涙
「………て、……つ!…律!!!!!」
「え、」
そこには後ろから走ってきたであろう汗だくのゆりがいた。
「どうして……」
「なんかっ、ハアハア……律のこと、追いかけッ、てたら、ッハァッ、見失って、もう律どこいったんだー!って、思って、前見たら……いつの間にかここにいて…ここを走り回ってたら、律がいたんだ…」
ガッチャ…
ゆりに会った瞬間、ここの、この場所の時計が動き始めた気がした。
一歩後退りした。
今はゆりに会いたくなかった。ゆりはすごい人だから人間のスピードについていける。いいや、引っ張っていく人間だ。僕とは生きる世界も生きていく世界も違う。そんな人間様に会いたくなかった。
この場所でだけでもいいから、この自然に溶け込めるこの場所でだけでも僕は人間を辞めたかった。人間の肩書きを捨ててただ太陽に向かってただ伸びていく木のように生きたかった。
でもゆりに、人間様に会うと、彼らは“人間”の僕を思い出させる。
空が赤くなっていく。時間が進んでいる。不思議な時間が、終わる。そんな気がした。
どれもこれもゆりがここに来たせいだ。人間様がここに来たせいだ。
「…どっか行け、どっか行けどっか行けどっか行けどっか行けどっか行け!!!!もう、もう僕の前に現れるな!!もう、もうこの場所から出てけ!!じゃないと、じゃないと、……はやく出てけ!!!」
「じゃあ律は…どこに行っちゃうんだよ…?」
「え…?」
「律がそういうなら、俺どっかいくよ…けど、律そのあと帰ってきてくれる?…なんかここで律を放って帰ったら、なんかもう、律、いなくなっちゃうんじゃないかって、そんな気がするんだよ…なあ、帰ってくんの?」
「帰るって、どこに…?みんな、僕を置いてけぼりにして、僕以外で前に進んでいくのに、どこに帰る場所がある…?ゆりだってそうだ、ゆりだって、僕を、放っていくじゃんか…優しい言葉なんかいらないよ、表面だけの言葉なんかもう、聞きたくないよ…。『大丈夫』『俺はそばにいる』って言いたい?そうだよねゆり、優しいもんね。でも絶対なんて、永遠なんてこの世にはないよ。分かんないかなゆりには。両親もちゃんといて、友達も、彼女もいて、そうだよね、ゆりにはみんながいるもんね。いいね。僕とは生きる世界違うよ、ごめんね、もう7,8年も一緒にいてもらって。ごめんね、もういいよ、もう自由に生きて良いよ、ごめんねゆりに縋り付いてて。ごめん重たかったよね、邪魔だったよね、もう、もう、良いから。もう…」
パァァンッ!
「何言ってんの...?律が俺に縋りついてた...?......俺には分かんないかな、だと?意味わかんねえことほざいてんじゃねぇぞ!!おい!!!」
人間の涙には眼球の乾燥を防ぐ、異物や刺激を排除するためというそれなりに理解しやすい役割と感情による涙という仕組みや理由が理解しにくいものがある。
人間はどうして悲しくなると涙が出るのだろうか。どうして僕の頬は濡れているのだろうか。
これは目の前の怒ったゆりに頬を打たれるという刺激に対処するための生理的な涙なのか。それとも僕は悲しいのだろうか。
もしそうなら、どうして僕は今悲しいのだろうか。
「律...お前は俺のことそんな風におもってたのかよ...なぁ!!本当のこと言えよ!!......泣きてぇのは...俺の方だ...衝撃で涙も出ねぇよ。」
そうか。
人間は極度の刺激を受けるとその対応が間にあわず、涙が出ないという事もあるのだそうだ。そうか。
「...どうして、僕は、泣いてるんだろう...」
風が吹き始めた。同時に周りの草木がシャーと音を出し始める。
草木が、山が、暴れ始める。
「ねぇ、どうして僕は今......泣いているの?」
気づけばゆりは棒立ちの僕を抱き締めていた。やさしく、やさしく、やさしく抱き締めていた。大人にもなって誰かに抱きつかれるのは彼女以外で初めてだった。
長年一緒にいたゆりの体温を初めて感じる。
「......もうお前、消えそうで、怖い。...お前、すげぇ冷てぇよ...。」




