黒原ゆり
そんなゆりの声がどこかからふわりと聞こえてくる。その声は耳に入ってくると言うよりも脳に直接響いているようだった。
「もうみんなが期待してるんだから!部長だってこの前そう言ってたし。まだ20代なのにすごいねぇ?」
「いや、丸山さんの方が」
「良いよ〜謙遜なんてしなくて!それに黒原くんレベルになったら最早自分に自信たっぷりあるんじゃない?年上なのにこんな僕が話しかけるなんてもう恐れ多いよ〜」
会社のホワイトボードを見ると2024年4月26日と書かれてある。いやおかしい。今日は2024年の7月のはずだ。
つまり僕はいま、過去のゆりの中に入っている...のか。
そして時折脳に直接語りかけてくる声は...多分ゆりの心の中の声だ...。
“みんな俺を優秀だって言うけど俺はそんなんじゃないのに...”
その言葉が響くと同時にとても悲しく、辛い感情になった。胸がドーンと重たくて、なんだかやるせない感じ。どうしようも無くて泣きそうになる...この感じ。
ゆりは“俺はそんなんじゃない”と言った。しかし僕のゆりへのイメージはまさに“優秀”である。どんなことも卒無くこなし、後輩のミスだってカバーする素敵な先輩でありながら先輩にも慕われる最高の後輩だ。それに優秀だなんて言われるの嬉しいはずでしょ?褒められてるんだよ?
なのにゆり...ねぇゆり...どうしてそんなに悲しんでいるの?どうしてそんなに泣きそうになってるの?
丸山さんはそうゆりに言い放ってすぐさま別の方へ行った。その先にいたのはまさかの僕だった。
「...あ!蒼原くん!蒼原くんも...ここ!間違ってたよ!」
「...うわっ、本当ですか...すいません...」
「時間空いてたから訂正しておいたからね!」
この日...そうだ。丸山さんが僕のミスをカバーしてくれた日。もうめちゃくちゃ助かったからよく覚えてる。
でもその光景を少し遠くから見つめるゆりの心はゾクッとするほどにとてもヒンヤリしていた。
“えぇ、俺のはやってくんねぇのに?何それ。いやまぁ元々は俺がやらないといけないことだけど...”
「えぇ!本当ですか?いや、本当にすいません...」
「最近疲れてそうだけど大丈夫?」
「んーまぁ色々ありまして...」
「まさかこの前話してたアレ?僕でよければ話聞くからね〜?」
「あぁそれですそれです、是非慰めてくださいよハハ」
“丸山さんは律みたいな後輩が好きなんだろうな”
“律はいい感じに抜けてるから先輩からするとそれが母性本能を擽るんだろうな”
“それに比べて俺は先輩方からすると何の可愛げも無い野郎なんだろうな”
ゆりは心の中でそう呟きながら自身のデスクに戻って指摘された間違いを急いで訂正し始めた。その間、ゆりの心はとても冷たく、ズーンと重たかった。
そしてそれは彼の視界にも影響し、ゆりの視界はグレーの色をしていた。
僕が感じたことの無い新たな劣等感。劣っているわけじゃないにも関わらず感じる劣等感の正体は何なんだろう。ゆりは周りがまるで全員敵かのように感じていた。
そして彼はずっと心の中でこう言ってる。
“俺は優秀なんじゃない。やらないといけない事を時間を使ってがんばってやってるだけだ。なのに天才みたいに...俺がすんなりココまで来れたかのように、言うな。何も知らないくせに。”
“こんな風に思う俺なんて、何も優しくも何ともない”
でも彼が誰かのフォローをしたり、頼られたりしている瞬間の心の中はとても温かくてやはりゆりはちゃんと優しい。でも、もっともっと奥にはお山座りした小さなゆりがいる。
その小さなゆりは小さな声で“俺はそんな凄くない”と呟き続けてる。
それもそのはずで、彼は優しいからどんな頼み事も引き受ける。さらにゆりへの“優秀”というイメージからそして自分のやらないといけない事が山のように増えていた。でもこんな完璧なゆりにも“損得勘定”はあって、どうして俺だけ...って何度も思ってきたんだ。
でもゆりは優しいし、きっと優しくありたいと思っているから断らないし、それを表に出さない。
そしてその度にゆりの中にいる小さなゆりがシクシクと涙を流していた。
こんなゆり...見たこと無かった。いつも優しくて本当に優しくて、頼まれた面倒事も爽やかスマイルで引き受けてるゆりの心の中がまさかこんなだったなんて。
そして次のシーン。これはゆりの家でのシーンだった。
僕は衝撃だった。
ゆりが、泣いている。机にある書類やバッグを地面に投げ捨てて、泣き叫んでいる。




