第7話 鍛冶場の赤
止まっていたのは、三つ数えるあいだだけだった。
四つ目で、歯車はまた何事もなかったように回りはじめた。けれどベルの手は、その三拍の沈黙を覚えていた。 その朝、ベルは遠回りをして、広場の縄の前を通った。 あの亀裂は指二本ぶんに広がっていた。霜のような白い縁が、昨日より長く伸びている。誰も気にとめていなかった。 しゃがむと、亀裂の奥から、ごく小さく、歯車が噛みあうような音がした。足の裏に来る大時計の拍とは、合っていなかった。 放課後、工房でステッキの外殻を開けた。 中の歯車は五つ。拡大鏡を当てると、二番目の軸受けの内側に、髪の毛ほどの段差ができていた。広場で中心軸に紋章を叩きつけた衝撃が、ここまで届いたのだろう。指の腹でなぞる。いくらか感覚の戻った指先に、ほんのかすかな引っかかりが触れた。
「替えの部品は」
「ないわね。同じ合金を作れる人間は、もうこの街にいない」
削り直すしかない。けれど工房の旋盤は、この精度を出すには振れが大きすぎる。 窓の外に細い煙が見えた。石炭の黒い煙より色が薄い。学校の裏手、鍛冶科の実習小屋の煙突だ。
◇
鉄の扉は重く、押すと蝶番が甲高く鳴いた。 熱気が顔に貼りついた。コークスの焼ける匂いと、焦げた革と、汗。眼鏡が一瞬で曇り、瞼の裏まで乾いていく。天井の低い小屋の奥で炉が赤く口を開け、その前に少年がひとり立っていた。 赤毛を短く刈っている。革の前掛けの下は、袖をまくった制服のシャツ。トングの先で、焼けた鉄の棒が火の粉をこぼしていた。
「何の用だ」
低い声だった。こちらを見もしない。 少年は鉄の棒を金床に置き、ハンマーを振り下ろした。かん。火の粉が散る。かん。同じ高さ、同じ間隔。叩かれるたびに、丸い棒の角が少しずつ立っていく。振動が床を伝って、ベルの靴底まで届いた。 ベルは扉の前で、その音を聞いていた。父が歯車を組むときの手の拍に、どこか似ていた。
「……機巧科のクロックワークだろ」
少年が手を止めた。
「放課後の工房を一人で占領してる変わり者がいるって聞いてる」
「変わり者」
「褒めてる。放課後に一人で残ってるやつは、たいていまともじゃない」
少年はトングで鉄を炉に戻した。鞴を踏むと、炉の奥が橙から白に変わり、ごう、と低く吠えた。
「ルスト。鍛冶科の二年。……覚えてないだろうな。お前の親父さんの工場に、うちの親父が鋼を納めてた。お前が床に座りこんで歯車を並べてるのを、俺は後ろから見てた」
記憶の底で、何かが動いた。鋼材の束を担いだ大柄な男と、その陰に隠れていた、赤い髪の小さな子。
「……私より小さかった」
「今は俺のほうがでかい」
ベルは鞄からステッキを出し、外殻を開けて見せた。 ルストの目つきが変わった。 ステッキを受け取ると、重さを確かめるように掌で一度弾ませ、耳もとで軸を爪で弾いた。高い音が小屋に響き、炉の唸りに溶けていく。
「……いい鋼だ。この街の配合じゃない。それに、噛み合いの角度を一段ずつ変えてある。四十三、四十五、四十七。回転のむらを逃がすためだ」
ベルは息を止めた。角度が違うことには気づいていた。理由までは考えつかなかった。
「軸受けが〇・〇八ミリ減ってる。うちの旋盤なら戻せる」
ルストは握りの部分に目を落とした。親指で、黒ずんだところをなぞる。
「……ずいぶん長いこと、同じ手で握られてたな。握り癖が鋼に残ってる。お前の手の癖とは違う」
ギアが肩の上で、翅を固く閉じた。
「明日の放課後までに直す。その代わり」
ルストが顔を上げた。
「こいつが何なのか、いつか教えろ」
「……いつか」
ステッキが手から離れた。三日のあいだ毎日握っていた重さがなくなると、手のひらが妙に頼りなかった。 その夜、ベルは眠れなかった。 枕元にステッキがないせいだと思った。窓の外で、夜勤の工場の汽笛が長く鳴った。午前二時を過ぎたころ、カーテンレールの上でギアが身を起こした。
「……ベル」
暗闇の中で、翅が橙に光っていた。
「来るわ。明日の朝、第七街区の地下」




