の外で、荒々しい軍靴の音と、機械的な馬の嘶きが響いた。
「おい、カシム!まだここにいたのか!」
乱暴に扉が開け放たれ、数人の兵士たちが踏み込んできた。先頭に立っているのは、脂ぎった顔を歪めた、領主の執事らしき男だ。
「バートロン男爵様からの最終通告だ。お前が隠し持っているその数頭の羊も、今すぐ『鋼の羊舎』へ移送する。
非効率な放牧は、閣下の規律に背く行為だ。この羊たちの毛も、来週のノルマ分として計上することになっている」
「待ってくれ! この子たちはもう老いている。あんな光も風もない場所に閉じ込めたら、すぐに死んでしまう!」
カシムが兵士に縋り付くが、男はそれを無情にも振り払った。
「死んだら皮として加工するまでだ。さあ、連れて行け!」
兵士たちが無理やり羊小屋へ向かおうとする。カシムは地面に伏し、震える手で土を掴んだ。
エルムの瞳に、わずかに冷たい火が宿る。彼が兵士たちを呼び止めようとした、その瞬間。
「――ちょっと待ってください!」
凛とした、だがどこか震えている声が響いた。声の主は、ベルだった。
彼女は、いつの間にかカシムの前に立ち、兵士たちの行く手を遮っていた。
その手には、管理局時代の古い手帳と、かつて身につけていた紋章入りの腕章が握られている。
「何だ、お前は? 旅の小娘が、男爵様の命令に口を出すつもりか?」
男が嘲笑うが、ベルは一歩も引かなかった。
「私は管理局の元・特別秘書官、ベルです。
現在、この地で行われている管理体制が、サタン閣下の本来の指示と照らし合わせて、重大な『解釈の誤り』を含んでいる可能性を指摘します」
「……あ?」
「このまま羊を徴用すれば、閣下が最も重視される『神秘資産の永続性』を損なう恐れがあります。その責任、あなたは取れるのですか?」
ベルの言葉に、執事の男はたじろいだ。管理局、閣下、特別秘書官。その響きに含まれる「権威」に、役人としての本能が反応したのだ。
「…ふ、ふん。戯言を。証拠もなしにそんなことが通ると思うか」
「証拠なら、私が用意します」
ベルは振り返り、エルムとエターナを見た。その瞳には、かつてないほどの鋭い意志と、仲間への信頼が宿っていた。
「エルムさん、エターナさん…。今回だけは、私に任せてください。事務方には、事務方にしかできない戦い方があるんです」
エルムは、驚きと共に、どこか誇らしげな笑みを浮かべた。彼女を「守るべき対象」だと思っていた自分を、恥じるような心地よさ。
エターナはといえば、この退屈な茶番が「極上の見せ物」に変わる予感に、不敵な笑みを扇の陰で深く刻んでいた。
「分かった。ベル、任せるよ」
ベルは深く頷くと、再び兵士たちに向き直り、言い放った。
「男爵様への公式な異議申し立て、および改善計画案を作成します。……一晩、一晩だけ時間をください」
その毅然とした態度に圧されたのか、執事の男は忌々しそうに舌打ちをした。
「…チッ。いいだろう、明日の朝まで待ってやる。だが、ろくな提案ができなければ、その羊もろともお前たちも街から叩き出すからな!」
兵士たちが去っていく。静寂が戻った部屋で、ベルは安堵からか、小さく膝を震わせた。
「ベル…。お前、いつの間にあんな口が利けるようになったのだ」
エターナが呆れたように、だが少し感心したように言う。
ベルは恥ずかしそうに笑いながら、手帳を強く抱きしめた。
「私、ずっとお二人の背中を見てきましたから。お二人のように強くはなれないけれど、私なりの戦い方で、この街の宝物を守れるかもしれないって…そう思ったんです」
窓の外、二つの月がさらに高く昇り、銀色の光が部屋を優しく満たしていた。
壁に掛けられた『双月の丘』の絵が、まるで未来を予見するように、静かに、力強く輝いていた。
第11話をお読みいただきありがとうございます!
今回から物語は「第二章:守りたかったもの」へと突入しました。
今回の見どころは、幻想的な双月の輝きと、それとは対照的な「効率」に支配された無機質な現状の対比です。
かつての旅人が残した絵画に心を打たれたベルが、自らの事務方としての知見を武器に「一晩」を要求して立ち上がるシーンは、彼女の大きな成長を感じさせる重要なハイライトとなりました。
次回もぜひお楽しみください!




