53話・その後のスターシャ一家
「こんにちは」
「あら、いらっしゃーい」
数日後。私はノアールとパン屋さんに来ていた。その後のスターシャさん一家が気になっていた。スターシャさんは今日も元気にカーチャと二人でお店に出ていた。店の奥から焼き立てのパンの匂いがする。お盆に乗せたパンを運んできた老人を見て驚いた。それはステパンだった。
「只今、ロールパンが焼き上げたばかりです。おひとつどうですか?」
お店に自然に馴染んでいた。目をぱちくりしている私を見て、スターシャさんが言った。
「この間は迷惑かけてごめんよ。これ、うちの旦那。この間、ひょっこり帰って来てね。もう、驚いたの、なんの」
「初めまして。うちのがお世話になったようで」
ステパンは私とノアールに挨拶してきた。声音には再会したような響きはなかった。私達を初めて見る顔をした。ノースデン山での出来事は、すっかり忘れてしまったようだ。
「どうもね、旦那ったら今まで記憶を失っていたらしく、今までノースデン山の麓の修道院でお世話になっていたみたい。そこの修道院長さまが馬車を出してくれたみたいで、その馬車に乗って帰ってきたのよ」
「良かったですね。スターシャさん」
「本当に無事で良かったよ」
スターシャは、長いことステパンの帰りを待ち続けていた。アイオライト公爵はその辺りは上手く誤魔化したようだ。彼には竜胆達の記憶はないし、修道院でお世話になっていたとするのが妥当だろう。
「それにしても馬鹿だよね。あたしの誕生日プレゼントに竜胆の花を摘みに行って、崖から落ちて記憶を失くしていたなんてさ」
そう言いながらも、ステパンを見るスターシャの目つきは優しい。
「ご丁寧にも修道院長さまからの手紙には、長いこと素性が知れずに保護していたことへのお詫びが綴られていたよ。あたしも馬鹿だね。身元不明者の届けを役所に申請すればもっと早く旦那のことが知れたかもしれないのに、そこまで気が回らなかったよ」
恐らくその修道院長さまの手紙と言うのは、アイオライト公爵が用意した物だろう。あの指パッチンの裏でここまで用意されていたとは。侮れないお方だ。
「婆ちゃんは抜けているからな」
「ダニール」
店の奥からダニールと、その妻のカーチャも顔を出した。この間はありがとうございましたと二人は頭を下げて来た。ダニールは父親のステパンのことを、自分達を捨てた非情な父親だと思い込んでいた。いきなり父親が帰って来て、戸惑っているのではないかと思っていたが、その辺りの心配はいらなかったようだ。
「爺ちゃんの記憶が戻って帰って来てくれてよかった」
「済まなかったな。長いこと音沙汰もなくて……」
「仕方ないですわ。お義父さんには記憶がなかったのですから」
ダニールは父親を非難しながらも、父親のことを心の底では慕っていたのだろう。カーチャが再会した時のことを教えてくれた。
「この人が戻ってきた日。ダニールはね、一目でこの人の事、父親だと分かったのよ。店の前で佇むこの人に向かって、お帰りって声かけて……。早く中に入れよ、婆ちゃんが待っているって、ぶっきらぼうに言ってね」
「あの時、爺ちゃんは竜胆の花束を持っていた。それで察した。竜胆の花は、婆ちゃんが大好きな花だから」
ダニールはステパンが母親の元へ帰ってきたことで、父親を疑っていた気持ちを自分の中でうまく消化させたようだ。父親を信じたのだろう。それと母親が長いこと帰りを待っていた相手が、自分達の元へ帰って来てくれたことで長い不安から解放されたようで、朗らかな顔付きをしていた。




