未完成
「うっす。」
「久しぶり、アツ」
「アツって呼ぶな。そう呼んでいいのは桃花だけだ」
「あ、そういうことか。えじゃあなんて呼べばいいの?」
「陽翔」
今日は朝からゆりの家であの二人に聞かせる曲の練習をしていた。そして午後になり、二人にゆりの家まで来てもらったところでまさかのアツの名前が日向陽翔という名前であることに驚く。名前のどこかに『アツ』って入ってるもんだと思ってた。
しかし、今の僕の魂は他のところにいる。そうだ。防音室だ。
二人が来たということは二人に僕の歌声を聞かせるということだ。
心因性失声症になったあの日から僕は人前で歌うことから逃げてきた。なぜなら怖かったから。またあの歌えない辛い苦しい時期が来るんじゃないかって怖かったから。
でもここの壁を乗り越えない限り僕の夢は叶わない。僕は音楽をやっていきたいんだ。ゆりと馬鹿やっていきたいんだ。
そういって自分を奮い立たせるしかできない。
二人を後ろに防音室まで案内する足も、防音室のドアを握る手も震えていることは僕が一番わかっている。
「へええええ!!!!こんなバカデケエ防音室が家にあるとか金持ち~~~~~~!!!」
「アツ!そういうのは思ってても言葉に出さないものでしょう?」
「え?最大限の誉め言葉のつもりなんだけど」
「はいはいそうですか」
痴話喧嘩を始める二人など視界に入らないくらいに僕は内心焦っていた。
ひんやりとした床とアコギの温度が僕の心まで伝わってくる。
大丈夫。落ち着け自分、落ち着け。もう声が出なくなることなんかない…はず。
大丈夫。治ったんだから。
大丈夫、僕は何も悪くない。
大丈夫、みんな僕の声を好きだと言ってくれるんだから。
それでも極寒の中裸でいるのかというほど震える身体と暴れる心臓に、こんなことならバンド組もうなんて言うんじゃなかった、と思う気持ちが湧き出てきたところでゆりが僕の方に駆けつけてきた。
「律?…はい、深呼吸して?……すううう、はああ、もう一回、すうううう、はああああ。はい目を瞑って。もっかい深呼吸。すうううう、はああああああ。そのまま目を瞑っててね。律は大丈夫。律の歌声大好きだよ、俺。何にも怖くない。僕たちの前にいるのは敵なんかじゃない。仲間だよ。優しい仲間だ。完璧なんかじゃなくていい。今できる精一杯で十分だ。たとえミスしても何も悪くない。それが今の俺たちが奏でられる音楽なんだから。音楽は完璧じゃないから美しい。未完成がかっこいいんだ。未完成な僕たちは今最強にかっこいい。…はい、ゆっくり目開けて…?大丈夫、一人じゃない。僕がいる。そしてアツも桃花ちゃんもいる。ここはあったかいよ。」
僕の心臓が徐々にゆったりしていくのが分かる。さっき見えていた薄暗くてひんやりした世界がもう一度目を開くと陽だまりの中にいるような温かい世界に変わっていた。
「歌えそう?」
「……大丈夫。うん、行ける。」
“未完成がかっこいい”だなんて言われたらもう何も怖くないじゃないか。
僕の心の鎧は爪のように切っては伸び、切っては伸びる。
でも毎日時間をかけて丁寧に丁寧にゆっくり切ることで鎧は少しずつ薄くなっていく。今はまだ鎧が溶けては現れて、を繰り返しているけど、でも確実に僕は成長してる。
だって今、本当に心が落ち着いているんだから。
突然スーパーヒーローみたいに変身できるようになったり、突然謎の才能が発揮されるようなそんな主人公じゃないけど、でも僕は、少しずつ、一歩ずつ一歩ずつ前に進めてる。
そしてその一歩は確実に100歩先の未来につながってる。そんな地味な、何の特徴もない僕だけど、
僕だけが僕の人生の主人公だ。
「準備完了!」
「俺も準備完了!」
「「せーーーの」」
「道に迷って、ここがドッ…コかも分からなくなる時もぁるけど……」
声が震える。ピックを握る指先から汗が吹き出し、ピックが滑る。
落ち着け、落ち着け、落ち着け。
2人の視線を感じる。きっと僕が緊張してることを分かってるんだ。恥ずかしい、怖い、そんな嫌な感情が僕の中で駆け巡る。
声の震えが止まらない。薄い声しか、いつもの声が、でない……。
音楽は始まると止まらない。演奏をするにあたって、どれだけミスをしても演奏を止めることは許されない。止められない時間というものを強く感じる。
自分ではどうしようもない時間の速度とついていけない僕。
一旦心を落ち着かせる時間も音楽の中には無い。始まってしまえば止まらない恐怖に心も体も震える。
弦を抑える左手が震えて自分の手が自分の手じゃないかのように操作が上手くできない。
やっぱり僕は人前では歌えないんだ……
突如聞こえるボンボンと鳴るコンバスへの違和感に耳を傾ける。
真っ暗な視界が真っ白になった時、そこには僕を、僕の心の中を見つめ、全身でテンポを伝えてくるゆりがいた。
コンバスの違和感というのは“テンポ”だったんだ。ゆりはおよそ10bpm近く遅いテンポでコンバスを弾き始めた。
もちろんそれに合わせて僕もストロークとコードチェンジをするテンポを変える。
すると途端に僕の頭の中に透明の空白が生まれる。止められない時間に余裕が生まれ始める。
間奏部分で「すぅ、はぁ」と誰にも気づかれない程度に深呼吸を挟む。……よし、いける。大丈夫だ。
僕はひとりじゃない。音楽は敵じゃない。僕たちが自由に奏でるものだ。
もう一度目を閉じる。そこに映るのは温かいコンバスの旋律。
見える。さっきまで見ええていなかった温かいゆりの音が見える。
心臓を落ち着かせ、ピックを持つ指も、弦を抑える指先にも程よく力を込め、聞いてくれてる2人に感謝と、願いを込め、その想いよ届けと腹に空気を入れて、声を出す。




